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茶道における才能と努力の話
先生が先輩にかけられた一言とは?
本日は取り留めのないお話でお許しください。
先日、師匠が先輩に向かっておっしゃいました。
「あなたには茶道の才能があるわね」
それに対し、先輩は
「先生、ありがとうございます。
ですが、私はそうは思いません。才能ではなくただ茶道が好きで、続けているだけです。」
先生も更に仰います「才能よ。そんなに詳しくて細やかな気遣いもできるのは茶道の才能と言えるでしょう」
しかし先輩は言います。
「そう思って頂けるのは光栄ですが、才能は何もしなくても生まれ出てくるものですが、私の場合は努力です。」
先生がそう仰ったのには理由があって、
その先輩は社中の中でもベテランで、社中から何人か選ばれる学校茶道の先生も担われるほど長く、茶道に精通している方です。
師匠が仰った瞬間も、新人の方の割稽古を横に付いて解りやすく、説明をされているところでした。
先輩が仰ることもわかります、とても真面目な方で全ての道具組みや、一つ一つのお点前の内容を細かく毎回のお稽古毎にまとめられているノートを拝見した事があります。
誰よりも、茶道の知識があり、足の運びから畳何目まで詳細に覚えておいでです。稽古場と水屋は続きの間だから稽古場を見ながら水屋の総監督もされます。(360°目が見えていると私は思ってます)
才能って?
考えてみると、華道や舞踊なら才能のあるなしも計れますが、茶道は許状という資格があるだけで、コンペティションや賞などのprizeもawardもありません。生まれながらにして茶道の才能を持つものは創設者である利休さま初め恩師匠様だけかもしれません。「センス」と置き換えれば少しは頷ける気もして参ります。何を持って師匠は「才能」と仰ったのでしょうか?
どんな状況でも先生からのお題でも動じることなく呼吸が整い、流れるようなお点前ををされること。所作の美しさ、指先までの神経が張り詰めた感じ。先輩後輩への周りの方へのご配慮、勉強熱心な謙虚さ。
ここまで描けば茶道を嗜む方ならお気付きだと思います。
そう、彼女は「和敬清寂(wa kei sei jyaku)」を体現されているのです。
和敬清寂は説明されて、はい、そうですかと実現できるものではなく、長い間の茶道を通した学びの中から少しずつ理解を深めるもの。
私個人的には寂が一番難しいと思っていて、季節も、人も、お点前も、お茶の状態も、全て違う毎度のお稽古に平常心で何もわかる境地に至った事は一度もありません。あわやというトンデモ事件ばかり起こしている毎回のお稽古(その話しはまた今度…)です。
最後に…
茶道の世界における才能とは、努力の上に成り立ち鍛錬された和敬清寂体現化なのかもしれません。
それでも、先輩は「努力」とおっしゃるでしょう。
先生の「才能」という一言に、本当に茶道が好きで、精進され尽くした暁には、「努力」が「才能」にさえ見えるのだというとても美しい光景を目にすることができました。
これを育て、気付かれお声をかけられる先生のタイミングもまた絶妙なのかもしれません。
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