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「良い介護」 と 「必要な介護」

お元気ですか。

どてさんぽ です☺︎

最初に、
この記事の中で使う言葉、「良い介護」と「必要な介護」を定義します。 

「良い介護」
本人や家族が喜ぶであろう支援。介護計画には含まれないが、介入した結果周りの人を笑顔にしたり暖かい気持ちにしたりすることのできる介護 
「必要な介護」
介護保険制度の趣旨にのっとり、例えば、社会に参加する機会を持てるように調整する、活動量を維持できるように介助量の調整をする、生命を守るための安全な介助をする等、客観的な指標を用いて本人の状態を評価した結果、内容が決定される介護 

 
相手を理解しようとする、 それだけで支援のエネルギーの大部分を使う人がいます。 一方で、他の人がすぐには気が付かないような非言語的コミュニケーションや、雰囲気そのものから相手がその時何を感じているのか、どの部分を助けてもらいたいと思っているのか、察することのできる人がいます。

 一般的に、相手に関心を持ち、頻度多く関わり、相手を理解しようとすることの出来る人が、「良い介護」をしている人として評価されます。 

ところで、介護現場には様々な働き方をする人がいます。 常勤、非常勤職員、ボランティア、宿直専従、日勤中心 などなど、本当に様々な立場の方が介護援助を行います。 

 興味深いのは、 相手を理解する深度も、関わりに割ける時間も、個々人で異なるものであるところ、より利用者や家族を喜ばせるような配慮を出来る方は、責任の範囲が同僚と同じであったとしても、その現場内で優位性を持ちやすい傾向があるのです。

 “良い介護をしようとする人” “相手の気持ちに寄り添う人” のケアは家族からの信頼を得ます。

 「○○さんが働いている場所で最後までみてもらいたいわ」

 一見、素晴らしいことのように思えます。また、「良い介護」の価値は賞賛されてしかるべきと思います。しかし、この優位性が介護現場では問題となる場合があります。

***

 もう何年も前に、「あの人は介護職として適任ではないからやめてもらった方がいいです。」 あるご家族や利用者から信頼される「良い介護」の実践者である介護職員からこんな相談(指示?)をされたことがあります。 

理由を聞くと 「○○さんがトイレ介助をすると、利用者さんが不穏になって暴れるんです。」 「それに対してなんだかひどい言葉を使うんです」 

 ―ひどい言葉?具体的には?

聞いてみると 「ちょっと覚えていません」 

 ―そうですか… 

その時の会話はそこで終わったけれど、
○○さんが、どうもあやしい、虐待をしているかも?この職員さんが言うのだから、そうかも?

 浅はかにも、そんな印象を抱いてしまいました。なにしろ、家族や利用者からも信頼されるような「良い介護」をしている職員の話なのだから、本当のことかもしれない(それにしては具体性に欠けるのが気になりますが)と先入観が働いたのです。

この話で伝えたいことは、 周囲から信頼されていた介護職員が、職場では王様のようにふるまっていた、けしからん!などという愚痴ではありません。また、「良い介護」自体に関しては何も言及しません。(念のため) 

後で振り返ると、
利用者やご家族に評判の良い方が、本当に24時間を通して利用者に「必要な介護」が可能となる体制づくりに協力していたのか、という確認が必要だったのです。

 そして、「良い介護をしている人」も、一人で介護をしているわけではないようだ、ということにも気づいたのです。

***

さらに数年後、帰宅願望により、夜間に住居内をひたすら歩き続ける利用者の短期宿泊を受け入れたことがあります。

その方に対して、外から見ていてとても自然に相手に関心を向けているように見えた介護職員がいました。いつでも 利用者に優しく接する姿を横目でみながら、相手を自然に受容することが出来ている人だと思っていました。

 でも、彼女は利用者に接する中で辛さを感じていました。
家族の事情により、短期宿泊の利用日数が延長になったとき、彼女はこう訴えました。「受け入れの日数が決まっているなら、その日数までと気合を入れて覚悟を決めて頑張ることは出来る。だけど、実際には心がきつい、苦しい」

 ―彼女の中で何が苦しいのか、実際のところはわからないけれど、 家族を探してひたすら歩くその方に対して気の毒な気持ちがあるということを話していたように思います。

 ご家族は、その介護者を信頼し、その介護者のいる事業所を信頼しておられました。

 一連の流れをみて感じたことがあります。

あ、受容は自然なことじゃない。 そうだよな… 覚悟決めてやってるんだよな…
 その覚悟をあたかも無いかのように心の中にしまって、負担にならぬように、ご家族には自然に湧き出る思いやりとして表現しているんだ。

 … 私はひねくれ者かもしれませんが、 一方でこうも思いました。

 その覚悟は、彼女一人のものではない。介護は24時間、職員から職員へバトンを渡しながら行われるもので、彼女にとっての「良い介護」を24時間の中で実現するために、関わる職員が介入の仕方を一致させる必要がある。
そのための情報を細かく共有する必要があるのだけれど、 そもそもその情報自体がその職員から共有されなかったり、共有の難しい無意識の配慮が含まれているので、その職員ができる「良い介護」をほかの職員は利用者に提供できないことがある。

このままでは、その職員自身が自分の苦しさによって周囲を振り回すという、本人には責任の取れない事態が発生させてしまうかもしれず、
配慮出来る職員は、配慮出来ない職員よりも優れた職員という構図が出来上がってしまう。

 さらに、周囲を見渡せば、できている職員と同じように「良い介護」を行わなければというプレッシャーで介護を続けられなくなる職員もいることに気づきました。

***

これらの経験をするうちに、

私できます、覚悟できてます、よいケアできます!
というその人に、 家族に信頼されているその人に、「良い介護」をする覚悟をさせてはいけない。

  運営する側として思い知るようになりました。

 「良い介護」ができるかを競い合う前に、 24時間その人に「必要な介護」支援が提供されるように職員全員で協力する。その覚悟を持っていただきたいと思ったのです。

(それが、要介護度に応じた報酬体系を用意している介護保険制度の求めている役割ではないかとも考えるのです。)

「良い介護」は賞賛されてしかるべきだが、「良い介護」は、一人ではできないのです。

これまでの人生でお付き合いのなかった人のことを理解しようとするだけで疲れ切り、反応がない相手を前に、相手のことを理解しているかのように、あいづちを打っているかのように一人芝居を演じ、自分でも何をしているんだろうと思い 、家族からは「あの人は○○さんよりも気が利かない」と言われ続け、 だんだん支援する相手よりも自分が可哀そうに思えるような介護になっていると悲しくなってしまう。

そういう人のことを、「良い介護」ができないからと排斥してはいけないのです。

今のところ、「良い介護」をする特定の職員の優位性を私は信頼しません。
 全員が、その人にとって「必要な介護」をすることができ、利用者の間でも職員の間でも、各人の立場に応じた相対的平等が担保されるような環境を維持することを優先できる職員を信頼するようになりました。

 本人のためにこれをするのが良い、ではなくて、事業所全体でこれを継続することが可能か?という視点をもって支援内容を決めることが、対応に悩む事例ほど必要になると実感しています。

「良い介護」は、一人だけの覚悟ではしない。するときは、皆の覚悟ですること。  

このことをお互いに了解できない職場環境は、 事業所を壊しかねないということを知りました。

                            ではまた👋

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