美術史におけるメディア戦略について
美術検定のために美術史を勉強している。中学高校時代、歴史は苦手強化であり無味無臭の暗記に虚無を感じていたのだが、美術史を勉強すると映画や世界遺産と結びつき面白く勉強できている。大人になって学ぶ歴史の魅力に気づきつつあるのだ。
さて、美術史を勉強すると一定のパターンがあることに気づかされる。印象派、バロック、フォーヴィスムと美術用語となったものの多くが当時の悪口である。また、覇権を握っていたジャンルに対する反発から新しい様式が生まれるケースも多い。《歴史は繰り返す》とはこのことなんだと痛感させられるのだ。
さて、その中で興味深い視点を見出した。それは「メディア戦略」である。テレビだけでなく、SNSや広告などを通じて、社会は人々の心を揺さぶる。敷かれた導線によって人々は動かされる。それは商品購買であったり政治でどの政党に投票するかだったりする。戦争の行く末もこのようなメディア戦略によって移ろいゆく。AIの登場や映像編集技術の向上により、目の前にある映像が現実であるかフェイクであるかの判定も難しくなってきており、混沌が世界を覆いつくしている。
さて、このようなメディア戦略は21世紀だけのものかといったらそうではない。写真、映画が生まれるはるか前からメディアは姿かたちを変え、人々を動かすために使用されてきたのである。今回は、その変遷を軽く整理していく。
1.古代ローマの「歴史浮彫」
初代皇帝アウグストゥスの時代のローマにて「歴史浮彫」が流行した。皇帝の政治の素晴らしさを伝えるために「トラヤヌスの記念柱」をはじめとし、物語を刻み込んだのである。文章では読めない大衆がいる。しかし、絵であればイメージとして物語を伝えることができるのである。
2.教会建築における彫刻、フレスコ画
映画やインターネットがなくとも、イメージとして彫刻が使用できる。このアイデアは教会建築でも応用されている。ロマネスク建築では重厚な石壁が用いられているため、扉上部半円状のタンパン(ティンパヌム)にキリストや聖書の物語を主題とした彫刻が作られた。
たとえば、世界遺産サント=マドレーヌ大聖堂にあるタンパンではキリストが使徒をたちを祝福し、国民を改宗させよと使命を与える様を表現している。
イメージによって物語を伝える手法はロマネスク様式に限らず、多くの教会で採用されており、世界遺産の観点からはルーマニアにあるスチェヴィッツァ修道院でも観測することができる。修道院の内外共にフレスコ画で埋め尽くされた文化遺産である「天国の梯子」「最後の審判」「ヴォロネツの青」など鮮やかな青を基調とした特徴がある。いずれも聖書を題材としており、文字が読めない人のために絵で聖書を理解してもらう役割があった。
3.バロック時代のカトリック教会
17世紀に写実的でやり生命力に溢れるバロック様式が確立された。その基礎を築いたミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオは理想化された宗教画よりもローマにありふれた人へ落とし込んだ写実的な宗教画を手掛けるようになる。
アルテミジア・ジェンティレスキ「ホロフェルネスの首を斬るユディト」やグエルチーノ「聖母被昇天」と生々しい人間の運動を捉えた作品が生まれてくるわけだが、元々バロック様式はカトリック教会の広報活動の文脈から始まっている。
16世紀半ば以降、プロテスタントによる改革が進む中、カトリック教会はいかに権力を行使するかを模索していた。反宗教改革の中で「芸術」が注目され、芸術家たちに「共感する作品を制作してくれ」と指示を出したことがバロック様式の始まりである。視覚的強烈さから市民の心を鷲掴みにする。ギー・ドゥボールのいうところの「スペクタクル」に人々を取り込もうとしていたのだ。
ここ数日、カズオ・イシグロが東洋経済に語った「共感社会」の危うさについての記事がXで再び注目されている。私自身、映画ライターをしているのだが、ミーティングで編集長に「共感が重要だ」と豪語されて危ないなと思った記憶がある。確かに強い言葉によるタイトル、社会や作品を代弁する、いわゆる「わかりやすく言語化できている」記事は共感され高いPVを叩き出す。しかし、社会はそう単純ではないし、本質は直感に反するものが少なくない。広告会社にいたこともあり、いかにして共感とアテンションを取るのかが重要な世界があることも知っているが、それらが覆い尽くす社会にはギー・ドゥボール同様警戒すべきだと考えている。16世紀半ばのカトリック教会のようにプロパガンダとして人々の「共感」にインジェクションしていく例から学ぶべきものがあった。
4.文化による統治から見る豊臣秀吉の戦略
安土桃山時代、戦国時代が終焉に向かい世に平穏が訪れると、力による支配が効力を発揮しなくなってくる。豊臣秀吉は《力による支配》から《文化による支配》へとシフトしていく。その中で、千利休と手を組み茶の文化を確立させていった。黄金の茶室を作り天皇家をもてなす一方で、全国の茶好きを集めたフェス「北野大茶湯」を開催する。従来、中国から輸入した高級茶器(唐物)を使用していたのだが、文化層を広げるために茶の文化形成に国内の和物を持ち込む。これにより、庶民が気軽に茶の文化を楽しむことができた。和物では、長次郎の「黒楽茶碗(俊寛)」や古田織部の「織部焼」が有名である。
5.新古典主義におけるナポレオンのプロパガンダ絵
18世紀、イタリアのポンペイから遺跡が発掘される。残された壁画などの遺産の美しさに人々は魅了された。当時は、宮廷を中心とした優美で繊細なロココ様式が主流であったが、1789年にフランス革命が起こる。それにより、ロココ様式はだらしがないものとして扱われ、屈強荘厳なローマの美術を模範とする新古典主義が幕を上げる。
フランス革命を称える画がローマの美術参照の下描かれる中で、ナポレオンを英雄的に描く作品が多数制作されるようになる。ジャック=ルイ・ダヴィッド「サン・ベルナール峠を越えるナポレオン」、アントワーヌ=ジャン・グロ「アイラウの戦場のナポレオン」、アンヌ=ルイ・ジロデ=トリオゾン「ナポレオンの指揮官を迎えるオシアン」などがそれに該当する。
今と違って写真や映像といった、ありのままを捉えるメディアが存在せず、絵画がドキュメンタリー的役割を果たしていたのだが、それは誇張されたものを現実として提示したり、人々を導くためのプロパガンダとして活用されていたように思える。そして、新古典主義はナポレオンがトラファルガーの海戦やロシア侵攻に敗北し失脚するとともに衰退していった。
6.最後に
このように美術史を振り返ると、彫刻やフレスコ画、絵画などを通じてナラティブを市民に波及させて、人々を動かす導線として活用されてきたことがわかる。今も昔、政治において「メディア戦略」が重要視されているのだ。先述の通り「共感社会」となり、事実よりもどう感じたかに傾きすぎている現状を踏まえると、一歩引いたところから社会へ眼差しを向けるべきである。美術史は単に趣味人の教養に留まらないことを痛感させられたのであった。