迷いを断ち切る 仏教の瞑想と智慧に学ぶ
究極の選択ってあるよね。会社にとどまるか、それとも転職するか。
いま付き合ってる子と結婚するか、それとも別れて新しい子を探すか。
こういう究極な選択を迫られるときには、瞑想してみると言うのもいいんだよ。
仏教には八つの正しい道というのがあって、八正道と言うんだけれども、最後は正しく禅定すると言うものなんだよ。
そして禅定の結果得られるものが智慧なんだよ。
よく仏教の菩薩に、文殊菩薩というのが出てくるよね。この菩薩は刀剣を持っているんだよ。仏教なのに、なぜ刀剣を持っているかと言うと、これは智慧を象徴しているんだ。
正しく瞑想した結果得られるものが、智慧なんだよ。そして、この智慧によって迷いを断ち切ることを象徴しているんだよね。
だから仏教には、究極の選択を、智慧を持って断ち切るというのが出てくるよ。
例えば、お釈迦様が王子として生まれ、故郷に残るか、それとも出家して仏教教団を起こすか。これだって当時としては究極の選択だろうね。
お釈迦様が王子として国を継いでいれば、釈迦国は無事安泰だっただろうけれども、出家することで、滅びてしまったからね。
だけども、その代償として、仏教と言う素晴らしい教えが残って、中国やタイやスリランカや日本に伝わって、高度な文明が生まれたわけだからね。
結局、智慧というのは、慈悲につながっているんだね。
慈悲と言うのは、あのガンジス川のように、多くの人を潤すと言うイメージだよね。
そういえば、最近ヒットした映画で、ディアファミリーという映画があったけれども、あれも究極の選択だったね。
心臓病の娘のために人工心臓を作り続けるか、それともバルーンカテーテルを作って他の子供を救うか。悩みに悩んだ末に、やっぱり多くの子供の方を選択したんだろうね。
実の娘は死んでしまったけれども、多くの子供が救えたから、やはりそれは慈悲の選択だったんじゃないのかね。
だから、究極の選択で答えが出ないときには、いちど静かなところで瞑想してみて、智慧を授かると言うことも大事かもしれないよ。