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『エドワード・ヤンの恋愛時代』
人の話を聴くということは、そう簡単にできることではない。ほんとうに自分は人の話を聴いているのか。あるいは、ほんとうに自分は人に話を聴いてもらえているのか。言葉が上滑りする会話しか、私には経験がないのではないか。
コミュニケーションに戸惑い、恐れる人間は私だけではないだろうが、28歳になろうとする今も、聴くことの困難という壁のほんとうの高さをまだ知らないような気がしている。
本作の登場人物たちも、人に言葉が届くとか、人の言葉が自分に届くとか、そうした経験を持たないのかもしれない。成長著しい都市において、親の事業を継いだり、役人としての地位を得たりした彼女・彼らには、自分がただ自分として在るのは困難である。人にあらかじめ決められたものとして見られ、自分たちもまたそのように人を見る。そうするしかなかったのだろう。
聴く・聴かれるという経験を経ないかぎり、自分の人生を生き延びていくことは難しい。ところが都市の光は、若者たちから、聴く・聴かれるにふさわしい場を奪っている。後半、画面を闇が侵食していくが、それはようやく彼女・彼たちが言葉をやり取りし合う場を持つに至るさまを示す。
私たちは結局そこまで追い込まれないと、言葉を交わせないのだろうか。絶望の後にしか、希望は立ち現れないのだろうか。どうも絶望的に思える。そんなに人は強いのだろうか。
あるいは、これはたかだが映画である。現実にこんな場はありえないし、人と人とが聴き合うことなどできない。そういう立場に立つことも可能であろう。自由と多様性の名の下に、無関心・不干渉が正当化される時代である。映画の中に希望を見るしかないなら、やはり絶望的な状況なのかもしれない。
しかし本作は、やはり希望を描こうとしている。主人公モーリーの義兄である小説家と、チチとの間に起こる一連の出来事に、私はそう確信した。
モーリーとの友情が危機に陥り、失意のもと小説家宅になだれ込むチチ。自らの今後のキャリアに絶望し、さまよう小説家。確かに両者は互いを必要とした瞬間があったかもしれないが、そのタイミングは微妙にズレている。小説家の告白も独りよがりな形で実行されてしまう。
そんな、互いの一方通行的な関係は、直後のアクシデントによって、あっけなく止揚される。小説家がたどりつく「至るところに真理がある」というセリフに表されるように、希望は身の回りにある。それが見つかりさえすれば、悩みなんていうものはあっけないものである。
原題は「独立時代」である。空っぽな人間が、ひとりの個人として自らを引き受けていくその瞬間を描くのに、長い期間は必要ない。そのあっけなさを起こすのにはたった2日間で十分だったということなのだろう。
終幕で若者たちは、いろいろと結論を出す。全てが解決されたわけではない。それでも、結論を出す過程で得た、聴く・聴かれるという経験が、その後の困難にただ飲み込まれるだけではない強さを与えたであろうことは感じ取れる。私にはまだこの強さはないのが悔しい。
(2023年8月26日、シネマート心斎橋で鑑賞)