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■丹沢・大山を歩く■②大山阿夫利神社の石碑めぐり

前回の投稿で、現代の大山詣でのスタート地点、小田急線伊勢原駅から、バスで大山ケーブルまで到着し、そこから楽しいこま参道を通り、ケーブルカーには乗らず、険しい男坂を神社まで登ってきました。

今回は、大山阿夫利神社の中を中心に歩きたいと思います。ここに来て特にすごいと思ったのは、何と言っても石碑の数!境内だけでなく、山の麓まで含めて、至る所に石碑が飾られています。石碑と言うものは、過去にこの地に立った人が大きな思いを持って設置されているものが長期間残っているので、眺めるのがとても興味深いです。石碑巡りのようなことをしてみたいと思います。

■境内の石碑の数々

実にたくさんの石碑があり、それらを一つ一つ眺めているだけで、あっというまに滞在時間がリミットを迎えそうなので、面白そうなものに足を止めてご紹介します。まずは、こちらから。

東京開山講寄附 杉苗貳万伍千本

この「東京開山講」が、参道の杉の苗を寄附したことを記念する碑です。必ずその講の講元や導師さんの名前が刻まれています。

左:登山五十度記念(千葉県千葉町) 右:東京・谷中 御供物講(昭和9年)
女坂の分岐点に立つ石碑。後ろは、五十五度登山記念に、金貳百円を寄付した石碑

このように、登山道の途中にも、至る所に石碑が飾られています。

右の細長い石碑が、下社造営寄附 金三百五十円 駒込白山講
その隣の上が尖がった石碑が、父母の金婚式記念 永代供養料 金壹千円也(昭和4年)
その隣の一番手前の大きな石碑は、苗木料 金壹千円 日本勧業銀行(明治33年)
左上の石碑は、茨城県石岡町 太々講社(昭和初期)

石碑を眺めているだけで、いろんな時代、場所、立場の人がいろんなことを記念しています。個人的なことから会社を挙げてまで、様々です。

ひときわ立派な石碑が。

そんな中でも、ひときわ大きな石碑がありました。実はこの石碑、土木人に関係するので、長文ですが、碑文に記載されている内容をかいつまんで書くと、

横浜盛栄講は、大正7年、横浜市所在の土木建築業者を主体として創立した講である。初代講元が老齢で講を辞めようとするのはもったいないので、昭和26年にその志を受け継いだ講元が、新たに横浜清心講を創立した。この時期は終戦の混乱時期だったが、180名もの講員と集団で参拝することができた。講元は、港湾運送業を営んでおり、海運の発展を祈念し、阿夫利山頂に航海の安全の祈念する灯台を作ろうとするが、講元が途中で病魔に倒れ、昭和35年に亡くなった、講員が遺志を引き続いて施工し、昭和37年に灯台を完成させた。この石碑は、昭和46年に完成させたものである。

石碑の横に立つ鉄塔が、灯台でしょうか?

横浜の土木建築業を営む人たちの講が、大山の頂上に灯台を築いたという話でした。

こちらは、元神奈川県知事 内山岩太郎の銅像

神奈川県知事 内山岩太郎の銅像です。戦後初めて民間の選挙で選ばれた知事で、20年間歴任しました。

こちらは、権田直助翁の銅像。明治以降の大山阿夫利神社の初代宮司です。

こちらは、国学の祖 権田直助の像。埼玉県毛呂山町出身の医者で、国学を平田篤胤に習い、晩年は大山阿夫利神社と三嶋大社の宮司を務めたとか。

川越からの講者たちがつくったモニュメント。ひときわ目立ちます。

こちらは、ひときわ目立つ鋼製のモニュメント。「武蔵 川越」と書いてあります。明治37年 武蔵国入間郡川越町 とあります。

こちらは、輝け杉の子の像。
川崎市学童疎開40周年記念像 川崎市長 伊藤三郎

こちらは、川崎市の児童が戦時中に学童疎開で大山周辺に疎開していたことを記念する銅像。碑文が印象的なので、下記に転載します。

輝け杉の子像の碑文。なかなか印象的です。

学童疎開は昭和19年6月30日に閣議決定。国民学校初等科3~6年生について実施された。川崎市は中・南部24校の集団疎開先を中郡14か町村(一部、川崎市北西部、津久井郡)に決定。7100名の該当児童のうち、その3200余名をこの大山に疎開させた。すなわち平間、向、富士見、旭町、玉川、宮前、御幸、大師、住吉の9校の児童は、同年8月21~24日の間に川崎を出発、翌年10月、終戦による疎開解散に至るまでこの地で疎開生活を送った。
この像は、名状し難い困苦の中から祖国の再建を期する当時の幼い子らの姿を現し、困難な中で引き受けられた全地域の方々への感謝と、平和への誓いを込めて、当時の児童教職員、現教職員、一般市民、そして川崎市の協力により、疎開解散40周年を記念して建立した。製作者は圓鍔元親氏である。最後に、当地で爆死した、米須清博君の霊の安らからんことを切に祈る。
  昭和60年8月15日 川崎市学童疎開記念碑建設実行委員会

川崎市と大山にこんな関係があったとは、そしてこの地でも爆死した児童がいたとは・・。終戦40年を記念して作られた像が、色々なことを教えてくれます。

こちらは豆腐の碑。

豆腐の碑があります。大山は豆腐で有名な地です。これも豆腐組合の大山講が寄付したものなのではないかと思います。東京豆腐商工組合の参拝24回記念が左に並んでいます。

大山は太刀を奉納するのが有名。平成28年に日本遺産に指定されました。

日本遺産 大山詣でを記念した銅像。これはかなり新しい像です。

麓にある産業能率大学の学祭を記念した太刀奉納でしょうか。
隣のカラフルなたちは、フワちゃんのサインがありました(笑)。

山上に置かれていた太刀、一つは山麓にある産業能率大学の学祭の名前、もう一つカラフルな太刀には・・・なんと、フワちゃんの名前が(笑)。

学祭に出演して、地元の大山詣での太刀を奉納するという企画だったようです。ゆるキャラ、クルリンのぬいぐるみが欲しいという直筆メッセージが添えられていました。あと、太刀だけに、「たちひろし」とか書いてあります(笑)。

大山阿夫利神社のすぐ横にある、ケーブルカーの駅。今回は眺めるだけ(笑)。
ケーブルカーが急坂を下っていきます。

大山阿夫利神社は、ケーブルカーに乗りさえすれば、こま参道の上からスムーズにアクセスできます。このすごい雰囲気を気軽に味わうこともできるのです。
今回はここまで。次回は女坂を下り、大山寺を目指します。

■終わりに

大山阿夫利神社は、江戸時代から庶民が大山講を作って多数参拝していたこともあり、無数の石碑が建ち並ぶ、非常に印象的な場所です。石碑や銅像など、寄進されたものを眺めているだけでも、偉人たちの営みや、各地のご当地自慢、戦時中に起きたことなど、様々なドラマを感じ取ることができました。
大山を歩くプチ旅、まだまだ続きます。

(続きはこちら)


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