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文章修行の一環に見せかけた雑文① 好きな文章をたどれば漱石と柳田に行き着く話、あるいは『彼岸過迄』偏愛
はじめに 自分の文章のキモさに気づく
同僚に文章の固さ・下手さを指摘され、その他種々の目論み(後述)もあって、とりあえず書く力をつけるか。と思ったのをきっかけにnoteをはじめた。
とりあえず数をこなせば上達するだろうという楽観の下で20本ほど記事を上げたはいいが、読み返したときに自分の文章の気持ち悪さに愕然とした。
汚くてよくないけど、自分は好き嫌いどちらについても、最上級の感情表現が「ゲボ吐きそう」なんだが、まさにゲボ吐きそうなくらい気持ち悪かった。
自我の臭気に当てられてしまうというか。公開したあともちょいちょい自我の臭気がする部分を削ってこれだからすくいようがない。書いてるときは楽しいんだけどなあ。
そういうわけで、暴走機関車のように書き殴るのを一旦止めて、そもそも自分が好きな文章、逆に好きすぎる方向でゲボ吐きそうな文章ってどんなだったか、書く。
◾️利根川清 ──世界が眼前で崩壊してゆくのをしたたかに見つめる冷厳な眼の絶望
(前略)戦争の殺戮と破壊は、どんなヒロイズムも美学も排除する「現実」である、ということを先生はその体験と慧眼から見抜かれていた。創作された勇猛な弁慶の戦闘の背後に、ちらりと見えるリアルで残忍な狂気を、世界が眼前で崩壊してゆくのをしたたかに見つめる冷厳な眼の絶望を、先生は何げに気づきながら、『義経記』や『方丈記』その他の軍記諸作品を読んでおられたのである。(後略)
日本古典文学全集62、月報58(1999年12月)
「好きな文章」でパッと思い出せるものを並べたら意外と作家別になっていった。というより、人物でしか思い出せなかった。でも、一番最初に思いついたこの文章の一節だけ、ただ切れ味の鋭さだけで記憶に残っていた。
全体としては、筆者(利根川清氏)が、師匠である梶原正昭氏がゼミ演習中に言った言葉(「弁慶の最期はおもしろいね。『血そばへ』してるんだよ」)の意味を、徐々に理解できてきたということを、恩師の人柄や体験と共に回顧する内容。軽めに書いているようでいて、自分には結構読みごたえがあった。年長者の言葉の意味が、そのときはわからなくても、あとになって腑に落ちるという体験も共感できるし。
引用箇所は、虚構化された豪胆で勇猛な弁慶の戦闘シーンの裏には、殺戮や狂気といった現実があるんだという文意だった。
ただ私は、この酷薄なまでの言葉選びと表現が好きで、もはや完全に文脈から切り離してしまっていた。よくないですね。この「冷厳な眼」をしている人ってたまにいて、特に舞台上には冷厳な目の持ち主が多いから、「冷厳な眼」類型まで作ってた。どういう不敬なのかわからないが。
ところで、この文章の一節を探しだすのに非常に時間がかかった。書いた方の名前を覚えていなかったから。弁慶というキーワードから、学部生の頃ヒマすぎてハマっていた平家物語だろうと推測し、平家物語の月報をしらみつぶしに探していたんだが、まさかの義経記だった。出版社すら覚えてなくて、でも図書館で探したら、見た目で小学舘の新編日本古典文学全集で読んだんだとわかった。電子書籍だとこうはいかないぜ。市図書にも図書自体は入ってたけど、月報が付いてなかったから、県立図書館で血眼になって探した。あってよかった。こういう本は高価で変えないから。ちなみに、義経記は平家物語より短い(一冊で読める)し、言われている現実に裏打ちされたパートがある一方で、ふっと笑えるパートも意外と多いからおすすめです。
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◾️夏目漱石 ──智に働けば角が立つ。情に棹せば流される。意地を通せば窮屈だ。
夏目漱石の文章も好きだ。でも、一番有名な『こころ』は内容が嫌いだ。私は『彼岸過迄』と『坊っちゃん』は何度も読むくらい好き。特に『彼岸過迄』。
冒頭に挙げた『草枕』の一節が特に有名だけど、漱石は漢詩文に強いだけあって、言葉がばちぱち嵌まっていく感じがして読んでいて気持ちがいい。嵌め込んでいくって感じがある。固いのに、小気味良くて読みやすいからちょっとヘン。ちょっと離れたところから書いている皮肉屋の文章。
ただ、『草枕』は全体を読むと、さすがに文体も筋も固すぎる気がする。私は封神演義のフジリューが集英社文庫の2011年版でカバーイラストを描いてたから買って読んだけど、ゴタクが多かった。これではじめてオフィーリアを知った気がする。(遅い?)
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ポピーの話かと思って『虞美人草』も読んだ。最近読み返したら、俗っぽいというか菊池寛の真珠夫人ぽかった。真珠夫人の方が余裕で後続だけど。文体は草枕寄りなのに、筋が俗。全然嫌いじゃないけど。甲野の変形が彼岸過迄の須永なのか。
そんなことより、好きな文章の一節だ。いくつもあるけど、切り離して、自分化して、好きに使ってるくらいに好きなのは意外とフレーズっぼかった。
敬太郎はその中を突切る電車の上で、光を割いて進む様な感じがした。
『彼岸過迄』は、短編を組み合わせて長編みたいにしていて、短編ごとに視点やメインキャラが変わる。最初に視点人物として出てくるのが田川敬太郎という就職活動(本人によると「位置の運動」)中の青年なんだけど、就活の糸口が見つかりそうなときに出てきたのが上のフレーズ。光を割いて進むような感じがするときに思い出す。けっこうある。気のせいだったりするけど。
市蔵という男は世の中と接触する度に内へとぐろを捲き込む性質である。
『彼岸過迄』の中心に据えられているのが、須永市蔵(先に出た敬太郎の同級生)という青年なんだが、叔父にあたる松本という男が彼のことを評した内にとぐろを巻く性質もフレーズとして刺さりすぎてよく思い出す。
フレーズで書いてしまったが、漱石の文章は全体的に好き。漱石一流の韜晦グセが妙なおかしみを生むから読みやすいんだと思う。
そもそも『彼岸過迄』というタイトルがかっこいい。小説の内容からではなくメタ的に付けられたものであっても。好きな文章といえば、で思い出して、今回久しぶりに『彼岸過迄』をアタマから読み直した。好きなとこだけ読み直すことはあっても、通読するのは本当に10年くらいぶりだった。「須永の話」は特に思っていたよりしっかり恋愛小説だった。小説だからそうなんだが、なんだかんだで須永と千代子がしっかり直接対決していて偉い。私はとにかく千代子のことも須永の母親のことも無形の圧をかけてくる女性として読み、20歳前後の当時は須永に共感していが、ああ私が思い入れて自分勝手に読み替えていただけで、須永はお母さんのことは案外無防備に大好きだったのか、と思った。そして、「松本の話」で、どうしようもなく悲しくなった。精神的な失踪というか、自殺じゃないか。こんな寂しいラストだから、印象に残って好きなのかもしれない。小説としては「須永の話」の葛藤が描きたかった部分なのかなとおもうけど、「停留所」の手探りのドライブ感も嫌いじゃない。妙に明るいし、神田あたりがたくさん出てきて楽しい。私にもこういう探偵ごっこ誰かやらしてくんないかなあと
思ったけど、探偵意外と難しそうだ。
ちなみに私は文学科の人間でもなんでもないから、漱石の来歴や小説の解釈については的はずれなことを言っている恐れがある。もう少し調べてもいいかもしれない。ところで内容がすごい勢いで好きな文章から離れていってないか?
美くしい島田髷をいただく女が男から強奪する嘆賞の租税を免れた積でいた。
なにかの映像特典で、WESTの誰かがおふざけで言った「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」に対して、濱田くんが「言い過ぎ……」ってシンプルに引いてて笑ったんだけど、これも「言い過ぎ……」の系譜である。
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でも、新潮文庫のだと目次がなくて不便。
青空文庫にあるよー
◾️柳田国男 ──願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ。
好きな文章というと、やっぱりこの人も入ってきちゃうなあ。イメージ過多の圧倒的な美文だと思う。
ただ、論旨をつかもうとすると大変で、美しい文に幻惑されてる内に、なにが言いたかったんだ?って迷子になる。折口信夫までいくと観念的すぎて私はお手上げなんだけど、なんだかんだで重さがあるからまだ読めているところはある。でも正直、もう読み物として読んでしまっている。民俗学徒じゃなくてよかった。
たぶん私が大学生のときくらいに、角川ソフィア文庫ってところで柳田の著作が出てて、ふ一んって手に取った気がする。
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結局全集みたいなので読んだ方が頭に入るんだけど、文庫本ってちょっと手に取るにはいいよね。私は『山の人生』が好きだったんだけど、最近は用があって短めの文章読んだら(へえこんなことも言ってたんだ)と思った。私は父の実家が山陰の山奥だから、「美しき村」(『豆の葉と太陽』)が映像的にもすごく腑に落ちた。
風景を説き立てるのは通例は老人だが、実は斯うして大きくなる盛りに、うぶな心を以て感動したものが、一生の鑑賞を指導して居るのである。
柳田が少年時代に見た景色の美しさを挙げて、そのようなよい印象を「感じ易い境遇の人」に植え付けていくのが「百の宣伝よりも効果は大きい」と述べている箇所。
千葉県観光協会で講演した内容らしく、元も子もなくないか?と思ったけど、そのあと言っている実際的な振興策よりずっと納得しちゃったし、やっぱり文章が気持ちいい。みんなこの「風景」を一つは持っていそうだし、種類も幅広そうで、誰かにききたくなる。
人間は最初この自然の印象が、一瞬時の後に消え去るを惜み、もしくはその感動の強烈なるに堪へずして、是を技芸に託して尚暫らくの保存を念じたのであつたが、其力がやや剰つて、今は却つて次に来る者の感動を指導せんとして居る。我々の好風景の標準は前代の画であり、文学であり、しかも往々にして外国のそれであった。何でも描き出すだけの力を持ちながら、いつも時おくれてやや古い頃の天然を崇拝し、それと一致しなくなつた眼前の変化を軽んじようとして居る。現世が果して美しいものの多くを失うてしまつたかどうか。
長いけどドキッとしたから引用しちゃった。
柳田の著作は学部生のときに濫読して、こういうことがあるなら生きてもいいかなって思ったんだけど、もうそんな場所なんてないわけで、まあ騙くらかされたわけよね。積極的に騙されにいったんだろうけと。日本の原風景なんてどこにもないよな、最初からあったか知らないけど。
体系的に読めているわけではないから、的はずれなことを言ってるかも。的はずれついでに言うと、柳田ってこっちからすると尻切れトンボに文章を終えたり、結びで急に激して終わったりすることが多いような。あれも積極的楽観の一環なのか。もう少し深める必要がありそうだ。是はただ単なる詠嘆の書ではないのである。
人に負けないと言うことをただ一つの先祖への供物として無理な忍耐をして家を興したというのが日本の立志伝の最もありふれた形式であった。
普通に書けばいいのに、これだよ!
なお、章タイトルに挙げたのは『遠野物語』の序文のあまりに有名な一節。
◾️椎名誠 ──ぼくは急速にふんふん化していった。
急に現代作家。ていうか思いつかなかった。椎名誠にはいろんな有名作品があるようですが、自分の中では『アド・バード』とエッセイのなかでの人物描写という二本槍の人です。
湯が体の表面をうれしそうにはね回っていた。土と泥と埃と汁と脂と恐怖にまみれてねとねとに固まった髪の毛をすこしずつよろこびの液体がしみ通っていく。
熱いシャワーを浴びる気持ちよさを、この小説よりリアルに表現したやつを読んだことがない。
アド・バードは小説としてもめっちゃ好きで、何回も読んだ。主人公のマサルが弟の菊丸と一緒に父親を探しに行く話なんだけど、ザクザク進んでいく冒険っぼさとか、たまに挿入される父親と過ごした記憶の美しさとかがめっちゃイイ。私はSF小説をあんまり読まないけど、これはなぜか好きだった。作中にずっと底流していた優しさが最後に噴出するようなラストで、優しいのに、なんか知らんけど、苦しいくらい悲しかった。
椎名誠は、エッセイも結構読む。面白い。アド・バードの感動には、全然だけど……(そりゃジャンルが違うから)。
とにかく行動描写が抜群に面白い。『面白南極料理人』は椎名誠と文体が似てた気がする。でも南極料理人はコンテンツの面白さで読んだけど、椎名誠は、コンテンツに興味がなくても、文章のスタイルが好きで読んでる。
通されたところは、コテージといっても日本的にいうとりっぱな二階建ての一戸建て豪邸であり、あちこちに素晴らしい装飾品が置かれ、ベッドルームは大きなものがふたつ、トイレが三つ、庭の中にはブライベート・プールまであるのだ。そこにいたるまでに、このようなホテルに泊まったことのないわれわれはすばやく逆上し、各部屋を覗きまくり、三つのトイレでそれぞれ小便をした。忙しい忙しい。
あとはとにかく周りの人間の描写が面白い。変やろそれってちょっと人間味のある行動を書いてて、おかしみがある。キミたちわかんないことがあったら全部ボクに聞いてほしいんだけどね。て言い出す人とか面白すぎるやろ。
この人を見るときの目、芸人のラジオでもよく出てくるやつだと思う。人の面白い行動を見つけてきて喋るなんて、芸人なんてみんなやってると思うけど、ランジャタイ国崎、軟水大川内あたりは特に謎の一貫性をもってやっていて、あそこまで行くとそういう文学性じゃないかと思う。
ちなみに章タイトルに上げたのは最近読んだ『あやしい探検隊 海で笑う』から。べつにあやしい探検隊シリーズのファンではない。
「船ばたからテグスをおとせば、魚もすぐにかかってしまいます。ナイフとショー油があればその場で酒の肴は刺し身の生き造り!」
「ふんふん」
「船内のクーラーにはつめたいビールがいつも冷えています」
「ふんふん」
「遠くでカモメも鳴いています」
「ふんふん」
ぼくは急速にふんふん化していった。
おわりに
好きな文章といっても、結局、好きすぎて書き写していたものと、何度も読んでいる小説からしか出てこなかった。淡々とした実直めの文章が好きなんだと再確認した。文章が固いと同僚に糾弾されるのはこのせいか? ただ、漱石や柳田を見習って、この調子でもっと文章をカクカクさせていこう! とはとてもじゃないが思えない。
あと、カクカク文章って、私が最近持ち始めた「似たような趣味をもつ同年代に読み捨てられたい」という志向性とは相性が悪い気がする。
てか好きな文章だっつってんのに、彼岸過迄に興奮して、最終的にランジャタイのラジオの話になってしまった。誰が読むんだこんな文章、嫌いだ、辛い。お腹すいたし最悪だ。でもまじでなんの予定もない三連休のヒマ潰しになった。
ところではじめにで書いた目論見のひとつは、書くのを趣味とすることです。スクリーンタイムばっかり伸びてしょうがないから。今後の人生、私はきっとヒマすると思う。膨大に余った時間を処するためにも、趣味は一個でも多い方がいい。まあ好きな文章を並べても、自分が書いた文章にゲボ吐かなくなることはなさそうだけど、書いていけばなにかわかるかもしれないし。とりあえず続けるか。
ここまで読んでくださった方もしいらしたらありがとうございました!