◎渋谷で街歩き◎①:代々木八幡駅周辺を歩く
大好きな街歩き。あまり同行者を伴うことは実は多くありませんが、今回は親子ほど年齢の離れた、大学で土木を学ぶ大学生の皆さんに誘われて一緒に歩きました。歩いた場所は、しばらく職場があり通っていた渋谷の町。渋谷の様々な場所が見たいというリクエストがあったので、最初に行った場所が、
代々木八幡
です。まずは代々木八幡という面白い街を紹介したいと思います。
■代々木八幡とは?
まずは、今昔マップで代々木八幡駅周辺を見てみましょう。
代々木八幡駅は、宇田川が2つの支流に枝分かれする場所にあります。小田急線は、Y字状に枝分かれする宇田川の支流から別の支流に、丁度「Y」の字の上の2辺を通るように走っています。だから代々木八幡駅前で大きく急カーブを切る形になるのです。それでは、まずは代々木八幡駅に向かいましょう。
■まずは新宿駅から代々木八幡へ
■代々木八幡駅に到着
代々木八幡駅の直上にある、山手通りの跨線橋。山手通りは首都高中央環状線のトンネルができる際に、道幅が広げられて、中央分離帯部分にランプや換気塔などの施設が作られることが多かったようです。また、駅のホームも、これまでの8両編成しか停まれない駅から、10両編成が停車できる駅に改造する際に、ホームを延伸できるスペースがないため、真ん中に島式ホームを新設して駅を作る工夫をしたとか。
■代々木八幡へ
代々木八幡駅から、歩いて数分で、駅名の由来となった代々木八幡に到着します。ここには何と、渋谷区なのに復元された竪穴式住居があります。(写真を撮り忘れたので、ここは竪穴式住居を紹介されているサイトをリンクします。)代々木八幡が建つ場所は、ローム層の台地の上で、低湿でなく、おそらく台地の縁部に当たる場所となるため、比較的湧水の恩恵を得やすい場所だったことが想像されます。昔の住居の遺跡や神社があるという状況からも、地盤が比較的良く、水も得やすい最高の立地条件だったのでしょう。
■春の小川の舞台を歩く
今度は、谷底の小田急線の線路沿いを歩きました。大学生の皆さんに、「鉄道が敷設されるのは、尾根か谷か、どちらが多そうですか?」と質問してみました。谷は浸水リスクはあるものの、水が得やすく昔から集落が立地していたこと、また、比較的川の流れに沿って線状に平地が広がることが多いことなどから、比較的谷に敷設されることが多いのではないか?というような考察をしました。こういう疑問を持ちながら街歩きをすること、とても重要だと再認識しました。
童謡「春の小川」の作詞者である高野辰之が、当時住んでいた東京・代々木のこの河骨川のモチーフに作った曲だと言われています。大正時代くらいまでは、このあたりは水田が広がり、小川が流れる牧歌的な場所でした。写真の左側に、春の小川の歌碑があります。(※大学生の皆さんに説明しながら歩いていたので、ここも写真を撮影するのを忘れていました(笑))。
ちなみに、渋谷区内で暗渠めぐりをする際は、こちらの「『春の小川』はなぜ消えたか」という本がおすすめです。この本によると、明治・大正時代に小川だった川が消えてなくなった理由が記載されていますが、都市化によってどぶ川が暗渠化された、という単純な理由だけではなく、そもそも水田があることにより、すでに川は用水路化していたり、住宅が建つことで側溝に変わってきた経緯などについて考察されています。都市部の谷戸の成り立ちなどを考えるのには、とても興味深い本だと思います。
代々木八幡駅の探索はここまで。続けて代々木八幡駅からバスで少し移動し、渋谷駅周辺を歩きました。
■終わりに
代々木八幡駅は、小田急線の中で最も新しく駅改良が完成した駅といってもいいと思います。急カーブの駅となっている理由は地形にあり、宇田川の支流をハシゴするような線形となっているためであり、地名の由来となった代々木八幡は、その間の小高い丘にありました。そこは地盤も良く、水も得やすかったためか、古くからの竪穴式住居が発達しました。また、「春の小川」の舞台となった河骨川も、今となってはその面影を辿ることも困難になりつつあります。そんな場所を大学生の皆さんと歩くことで、新たなる再発見がたくさんあった街歩きでした。この後、渋谷駅まで移動し、渋谷駅周辺を歩いています。そのあたりもレポートしましたので是非ご覧ください。(続きはこちら)