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第37回東京国際映画祭レビュー一覧
2024年10月28日(月)から開催されている第37回東京国際映画祭。今年は、事前観賞含めて20本近く観るので、noteにレビューをまとめました。
星は5点満点です。
【コンペティション】
1.アディオス・アミーゴ(Adios Amigo)☆☆☆☆
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監督:イバン・D・ガオナ
男が追われている。叢に身を潜め、敵をやり過ごすとにかっと笑みを溢す。緊張感を保ちつつ、道中を歩いていると人影に気づき、凝視をする中で捕まってしまう。弱肉強食、いつ死ぬか分からない世界では、捕える者/捕えられる者の間で流れる時間は長い。カメラは双方の息遣いを捉えているのだが、そこへ移動式カメラ屋の青年が通りかかる。興味半分で、捕える者たちが、捕えた者と一緒に写真を撮ることとなる。銃を向け、英雄譚を画に収めようとする中で、刹那の隙を狙い男は血祭りに上げる。
セルジオ・レオーネ的間延びした時間がここまで理論的に活用されている例は少ないだろう。生死の彼岸に立つ者の間で流れる時間を、写真撮影における待機時間に転嫁させ、決定的瞬間の訪れを盛り上げていくのだ。
本作は、ジャンル映画でありながらこのように理論を練り上げていく他、新規性のある画を構築していくところも注目である。村において、司祭軍団と写真家一味が決闘する場面がある。おじいさんが「不吉な気配がする」と事前に語る。司祭軍団が松明を放り投げるも、それをおじいさんの銃弾で無効化。一触即発の中、写真家の撮影によって決闘の瞬間を捉えることとなる。今度は女対女である。決着はつく。すると曇天へ豹変し雨が降るものの、その曇天に虹が紛れ込み、土煙舞う画が捉えられる。幸運も不運も共存した世界を象徴するような画となっているのだ。
人間的リアルさを持った時間の中で、運命という魔法が絡んでいく中で、『続・夕陽のガンマン』と同じ構図をラストに持っていく。このアレンジに惹きこまれた。3人の男が決闘をするのだが、その場所はドラッグによって転送された虚構的空間なのだ。この世界には、魔法の土のようなものが存在しており、それを吸引すると即座にモノクロームの世界へと転送されてしまう。3人がその空間の中で決闘し、誰が先に目を覚ますのかへと発展していく。単なるオマージュではなく、マジック・リアリズムを絡めた異次元決闘へと持ち込む演出の妙に感動した。
確かに、音楽は大げさで過剰な問題はあるのだが、個人的に好感しかない作品である。
ちなみに、後から知ったのだが、本作は元々テレビシリーズだったようで本作は総集編にあたるとのこと。どうりで、「きみ、誰?」みたいなキャラクターが多かったわけだ。
2.死体を埋めろ(Bury Your Dead)☆
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監督:マルコ・ドゥトラ
「黙示録」をテーマにした7章からなる物語。動物の死体処理を行うおっさんを中心に、終末の気配が漂うといった内容。軸として「不安」「宗教」が存在しており、人間が制御できない自然を強調するかのように、石の雨が定期的に街を襲う。人類史において、このような自然における不安を取り除く手法として宗教が用いられてきたわけだが、その宗教ですらどこか怪しげなものがあり、不安の吐口がない者の内面が夢に浮かび上がり、やがては現実のものとして表面化する。宗教サイドから見ると、それは「悪魔」であるが、ではその宗教はどうなのか?
露悪的な死体の羅列を通じて、宗教と人間心理の関係性を模索する意欲作であるのだが、全体的に話が散漫となっており、突然『タイタニック』のメロディに合わせてバトルが始まるところに面白さが凝縮されるのだが、これはテーマとの結びつきが弱いように感じられ、ただの面白描写止まりとなっているのが残念であった。
3.彼のイメージ(In His Own Image)☆☆
監督:ティエリー・デ・ペレッティ
本作はコルシカ民族解放戦線を追う女性ジャーナリストの思わぬ死をトリガーに恋人目線から彼女の活動を追う内容である。
実は『スウェーデン・テレビ放送に見るイスラエル・パレスチナ 1958-1989』『シビル・ウォー』と共鳴するものがあり、退屈な作品でありながら興味深い要素を持っている。
前者を重ねると「メディアはどう事象を語ったか?」に力点を置いている。主人公はスペクタクル的な画により表層的な語りとなってしまい陳腐な自己が形成されることを回避しようと葛藤しながら取材、編集、レビューの工程をこなす。写真の背景に特化した作りとなっているのだ。
そこで『シビル・ウォー』が対岸の映画として光る。『シビル・ウォー』は戦場カメラマンに必要な意図的に思考停止させる瞬間を捉えるため、スペクタクル全振りな作品となっている。一方、こちらではコルシカ民族解放戦線の過激で凄惨な殺戮の事実があるにもかかわらず、その凄惨さはスペクタクルとして映画に取り込まないよう抑えている。カフェで銃殺され、血溜まりができている場所を撮影する場面ではロングショットで彼女を収め、カメラを向けることにより死角付近にいる死体の存在に気づかされるものとなっている。
しかしながら、タイトルが『彼のイメージ』となっているものの、目線が散漫となっており、「これは誰目線の話なのか?」と疑問になる場面が多発していて、丁寧なようで随分と雑な映画に感じた。
4.敵☆☆
監督:吉田大八
食事を作る、PCに向かって執筆する、たまに人と会う。そんなルーティンをこなす渡辺儀助の日常をジャンヌ・ディエルマンのように淡々と追っていく。当然ながら、その過程でほころびが生まれ、本作のテーマへと繋がっていく。
渡辺儀助は2つの方法で思索を外部化している。ひとつはPCである。そしてもうひとつは、他者だ。彼自身は孤独を受容し、質素であると自覚しながらも毎日豊かなご飯を作り嗜んでいる。遺言状も書き、この世に未練はなく、あとは来るべき死を待つだけなのだが、その平穏は他者の存在によって成り立っていることが段々と分かっている。老体でありながら、先立たれた妻のことは心のどこかに引っかかっており、性欲もある。表面上は抑えているように思えるが、教え子を家へ招く中で性欲が起動する。結局のところ、本当の孤独を受容している訳ではなく、他者、もとい女に孤独の痛みを吸収してもらって平穏が訪れているだけなのだ。
対話の場の喪失、PCがコンピューターウイルスか何かで起動しなくなる2つの条件を満たしたとき、渡辺儀助は「本当の孤独」と対峙せざる得なくなる。無意識が干渉してくる夢において、他者との対話を行う必要が出てくる。その中で、彼が抱く恐怖が現出してくるのだ。つまり、依存先を失った者が内なる他者と対話することで孤独を捉える話であり、おじさんおばさんが若者に執着する心理を風刺している。
ここまで書いて面白い映画だとは思ったものの、演出に難があり乗れなかったことを報告したい。まず、食事の描写であるが、執拗さの割りにそれが効果的に思えなかった。ほとんどの料理が等価に扱われているのである。夢による妻との対話によって痛みが軽減されると共に現実が凄惨になる『異人たちとの夏』のような展開を期待したが、彼がわびしい食事をするのはカップ麺を落とす場面1か所のみ。微かに洗面台の雑然とした食器を魅せていたりするが、食事のクオリティへ直結しているわけではないので分かりにくい。「失われた時を求めて」に出てくる食事を背伸びして作る場面も、前後の対比で食事の全体像を魅せていないので機能しているようには思えなかった。
ふたつめに、ダークコメディ要素がノイズで終わっていた点にある。PI上映では爆笑の嵐ではあったのだが、安易なヒッチコックオマージュであったり、犬の糞を使ったギャグがテーマの重さに見合っていないように感じ、ただただ下品であった。
最後に、本作は料理を作る運動のほかに、棚卸しをする運動が並行して描かれている。渡辺儀助の思索のメタファーとして棚卸しの反復があるのだが、料理を作る描写同様映画全体としての運動の差異を描き込めておらず、演出の効果を十分に発揮できていなかった。
結果として全くハマらず虚無の刻を過ごしたのであった。
5.士官候補生(Cadet)☆☆☆☆☆
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監督:アディルハン・イェルジャノフ
第37回東京国際映画祭のコンペティションは全体的にあまり良い作品がないように思える。だが、その中で邪悪な光を放つ傑作が存在していた。それがアディルハン・イェルジャノフ新作『士官候補生』だ。『イエローキャット』で細かすぎて伝わらないアラン・ドロンの物真似芸人たる人物のユニークな物語を放ったアディルハン・イェルジャノフだが、今回はガラリとテイストを変えてきた。例えるならば、エミール・バイガジンが「モブサイコ100」を撮ったかのような陰惨なサイコホラーだったのだ。主人公のセリックが影山茂夫にしか見えないこともあり、ジワる一方で、背筋が凍るほどの露悪的な恐怖描写の連続、アクセル全開な暴力描写の連続に圧倒された。中途半端な「露悪的」を全て吹き飛ばすほどの威力を持った怪作であったのだ。
影山茂夫そっくりな少年セリックが士官学校へ入学する。どうやら歴史教師である母親のコネにより、自分が教える学校へ裏口入学させてもらったらしい。しかし、丸坊主を拒否するセリックは秒でイジメの標的となる。そして、速攻で退学となる。明らかに士官学校向きでなく、通学を望んでいない彼は退学RTAを成功させるわけだが、母親は意地で再入学させる。その結果、セリックの周りで不審死が多発するようになる。
本作は、黒沢清やJホラーのように、じっくりにじり寄るような恐怖描写が特徴的である。たとえば、セリックがバスケットボールをする学生たちに混ざらず、虚空を見つめる場面がある。彼の眼差しには、座っている学生が映っているのだが、ふと右上に目線をやると、ぼぅっと髑髏が浮かび上がるのである。また、トイレではギィっと突然扉が開き始めたり、会話の途中でコップが不自然な落下をするなど異常現象が多発する。
この予兆の連続によりサイコレベルが蓄積されていき、「100%」に到達したとき、凄惨な事件へと発展する。この凄惨な事件の手数が非常に多い。肥満体の学生が突然、首を斬り裂き、オレンジジュースを飲む。橙が血を染めていくといった高い芸術点を叩きだすのである。
流石に観客賞やグランプリは絶望的ではあるが、アディルハン・イェルジャノフの新しい才能と遭遇できて満足である。
P.S.劇中、不自然な場所で怒号が聴こえ、てっきりそういう演出なのかと思っていたら、客席でスマホのライトにブチ切れた観客がいたらしい。治安ゴッサムシティな東京国際映画祭なのであった。
6.お父さん(Papa)☆☆
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監督:フィリップ・ユン
息子、母と娘を殺害。精神病を患っているとして無期限の病院送りとなる。父親は、どうしてこうなったのかを回想していく。食堂で妻と出会い、結婚。2人の子どもを引き受け、大衆食堂を切り盛りする。思春期になった息子を店でバイトとして働かせるも、出前を盛大にミスって大惨事になったりする。親と子の間に溝が生まれついに殺人が起こる。
ミステリー仕立てとなっており、Xデーに向かって日常の断片が展開されていく。そのエピソードは面白いものが多く、妹に向かって「ドラえもん小話してあげる。あれは全部のび太の妄想なんだよ。お前が好きな出来杉くんもいないんだよ。」と出来杉くんガチ恋勢の妹の心を粉砕していく展開には爆笑するものがあった。
しかし結局、彼があそこまで精神を病む要因が分からず、あの状況なら父親を殺すようにしか思えず、真相は藪の中となってしまった。いや、それなりに面白いので寝てはいないのだが、なんで彼が殺人を犯し精神病になるまで追い込まれたのか分かる方教えてください!
7.大丈夫と約束して(Promise, I'll Be Fine)☆
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監督:カタリナ・グラマトヴァ
今年のコンペティション作品はどうも打率が低く、ピンと来ない映画だらけで頭を抱えている。その中で観た『大丈夫と約束して』は本祭最凶の虚無を発揮する作品であった。
退屈な田舎町でヤンキーたちがバイクで走り回ったりマクドナルドで下品にふざけたりする中、主人公は母の面影を追い求め幻滅するといった内容。雰囲気的に『Tilva Roš』に近いのだが、閉塞感ものにありがちな仄暗いトーンで徹頭徹尾走り抜けていくだけとなっており、観客が主人公同様「虚無の刻」を擬似体験する仕様となっている。
自分が映画に求めるものは、分かりきった閉塞感をユニークな角度から捉えることで社会を掘り下げる様であり、分かりきったことをただやるだけの映画に価値を見出すことができなかった。
一番、大丈夫じゃない映画だろう。
【ワールド・フォーカス】
1.ダイレクト・アクション(Direct Action)☆☆☆
監督:ギヨーム・カイヨー、ベン・ラッセル
本作は過激派農村コミュニティの活動を定点的に捉えた作品である。2012年から2018年にかけて自治区を設立し、2018年には国際空港プロジェクトを撃退し、現在では環境保護運動に取り組む活動家、不法占拠者、無政府主義者、そして農民からなるエコテロリスト集団の集落を小川紳介っぽいタッチで捉えていく。
エコテロリストと聞くと、暴力的な組織のように思えるが日常は穏やかであり、自給自足のような共同生活が行われている。誕生日を祝ったり、協力しながら木を加工したり、クレープを焼く人々の様子は牧歌的といえる。
しかしながら、映画が2時間半過ぎたあたりから本題に入り、トラクターや人海戦術によるデモが映し出される。個人的には、黄色いベスト運動の時の警察の方がよっぽど暴力的である気もするが、催涙弾らしき煙が漂う中で主義主張していく様はなかなか強烈である。
2.ファイヤー・オブ・ウィンド(Fire of Wind)☆☆☆
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監督:マルタ・マテウス
本作はポルトガル史における搾取の構図を絵画的構成の連続でもって抽象化していく内容である。その画の美しさ、単純に絵画的に還元されない構成に目を惹く。たとえば、ブドウを採取する者を草むら掻き分ける構図でカメラは捉える。天と地の境界からオケが放たれることで躍動感ある運動となる。また、点描画の再現として植物の粒度が活用され、死体をモザイク状に表す。橙と黒の境界線を手掛かりに導線を追うと、ヒトの存在を確認。認知と同時に陰からヒトが歩み寄る。
また、『ファイヤー・オブ・ウィンド』ではユニークな空間が採用されている。通常、「高みの見物」という言葉があるように、高所は搾取側を立たせるように思える。しかし、ここでは自然(=ブドウ)を扱う者が自然(=黒い牛)によって、木に追い込まれ地を踏めなくなる。つまり、不自由を象徴するために「高所」が使われているのだ。
そんな、農民が団結し、銃を取る。体制側だろう軍人すら仲間に加え、地を強制的に奪い去る。そして地の強奪に成功したら、銃を捨てる。この流れは警戒すべきだろう。暴力を都合よく使っているからだ。
この手の映画は合わないことが多いのだが、長所短所込みで面白く観た。
3.スウェーデン・テレビ放送に見るイスラエル・パレスチナ 1958-1989(Israel Palestine on Swedish TV 1958-1989)☆☆☆
監督:ヨーラン・ヒューゴ・オルソン
ヨーラン・ヒューゴ・オルソンは『ブラックパワー・ミックステープ アメリカの光と影』でもテレビ局のフッテージを用いて歴史を語るドキュメンタリーを作っており、アーカイブ映画の文脈で重要な監督になりつつある。2018年にスウェーデンテレビのアーカイブに基づいたプロジェクト「May 68」に取り組んでいた際に、本作のアイデアを思いつき、監督は数千時間あるフッテージを抽出してスウェーデンから見るイスラエル・パレスチナ問題を捉えようとしたとのこと。3時間半に及ぶ内容であったが、非常に興味深い作品であった。
「アーカイブ素材は必ずしも実際に何が起こったかを語っているわけではなく、どのように語られたかについて多くを語っている」と監督が語っているように、本作はアーカイブ映画の本質的なところに迫る内容である。
ここ数十年でアーカイブ映像へのアクセス性が上がり、その時代の利から歴史を再考しようとする作品が出てくるようになった。ある意味、論文に近いようなもので、本作でも実際に図書館で資料を見つけて整理する感覚の疑似体験として、各映像にミニカードと文脈のナレーションがついている仕組みとなっている。
しかし、メディアとは政治的社会的文脈によって切り取られたものであり、所詮は事実を編集した真実に過ぎない。それを整理して並び替えたところで、歴史のすべてが明かされる訳ではないのだ。実際に、引用される映像にはプロパガンダじみたものもあるし、当時のスウェーデンとしての立ち回りがあるから客観的とは呼べないものもあったりする。しかし、どのように語られたかは紛れもない事実としてそこにある。
3時間半観たところで、イスラエル・パレスチナ問題が完全に分かる訳でもないし、このドキュメンタリーですべてが明かされる訳ではないのだが、歴史との向き合い方。映像メディアとの接し方をメタ的に学ぶことができる作品といえる。
個人的にはジャーナリスト志望の青年がアフリカで取材しようとしていることに対して「イスラエルに留まろうとは思いませんか?」と質問する場面が印象的である。ジャーナリストとしてイスラエルには重要な取材対象や調査項目があるのだが、自分がやりたいことを実現するには外へ行くしかないと語られており、人材が流出する状況の生々しさが現出した場面だと感じた。また、女性が選挙に行く場面もスウェーデンのテレビ放送だから撮られていた点も興味深かった。
4.チェイン・リアクションズ(Chain Reactions)☆☆☆☆☆
監督:アレクサンドレ・O・フィリップ
5人の論客が独自の観点で『悪魔のいけにえ』について語る。第二章が「三池崇史」、第四章が「スティーヴン・キング」とビッグネームとなっているわけだが、この二人の話がめちゃくちゃ面白い。淡々と話しながら笑いと生み出し、そして有益な情報を語っていくのである。
三池崇史は、映画監督になるきっかけとなったのが『悪魔のいけにえ』であった。子どもの頃に、チャップリンの『街の灯』を観ようと都会へ足を運んだのだが満席で観られなかった。何も映画を観ずに帰るのは勿体ないと、ブラついていると『悪魔のいけにえ』がやっていた。何気なく観たら、あまりの強烈さに圧倒されたのだとか。Jホラー全盛期に彼は映画を撮り始める。Jホラーは、呪いを始めとしたナラティブによって恐怖が語られるが、彼は『悪魔のいけにえ』のような背景なき暴力、痛みを感じさせる表現に魅力を感じ、『オーディション』や『殺し屋1』『インプリント〜ぼっけえ、きょうてえ〜』で実践していった。『殺し屋1』では「お前の暴力には愛がない」という名台詞があるのだが、そのルーツは『悪魔のいけにえ』にあったのである。なお、監督が「『街の灯』は結局ご覧になったのですか?」と質問する。苦い顔をしながら「いやーまだ観ていないんだよね」と語る場面は爆笑であった。
スティーヴン・キングも負けていない。『悪魔のいけにえ』のようなマスターピースになりゆる現代ホラー例として『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』を挙げる。本作との出会いがイカれている。車に惹かれて入院していたスティーヴン・キングは、痛みを和らげるためにマリファナをキメてガンぎまっているところに息子がテレビを持ってきて、一緒に観て衝撃を受けたのがきっかけとのこと。
では、本作は単純に面白い語り部が面白いだけの映画かと訊かれたら「否」と答える。デジタルシネマとしての編集容易性を活かして、論を裏付ける比較のさせ方が模範的であり、『悪魔のいけにえ』だけでなく映画史の講義として優秀なものがある。例えば、当時のテレビ画質と今の画質を比較し、数十年前の映画において「色褪せた黄色」が映画体験に影響をもたらしていたことを物語る。『吸血鬼ノスフェラトゥ』における船の到着と『悪魔のいけにえ』におけるボロ屋への接近の共通点を魅せるなどといった使い方がされているのだ。
なかでも一人目の論客が語る『風と共に去りぬ』から観る『悪魔のいけにえ』論が慧眼であった。『風と共に去りぬ』における強姦シーンの構図が『悪魔のいけにえ』と似ていると彼は語る。スプリット・スクリーンで比較すると確かにレザーフェイスに連行される女のシーンは全く同じである。その類似性から、ラブロマンスの演出をホラーへ転用させたのが『悪魔のいけにえ』のの画期的なところであると締めくくる様に「すげぇ」と唸らされた。
『悪魔のいけにえ』を中心に『吸血鬼ノスフェラトゥ』からスタン・ブラッケージ、『スキナマリンク』へと繋げていく自由でユーモラスで勉強になる神講義、是非とも一般公開してほしいものがある。
5.赤いシュート(Red Wood Pigeon)☆☆☆☆
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監督:ナンニ・モレッティ
ナンニ・モレッティ映画ってイマイチよく分からないのだが、本作は『ローマ法王の休日』のルーツともいえる作品で興味深かった。
車の中で変顔をしている共産党指導者兼水球選手が交通事故に遭い、うっすら記憶喪失になる。しかし、彼は重要人物なので、右から左から人がやってきて、水球の試合へと連れていかれる。
本作は、ナンニ・モレッティにしては珍しくバキバキに決まったショットを畳みかける仕組みとなっている。迷える主人公を象徴するように、広告が浮かぶプールの中でぽつんと立ち尽くす彼を捉えたり、記憶喪失により自分の人生を振り返る様を示すようスローモーションでボールのフェイントが阻止される様を描いたりしている。
そして映画は2重の外しによって面白くさせていく。通常、この手の映画の場合、水球の試合をクライマックスに持っていくはずなのだが、何故か映画の応援上映、そして完璧な交通事故を畳み込むことでクロージングへ持っていくのである。ナンニ・モレッティ映画にしてはかなり面白い作品であった。
6.キル・ザ・ジョッキー(Kill the Jockey)☆☆☆☆
監督:ルイス・オルテガ
ここ数年、アルゼンチン映画の躍進が凄まじく、世界の映画祭を席巻させている。一方で、文化を敵視するミレイ大統領による政策によってゴールド・ラッシュは淵に立たされている。国際的評価に対して本国の政治が歩み寄るとは限らない例となっている。そんな複雑な中、本作を観たのだが、これが素晴らしい作品であった。アキ・カウリスマキやウェス・アンダーソンに近いタッチで荒唐無稽なことをやりながら、テーマは深刻。そのバランス感覚の鋭さに惹き込まれた。
伝説的ジョッキーのレモは、ジョッキーを引退したいと考えているようだ。しかし、逃げられない。逃げたらマネージャー軍団に捕まってしまうのだ。再び、レース会場へと連れ戻される。渾身の一手として、馬用の麻酔を酒に混ぜて飲み、酩酊状態で怪我を負うも、健康体なため回復が早い。
そんなある日、日本からミシマと呼ばれる馬が届き、これでレースに出場することとなる。この新しい馬でレースに出たところ、馬が暴走し今度こその大怪我を負う。千載一遇のチャンスと捉え、彼は病室にあった毛皮のコートを纏い、女として町中逃げ回る。
役割を与えられたものはそう簡単に役割を降りることができない。破壊的衝動を露わにしても、社会から求められれば連れ戻される。他者からの眼差しを回避するためにレモは「女性」になろうとするのだ。
現代思想の論考で「ファッションはグロい」といったものを以前読んだ。人間は、他者からの眼差しから逃れられず、ファッションというゲームへ強制参加させられる。イケメンだったり社会的名誉ある者もまた、社会から求められるファッションを強制的に着させられそれ相応の振る舞いを強いられる。
だからこそレモは毛皮のコートを着る、化粧をし、匿名の誰かになることによってファッションというゲームから降りようとする。現段階で「女性になる」表象が適切かどうかは保留にしたい。分かりやすい他者として「女性」が選択され、女性特有の痛みまでもは引き受けていないように思える本作の表象がこれで良いのかは検討したいからだ。
しかしながら、ファッションと眼差しとの関係性を荒唐無稽に理論的に紐解くこのアプローチは注目に値するだろう。非常に観やすい作品でもあるため、日本公開に期待である。
7.ぺぺ(Pepe)☆☆☆☆☆
監督:ネルソン・カルロ・デ・ロス・サントス・アリアス
第74回ベルリン国際映画祭にて監督賞を受賞した『ペペ』。現地で鑑賞した市山尚三氏が、あまりの衝撃からその場で東京国際映画祭招致に向けて動いた。カバが観客に語り掛けてくるトリッキーな実験映画でありながら、第37回東京国際映画祭では平日の上映にもかかわらず3回とも完売となり、ネルソン・カルロ・デ・ロス・サントス・アリアス監督がQ&Aで「正直驚いた、どうして観ようと思ったのか教えてくれ!」と観客に逆質問するぐらい驚いていた。そんな『ペペ』を観たのだが、年間ベスト級に凄まじい一本であった。
アフリカからコロンビアへ連れてこられ、パブロ・エスコバルの施設動物園で飼育されたカバ。エスコバルの死後、カバは野生化し繁殖。人間と対立するようになる。本作はカバが人間に語り掛けながら、壮大な歴史を語っていく。
まず、特徴としてカバ目線で物事を捉える際の視点が変わっている点にある。そもそも死んだカバの残留思念目線で語られるため、時系列は夢のようにバラバラである。また、
・アフリカーンス語
・スペイン語
・エボクシュ(舞台となった川の地域の言葉)
と3つの言語を操っている。そしていくつかのカバの魂が混ざり合ったかのように語られるのだが、その理由が中盤で明らかとなる。カバの世界では一部の人間が使う言葉が存在しないこととなっている。例えば「人間」は「二つ足」と定義されている。その中で「彼ら」という概念が存在せずカバが自問自答する。「我ら」は存在するが「彼ら」は存在しない。しかし、人間は「彼ら」という概念を使う。この概念はどういったものかと考える中で、映画においてフィクショナルな他者を用いて思索することによって複雑な社会を捉えられるメッセージが浮かび上がってくる。実際に、複数の言語を用いることで思索のチャネルが増え、時制などといった単一の言語では考えられないような概念が内に芽生えることとなる。このカバを用いたフィクショナルな思考による社会への眼差し論は、劇中に挿入されるアニメからも受け取ることができ、最終的に実写とアニメが共存することにより、フィクショナルな思考と現実との結びつきを主張している。
ネルソン・カルロ・デ・ロス・サントス・アリアス監督は「植民地時代は終わった、多様性の時代がやってきており、本作は植民地主義の終焉を表現している」と語っていたが、あえてカバといった非人間の角度からメタ的に人間の思索を捉えることで、一見するとあたりまえだとスルーしてしまいそうなテーマに対し観客の関心を手繰り寄せることに成功していたといえよう。
また、本作では反復するように「白画面」が用いられる。突然、画が真っ白となりトランシーバーの音やカバの語り、自然音が漂う。ギー・ドゥボールの『サドのための絶叫』やゴダールの「黒画面」理論に通じるものがあった。Q&Aで観客に質問してみたところ、「映像はイメージが先行してしまうので白画面を用いて想像力を掻き立てた」と語っていた。ジャン=リュック・ゴダールは『アワーミュージック』の中で
「イメージは喜びだが、かたわらには無がある。
無がなければイメージの力は表現されない。
言語は恣意的に対象物を分割するというがまるで私たちの過ちのように言われる。」
と語っていたが、まさしくその実践を彼も行っていたのだ。ただ、ゴダールとは違い、植民地時代の終わり、多様性の始まりを意識しているため、複数言語による思索、その地への融和が強調されている。また、監督は続けてこの「白画面」演出について面白いことを語っている。
「コロンビアの通信状況の悪さも表現しているんだ、明確に音が伝わらずコミュニケーションが難しい様があの場面にある」
映画は結局カバと人間とのディスコミュニケーションによる対立へと発展していく。多様性を阻害するディスコミュニケーションをここで示していたのである。これには慧眼であった。
本作は、カバを至近距離でバキバキに決まったショットに収めている。これは監督が3年間ジャングルに籠り、カバと信頼関係を構築した中で撮れた構図だとのこと。東京国際映画祭の締めを飾る大傑作であった。
P.S.エンドロールで《PART1》と表示されて吹いた。続編作る『春江水温』方式だったんだ!
【アジアの未来】
1.昼のアポロン 夜のアテネ(Apollon by Day Athena by Night)☆☆☆
監督:エミネ・ユルドゥルム
第37回東京国際映画祭は洞窟さんの星評を毎日更新しながら楽しんでいる訳だ。絶賛一色な作品、酷評で盛り上がる作品、賛否が分かれる作品とバラエティ豊かで毎日お祭り騒ぎなのだが、ダークホースがアジアの未来部門にあるらしい。それが『昼のアポロン 夜のアテネ』である。この時間はイラン映画の『冷たい風』を観ようと思ってたのだが、絶望的なまでに評判が悪い。代わりに本作はトップクラスに評価が高い。ということで急遽観ることにした。
『昼のアポロン 夜のアテネ』は、銀座シネスイッチで一般公開されていそうな作品で安定感のあるストーリーとひとつまみの変化球が心地良い一本。大いに楽しんだのだが、実は盛大に誤読をやらかしてしまった。
てっきり、孤児である主人公はトルコからギリシャへ行方不明となった母を探しに行き、観光ガイドしている彼女と再会する話だと思っていた。しかし、物語の舞台はトルコ国内であった。確かにトルコにはギリシャ様式を受け継いだ遺産が多くある。雰囲気的には世界遺産のエフィソスに近い。だが、映画の舞台となっている遺産はエフィソスですらなく、シデにあるギリシャ遺産だったのだ。邦題が邦題なのもあり、場所を完全に観誤る事態を発生させてしまった。
閑話休題。この物語はオーソドックスな家族探しものでありながら、そのプロセスがユニークである。なんと幽霊軍団を使って母を探していくのだ。最初は、親戚か現地で知り合った誰かだろうと思って観ているのだが、目の前に人がいるのに、その人がいないように振る舞っている存在が散見される。やがて、ひとり、またひとりと主人公にしか見えない幽霊だと分かっていき、感情的な幽霊たちと口論しながら、観光ガイドをする母へと辿り着く。このプロセスが面白い。また、旅行付きとしては、ツアー後にガイドを呼び止め、個別ガイドへと切り替えていく即興の振る舞いに心惹かれるものがあり、年間ベストどうのこうのな作品ではないが観てよかった。
【ユース】
1.フー・バイ・ファイヤー(Who by Fire)☆
監督:フィリップ・ルザージュ
少年がバカンスで大人の汚さを知る映画。不穏な空気感に歌やカヌーなどバカンスにおける共同作業によって生み出されるリズムがDVっぽい厭らしさを醸造する訳だが、流石に2時間40分は長い。冒頭15分の掴みは良かっただけに残念。
2.煙突の中の雀(The Sparrow in the Chimney)☆☆☆☆☆
監督:ラモン・チュルヒャー
「住宅は住むための機械である」
とコルビュジエは名言を残したが、実際に彼の建てた住宅は漏水などの問題を抱えており機能不全だったらしい。
『煙突の中の雀』は機能的でありながら機能不全に陥った家族を捉え続けている。空間は、ほとんどの扉が開かれ家族が滞ることなく流れるように移動する。料理を作る、遊ぶといったそれぞれの家族が機能に応じた行動をする。しかし、その行動の片鱗に心が通っていないような不気味さを抱く。鶏の首を切断し放り投げる、金属を電子レンジに入れスパークさせる、アツアツの鍋に手を突っ込む。このような日常生活に潜むバグのような行動の中で、突然観客はヒッチコック『ロープ』さながらの共犯関係となってしまう。
少年が洗濯機に迷い込む猫を閉じ込めスイッチを押すのである。家族は機能的に、その空間にいるのだが、猫が入った洗濯機が回っていることにあと一歩のところで気づかない。犬がジッと眼差しを向けているだけである。あまりにも凄惨なことが起こっているにもかかわらず少年は、すました顔で家族の群れの中に溶け込む。いつ判明するのかといった宙吊りのサスペンスが、長時間持続するのである。
このように打ち解け合えるはずの、安全圏であるはずの家族。人はたくさんいるにもかかわらず信頼できない空間の中で、中年女性の抑圧された感情が静かに描かれる。彼女には、象徴的に赤を背負わせる。服の赤、血の赤、炎の赤。何か重要なことを考えている者の、人流の濁流によって一人になる時間が存在しない。通常、抑圧された者を空間的に表現する際に「外」が解決の糸口へとなるのだが、ラモン・チュルヒャー監督は安易に外へ彼女を誘導し問題解決させることはない。外にもうじゃうじゃ人がいるのである。ではどうするのか?彼女の破壊願望を虚の世界で反復させ、虚実を曖昧にさせていくことである。
ここで面白いオマージュが使われる。『キャリー』だ。
『キャリー』における怒りや悲しみを超常現象へ置換する方法を本作で採用し、機能不全な機能ごと破壊していくのである。リズミカルな音楽が鳴りながら、おぞましくもスタイリッシュに破壊がもたらされる様は圧巻のモノである。
また、今回の特徴として移動撮影が使用されているのだが、あえて機能的ではない使い方がされている。例えば、キッチンで大人をカメラが捉える。続けざまに少しカメラが下がるのだが、ほんの少ししかカメラが下がらない。この移動に何の意味があるのだろうか?機能的に動く人流をカメラはジッと捉えつつも、機能的ではない移動をカメラの方からしてしまう。まさしく《機能的機能不全》を体現するような演出といえよう。
ところで、本作は第37回東京国際映画祭のユース部門で上映されたわけだが、上映日は平日だし、中心となる話題も中年女性の悩みだし、どういう基準で本作をこの部門に入れたのかが気になる。ユース部門は元々、矢田部さんが入りきらなかった推し映画を入れていた部門と聞いたことがあるのだが、部門の名前と実態が乖離し、矢田部さんがいない状況で形骸化しているようにも思える。
【アニメーション】
1.メモワール・オブ・ア・スネイル(Memoir of a Snail)☆☆☆
監督:アダム・エリオット
アダム・エリオット約15年ぶりの長編『メモワール・オブ・ア・スネイル』が上映された。『メアリー&マックス』がティム・バートンの雰囲気を持ちながら心理的掘り下げに長けていたので期待して観たのだが、恐らく日本公開時にはR-15になるであろう強烈な性と死が渦巻くトラウマ映画であった。
ネタバレ箇所が多い作品なので、既に観た人が読むことをオススメする。障がいを抱えて生まれてたグレースは親の死により、双子の弟ギルバートと離れ離れになってしまうといった一見すると子ども映画で見かけるシンプルな題材となっている。
しかしながら、実際には理論的に不幸を積み上げながら、グレースの行動心理を肉付けしていくものとなっている。グレースは自己肯定感が低く、いじめっ子から守ってくれるギルバートとも離れ離れになっているので、より内向的になる。そんな彼女の周りではカタツムリやモルモット、ヒトが激しいセックスを行っており、彼女の孤独を助長させることとなる。彼女の前に歩み寄ってくるものは自己啓発本の化身のような存在ばかりであり、どこか胡散臭い。ピンキーおばさんだけが良心的な存在となる。
一方でギルバートは宗教が支配する農家で働かせられるのだが、お局のような存在による支配から欺瞞を感じ取るようになりやがて、同性愛に目覚めることによって対立する。
ギルバートのパートが薄めなものの、社会を前に傷つく者たちの心理を克明に描こうとしている。特にグレースに関しては、聖人ピンキーおばさんとの関係性ですら自己肯定感の低さを助長させてしまい、彼女のようなスリリングな人生を求め、クレプトマニアへと陥ってしまう。クレプトマニアについては今までよく行動心理が分かっていなかったのだが、ひとつの説として説得力のある描かれ方がされていた。
また、ようやく見つけた恋人、自分のすべてを受け入れてくれる恋人が実は肥満体フェチであり、グレースを太らせるために策略を張り巡らせていたことが露見する場面は、伏線の張り方があまりにも自然で、「あっ!」と悲鳴を挙げそうになった。この部分は完全にネタバレに該当する訳だが、トリガーアラートが必要な気もして、日本劇場公開時にどのように宣伝するのだろうと考えてしまう。
動物もヒトも全くもって無事ではなく、激しい性交、鬱と暴力が渦巻く強烈な一本にノックアウトされたのであった。
2.ギル(Gill)☆☆☆
監督:アン・ジェフン
五次元アリクイさんとKnights of Odessaさんによる東京国際映画祭作戦会議にて、Letterboxd評を読んだのだが、ほとんどのレビュアーが★1の低評価をつけており、アヌシーで観た観客が自分の持てる限りの文才で本作のヤバさを物語っていた。これは観るしか!とペドロ・アルモドバルを捨ててまで観てQ&Aまで参加したのだが、その理由がなんとなく分かった。実は本作のターゲット層は映画ファンでもアニメファンでもなく、韓国芸能とBLファンだったのだ。ゆえに、映画やアニメの文脈で観ると見えないものがある一本といった評価が適切だったのだ。
本作は日本アニメタッチの空間から始まる。営業が上手くいかなかったのか、主人公の女はヤケになり、『ポンヌフの恋人』ごっこを夜道でする。しかし、ジュリエット・ビノシュのような体幹はないので、川へ落ちそうになる。ここで珍妙な宙吊りのサスペンスが発生する。スマホが、縁に落ちる。それを取り、橋へ戻ろうとする。バスが通る。バスが暴走して轢かれる状況では全くないのだが、何故かその光にビビって彼女は落下するのだ。そして、そんな彼女を人魚が救う。
映画は突然、その人魚の物語へとシフトする。川から人魚を救った家族。科学者に人体実験されるからと少年は匿い、何年も共に過ごすといった内容。『ギル』は全体的に脚本が取っ散らかっており、挿話と挿話との繋がりが雑に処理されているわけだが、どういうことだろうか?人魚と少年(青年)との絡みだけが緻密なのである。人魚のことを想って助けている少年は青年になると、彼のことを想いつつも暴力で支配しようとする。殺したいけど生きてほしい複雑な感情が渦巻く。そんな彼に対して人魚は服従を選ぶ。ここで気づく、「これは本格的なBLなんだ」と。BLといったら受けと攻めの関係性が重要だと聞いたことがあったのだが、本作にて味わい深い受けと攻めの濃厚な駆け引きを目の当たりにした。
Q&Aにて監督が制作背景を話してくれた。『ギル』は元々小説の映画化であり、監督だけが手描きであとはWebtoonを意識したデジタル処理を行っているとのこと。そして、スタッフの大半は女性であり、人魚と青年はBTSメンバーやとある韓国俳優を意識したと語ってくれた。やはり、BL文脈の作品であり韓国芸能のカップリングありきな内容だったのだ。
そのため、本作の正当な評価は韓国芸能×BLの専門家評によってなされるのである。鈴鹿詩子×でびでび・でびるのBL講座レベルの知識では全く太刀打ちができない内容ながら、これはこれで面白い映画体験であった。
3.オリビアと雲(Olivia & the Clouds)☆☆☆☆☆
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監督:トーマス・ピカルド=エスピラット
今年はドミニカ共和国映画に注目である。本格的なSF映画『Aire: Just Breathe』やカバの残留思念映画『ペペ』が国際映画祭を巡回している。そして東京国際映画祭で上映される『オリビアと雲』もまたドミニカ共和国映画なのだ。これは観るしかと脚を運んだ。ヴィジュアルのイメージから全編ジョアン・ミロタッチの抽象アニメーションだと思っていたのだが、実際には様々なアニメーターが別々のタッチで描く総合格闘技のような作品であり、ジョディ・マックやサファイヤ・ゴス、ガイ・マディンといった実験映画監督の香りを感じさせる一本であった。また、一度観たら使用したくなるであろうタイポグラフィは日本人の
Tomomi Maezawaが担当していた。本祭のダークホースであったので報告する。
アニメとは、人間の三次元的動きを微分することにより、我々が気づかなかった人間の動きや心理を捉えることができる。本作は三次元と二次元を結び付けるために、フィルムタッチの実写、ストップモーション、そしてジャンル横断的なアニメが用いられている。これにより層が意識される。この状態で、ヒトとヒトとの関係性を観た際に、心理的距離感が浮かび上がる。
例えば、男と女が対話する場面。男はレイヤーの一番手前にいるように見える。そして女は、奥のレイヤーにいるように思える。実際には同じレイヤーにいるのだが、女の上にかぶさっている机のオブジェクトによって二人の階層を擬似的に分断している。これにより、双方は対等に話しているようで、心が離れてしまっている様を示唆している。
また第二章では非モテおっさんの日常が描かれる。ロトスコープで描かれた街の中をおっさんが徘徊し、ボーイ・ミーツ・ガール。その出会いの勢いで接吻をキメるも、瞬間的ビンタを食らわされる。孤独なおっさんは、家で歯の埋められた土に水を与える。すると、文字通り「目」が生えてきて語り掛ける。ここでは、おっさんの服と「目」に注目してほしい。どちらもビリビリに敗れた記入用紙となっている。このことから、内なる他者としての女性であることがわかるのだ。おっさんは、町ではピシッとしたヴィジュアルだが、家だとみすぼらしい。人間の裏表を、アニメ的表現によって捉えているのである。
本作は動くアンフォルメルないしアクション・ペインティングとなっており、人間の溢れんばかりの心理がミロさながらの色彩で彩られていく。ただ、色彩のパワーで押し切るのではなく、アニメ表現の可能性を探求し続けるアプローチには脱帽だ。特に、コマ割りを使った表現は慧眼であり、分割された空間の中を人が移動するのだが、その分割が死角から扉、そして地面へとシームレスに変容していく様、同じ人物の運動の異なるベクトルを共存させる異時同図法の面白さ含めて素晴らしかった。
日本公開は絶望的であるが、映画祭ならではのアート映画として良い出会い方をしたのであった。
【ウィメンズ・エンパワーメント】
1.イヴォ(Ivo)☆☆
監督:エヴァ・トロビッシュ
案件先へ赴き、ケース・バイ・ケースの事象へ淡々と向き合っていく。時には研修を受けたり、本部で医薬品の準備をする。休日は、特に趣味といった趣味をするわけでもなくただ自由に過ごす。間延びしたような時間の中で、苦しむ人と向き合う彼女の生き様が描かれていく訳だが、中盤以降様子がおかしくなってくる。
とある患者からある依頼を受け、倫理的に苦悩すると同時に、彼女自身がヌルっと倫理的タブーを犯してしまうのだ。医療現場における孤独な倫理的問題を捉えた本作であるのだが、意外と映画祭映画で頻出の話題かつ、画に全然魅力がなく退屈な一本に終わってしまった。
2.マイデゴル(Maydegol)☆☆☆
監督:サルヴェナズ・アラムベイギ
”Maydegol”とは「折れた花」を意味する言葉なんだとか。これが強烈な一本であった。
「ねぇ、お願い私を雇って」
19歳の女性が閉ざされた門を執拗に叩く。やがて、門をよじ登り工場長に直談判する。この気性の荒い女性はすでにいくつか仕事を抱えており、映画は彼女の忙しなく動く様をダルデンヌ兄弟さながらのタッチで描き出す。仕事が終われば、彼女はムエタイの練習をする。アフガニスタンから難民としてイランへ渡った彼女は、難民としての居場所のなさを吐き出すように脚や拳に力を込める。
映画は突如、黒画面となる。
そこにはおそらく彼女の声だろう悲鳴と、鈍い音が響き渡る。彼女はDV父親の暴力に晒されていることが分かり、ムエタイの試合で優勝することは難民としての居場所のなさから自由になる以上の役割を担っていることが分かる。目標はあるしかし先が見えない。そんな行き場のなさが、友人と一緒に投げる石に象徴されるのだ。
ダンスが禁じられたイランにおける舞踊史を貴重なフィルム映像と併せて描き出した『1001 Nights Apart』のサルヴェナズ・アラムベイギが捉えるパワフルなノンフィクション。王道なタッチながらも、主人公の心理を体現したような編集の鋭さに唸るものがあった。
3.灼熱の体の記憶(Memories of a Burning Body)☆☆☆☆
監督:アントネラ・スダサッシ・フルニス
本作は元々、祖母の話を聞いてコスタリカ社会における抑圧像に関心を抱いていた監督が、記憶障害を患っている祖母から話を聞き出せそうになく、様々な女性を取材する中で生まれた作品である。その過程で生まれたアプローチが興味深い一本に仕上がっていた。
おばあちゃんが部屋の中を徘徊する。そこに重ねるように3人のおばあちゃんの語りが被せられる。今回、取材対象になった3人のおばあちゃんは社会的抑圧、異性関係にトラウマを抱えていることもあり、カメラの前には出てきたくない。だが、語ることはできる。そこでアントネラ・スダサッシ・フルニスは役者を立て、再現イメージビデオを形成し、そこに語りを被せることを編み出す。これには幾つかの機能がある。まず、映画の発端である祖母の記憶と3人の女性の記憶からコスタリカ社会、宗教や伝統と結びついた抑圧を抽象化、普遍化している。眼前に現れる人と、補助線としての音声含めると8種類の声がある。空間を部屋に限定しながらも、ぬるっと時空を飛び越え、若かれしころの記憶や映画館へ行った思い出が、まるで部屋の中にいるおばあちゃんが回想した心象世界が現出するかのように描かれる。部屋にカーテンがしかれ、そこをスクリーンに見立て、疑似的に映画館の空間が現れるところに演出の妙が光る。
映画は終盤に行くに従って、DV的な関係性が直接描かれるようになる。男性による女性の眼差しの生き辛さが強烈に飛び込んでくるのである。昨年の『Four Daughters』に引き続き、ドキュフィクションのアプローチに新規性を感じるものがあった。
4.私の好きなケーキ(My Favourite Cake)☆☆
監督:マリヤム・モガッダム、ベタシュ・サナイハ
第74回ベルリン国際映画祭で『白い牛のバラッド』マリヤム・モガッダム、ベタシュ・サナイハの新作が上映された。イラン当局からパスポートが没収され、現地入りできなかった二人の新作はヒジャブを被らないと外を歩けない女性たちの抑圧に反発するような作品で、映画の大半がヒジャブなしで撮影されている。実際に観てみると、シネスイッチ銀座やBunkamuraル・シネマっぽい作品であった。
70歳のおばあちゃんマヒンは、一人暮らしをしている。友人にも恵まれ、家族ともスマホでコミュニケーションを取っているのだが、どこか寂しさを抱えている。そんなある日、アフタヌーンティー中にある男が気になる。その男はタクシー運転手だった。彼の後をついていき、ついに家に招く。そこで親密な対話が生まれる。マヒンは自由を求めている。外へ歩くときはヒジャブを身につけているが、ヒジャブが原因で警察に連行されそうになる人を見つけると、何か言わずにはいられない。そんな彼女の一夜の恋。ヒジャブを脱ぎ、ワインを交わす。同じく70歳のおじいさんとの対話は閉塞感あるイラン社会の片隅にあるユートピアのようだ。映画の大半は晩年のサタジット・レイ作品のように室内から出ない。しかしながら、ぐるっとカメラがパンをするとき、どことなく不気味さを感じるのである。シンプルな構図ながらも、観客を惹き込むカメラワークにより垣間見えるイラン社会を興味深く観たのであった。
【Nippon Cinema Now】
1.アイヌプリ☆☆☆
監督:福永壮志
福永壮志といえば、海外ドラマ『Shōgun』『Tokyo Vice S2』の監督を務め、国際的に活躍している新鋭である。日本では、アイヌ文化に迫った作品『アイヌモシㇼ』で知られている監督だが、今回の『アイヌプリ』はドキュメンタリーとしてアイヌ文化に迫った。ある意味、対になる作品となっている。静謐ながら葛藤が垣間見える一本に仕上がっていたのでレビューしていく。
猟師として林に入っていき、動物を一撃で仕留める。その場で切り裂き、命をいただきますと軽く礼をしながら持ち帰る。アイヌプリ(アイヌ式)を実践している家族は、そのアイヌの文化を子どもへと継承する。川へ行き、独特な手法で魚を獲る。細かい礼儀たるものを淡々と教えていき、食を共にする。これは歴史を守る行為としてなのか?「否」と答える。「俺たちは歴史が、文化がというよりも《やりたいから》アイヌプリを実践するんだ」と語る。
一方で、画の端々、言葉の端々から葛藤が漏れ出す。「アイヌプリを守るだけでは生活はできない」と現代的な漁に対してのモヤモヤが語られる。そして歴史と実践を切り離そうとしても差別の歴史は尾を引いている。そういったものも継承されるのか、あるいはただ単に無邪気に歌っているのか分からない不気味さを宿しながら子どもは「オラ、東京さいぐだ」と吉幾三の曲を熱唱する。
カメラは、アイヌ文化の、文章にしてしまうとドライで漂白されてしまうかもしれない繊細な感情の一面を絶対に見逃すまいと彼らを追い続けていく。アイヌ文化を追ったドキュメンタリーとして誠実な内容であった。
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