繊細な描写が全く優しくない――映画『ほつれる』評
岸田國士戯曲賞受賞の劇作家・演出家で、昨年『わたし達はおとな』で鮮烈な長編映画デビューを果たした加藤拓也監督の長編第2作。
綿子(門脇麦)は、夫・文則(田村健太郎)との関係が冷え切る中、木村(染谷将太)と逢瀬を重ねていた。ところが次の約束をして別れた直後、綿子の目の前で木村が交通事故に遭ってしまう。心の支えだった木村の死を受け入れられず、文則との溝も埋まらない中で、綿子がさまよう時間を描く。
前作に引き続き、スタンダードサイズで引き画の多い画面構成となっており、会話シーンは綿子の顔だけが見え、相手の顔は見えないショットが多い。しかし、彼女の心象風景をそのまま映像にしてしまうようなことはない。綿子は、本心で何を考えているかは一見して判断しづらい。こういう役はさすが門脇麦、お手の物である。独り涙を流すシーンでさえ照明が暗く、顔がよく見えない。ゆえに観客は安易な感情移入を禁じられ、あくまで綿子の生活をのぞき見る傍観者としての鑑賞体験を得ることになる。
とにかくカメラワークが良い。綿子が予約なしに旅館を訪ねるシーンは、最初に一見してそこが旅館だとは分からないアングルから始まり、空き部屋へ案内されるまで1カットで映す。建物の中で柱や家具の手前を横切るようなショットが、先行きの見えない緊張感を画面に漂わせていながら、滑らかにドラマを展開させていくダイナミックさを生んでいる。
登場人物たち、特に綿子と文則の会話には、常に建前と本音が同居し葛藤を起こす。映画冒頭、文則「そろそろ布団、ぶ厚いのに替えてもいいかな」、綿子「こっちに持ってきておく」という短いやりとりに、既に決定的な不穏さが含まれる。男女のすれ違い、と言ってしまえば簡単ではあるが、脚本に加え、門脇・田村の表情と声の、絶妙な繊細さが成せる空気である。
前作について「本作を見ていて、自分が法廷に立たされて検事から矢継ぎ早に『証拠』を突き付けられるような感覚に陥った。そういう『証拠』のようなシーンの積み重ねでできている」と書いた。
今作も、繊細な作りなのに、いや、繊細な作りであるがゆえに、ストーリーの語り口は登場人物たちに対し全く優しくない。起こっていることは、主体性を欠いた人間どうしのだらしないやりとりであり、もはや終盤に明かされる綿子と文則の過去などは、滑稽さすらある。
にもかかわらず、傍観しているはずの観客にとっても、ただ他人事として「こんなダンナ許せねえ」とか「この女の考えてることがさっぱりわからん」みたいに突き放して溜飲を下げたところで、居心地は良くならない。
だましだまし放置しておけると思っていたほつれが、そのうち取り返しの付かない大きさに広がっていくことは、誰にも思い当たる節があるものだ。ほつれが大きくなっていく様を、叙情的にではなく、叙事的に描き切ったことに本作の映画的魅力がある。
物語と形式の一致へのこだわりが強すぎることに対して、全く物足りなさを感じないという訳ではないが、84分という長さも含めて、この禁欲的な作風の徹底ぶりはやはり買いたい。
(2023年9月13日、シネ・リーブル梅田で鑑賞)
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