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【読書感想文】安堂ホセ「デートピア」関心領域というコンセプトが隠したもの
「最近の日本の小説は、スケールが小さい。コンビニなんかが舞台となる時代だ。」
時折、大学時代にリービ英雄が「コンビニ人間」の芥川賞受賞に対してボヤいたことを思い出す。SNSで森羅万象、知った気になれる時代。かつて宇宙を目指していた人類は、うちへうちへと引き篭もり半径数メートルの世界で暮らし、モニタ越しに共有される、もとい共有されているように思える社会を「広い」と思い込んでしまっているのではないか?井の中の蛙であることにさえ気づけていないのでは?そんなことを思う。
さて、リービ英雄が今、どう思っているのかはわからないが、スケールの大きい作品が第172回芥川賞を受賞した。「ジャクソンひとり」でデヴィッド・クローネンバーグ映画さながらの世界観を提示し、世を驚かせた安堂ホセ。彼は、またしても映画批評を盛り込みながらパワーアップした作品を放ったのである。
その名は「デートピア」。
白人女性・ミスユニバースを巡って、世界各国の男が取り合う。その様子をリアリティショーとして放送する。この番組名を冠した「デートピア」は、メディアが有する植民地主義たる要素を痛烈に風刺して魅せる。
「デートピア」の舞台はフランス領ポリネシアのボラ・ボラ島。といっても多くの人に馴染みのない場所なので《タヒチ編》と呼ばれている。ボラ・ボラ島は環礁となっているのだが、都市開発の容易さから、まるで先進国が領土を分割するようにホテルを建てたりしている。そこに、世界各国の男、番組に即したようにステレオタイプ化された男たちが、白人美女を巡って激しい掛け引きを行う。
鑑賞者は本編と併用してサブスクリプションサービス「DTOPIA tracking」を使用し、アーカイブされた膨大な映像から文脈を見出そうとする。「映画を早送りで観る人たち」よろしく、結末を先に知った状態で、彼らの行動心理を探るようにコンテンツに接し、考察文化を助長させていく。
映画も『劇場版プロジェクトセカイ 壊れたセカイと歌えないミク』や『機動戦士Gundam GQuuuuuuX Beginning』、『劇場版 忍たま乱太郎 ドクタケ忍者隊最強の軍師』のように瞬間的ないし断片的な関係性が数珠繋ぎとなり、それを読み解くよう考察を促す作品が増えているように思える。
VTuber界隈では「にじGTA」を始めとし、特定のゲーム内で大勢が文脈を構築し、その残されたアーカイブを視聴者が読み解き解釈していく、切り抜き動画が作られるコンテンツが人気を博している。
「デートピア」はアクチュアルなコンテンツ体験を軸に物語ろうとしているところが興味深い。それに絡むように第96回アカデミー賞に対する痛烈な批判を畳みかける。
春のアカデミー賞で候補になった『バービー』『オッペンハイマー』『哀れなるものたち』『アメリカン・フィクション』『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』といった映画はどれも、二十世紀に白人が残した負の遺産をセルフ懺悔するコンセプトを持っていた。バービー人形という白人ルッキズムと資本主義の合成物。原爆。男女差別。黒人と白人の格差。ネイティブアメリカン虐殺。もう誰の責任か追及できないくらい昔の、すでに起こってしまった過ちを、白人俳優たちが「私たちは自分の愚かさをちゃんと分かってます」って顔で演じてみせる映画を、ハリウッドは強迫観念のような勢いで量産した。
ここ数年のアカデミー賞は行き詰っているように感じる。その末路が、コンセプト重視の映画の見本市へと繋がってしまっている。そのため、ここ数年はアカデミー賞への関心がすっかり失せてしまった。そんなハリウッドの病理を安堂ホセは的確に指摘した上で、大胆な「フェイク」を仕掛ける。
作品賞を受賞した『関心領域』もまた、ナチスのホロコーストをスタイリッシュにまとめた、白人懺悔の文脈を引く作品といえた。
我々は知っている。第96回アカデミー賞作品賞に輝いたのは『オッペンハイマー』だということを。『関心領域』は国際長編映画賞を受賞したにすぎない。しかし、「デートピア」では、『関心領域』を作品賞とすることで、物語全体に鋭利なナイフを突き立てる。
自分自身、CINEMAS+で寄稿文【<考察>『関心領域』問い直される「悪の凡庸さ」について】を書いている。ハンナ・アーレントや『SHOAH』の文脈からどのように『関心領域』を捉えるべきかを綿密に解説した。この記事は多くの方に読まれ、サイト内ランキングもトップテンに入るほど好評だった。しかし、一方で本作を2024年のワースト映画に挙げている。理由としては、大きくわけてふたつある。ひとつは、想像通りのものしか出てこないことにある。ホロコーストを扱った作品で、犠牲者の姿はほとんど画に映らない。見てみぬ振りをする者を告発している。このコンセプトで完結しており、映画表現として深みが全くないところにある。実際、ホロコースト当事者のインタビューを繋ぎ合わせた9時間のドキュメンタリー『SHOAH』は、取材映像の羅列だけに見える内容でありながら次々と語られる凄惨さに驚かされた。そういった驚きがあってこそ「映画」だと思っているため、ノレなかった。さらに、本作はホロコーストや戦争、紛争を知った気になる、または理解者として装う道具としての機能を果たしてしまっている罪深さがある。
コンセプトだけでいいのだ。細かい議論は切り捨てられた。例えば、今イスラエル政府が起こしている虐殺について、ナチスのホロコースト映画を通じて把握しようとすることは「まだナチス以上の惨劇は起きていない」という安心や傲慢さに基づいているのではないかということ。
安堂ホセは『関心領域』を通じて、コンセプトに押し込められて切り捨てられた人々の側面に目を向ける。それは映画の構成に結びつき、第1部で「Mr.東京」こと井矢汽水の性格を知った気になった我々も、第2部で彼や語り手の過去が明らかになると、その複雑さ、生々しさ、凄惨さから「何も知らない」を突き付けられるのである。これは、別の要素を持ってイスラエル/パレスチナ問題を単純化し、理解しようとする者の傲慢さへの批判へと繋がってくる。この慧眼な構成に惹きこまれた。
一方で、本作はコラリー・ファルジャ『The Substance』のように、個とメディアの外側にいる群衆との結びつきが希薄なように思えた。一貫して「デートピア」関係者の目線から、番組をメタ的に捉えることに集中している。だが、「DTOPIA tracking」であたかも出演者のことを知った気になり考察することに対する加害性。ネットリンチやガチ恋勢の執着が出演者に影響を与える様をもっと深堀りしてほしかった。もちろん、視聴者や番組内でのトラブルを政治的に解決しエンターテイメントへと昇華させる部分はあれども、現実はもっと生々しい政治戦が行われている。そこの掘り下げがあれば、若干政治論の陳列にも感じる部分に必然性が見えてくると感じた。
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