映画『わたし達はおとな』
※2022年5月27日にCharlieInTheFogで公開した記事(元リンク)を転載したものです。
予告編とタイトルからして、若きカップルの倦怠、別れ、それに伴う成長を描く映画なのかと思っていたが、どうもそうではなかった。
デザインの勉強をしている女子大学生の優実(木竜麻生)は、チラシ制作を手伝った縁で演劇サークルの直哉(藤原季節)と付き合い、同棲している。優実はある時、自身が妊娠していることに気付き、直哉にその事実を告げる。
しかし優実は、子どもの父親が直哉かどうか分からないと告白する。2人は一度別れており、その期間に優実は別の男と関係を持っていたのだった。
と、まあストーリー自体はそこまで突飛ではないが、本作はそういう青春とか、人間の成長とか、そういうものを描こうとしているわけではなさそうだ。実際、2人は終幕まで特に成長というべき成長を見せない。むしろ2人の懲りなさが展開される。
本作の恐るべきところはむしろ、スクリーンに映し出される数々の所作、言動、雰囲気に、思い当たるところがある点であろう。
自分の単なるわがままな感情を、主語を抜いてあたかも客観を装う文体で相手に強制しようとする発話。わかったような口で人様を査定する行為を通じて、自尊心を守ろうとすることの危うさ。同調圧力の中で、互いが互いを疑いながら会話を交わすことで凝集力を保つ友人コミュニティー。
こうした過ちはそれがどんな形で暴発するかに違いはあれど、多くの人間が経験してきたことであり、青春を過ぎてなお繰り返し繰り返し起こしてしまうものでもある。なるほど舞台挨拶で「『日常』の映画だと思っています」と木竜が話したのはよく分かる。
本作を見ていて、自分が法廷に立たされて検事から矢継ぎ早に「証拠」を突き付けられるような感覚に陥った。そういう「証拠」のようなシーンの積み重ねでできている。
しかし、いちおうの結末があるとはいえ、それは「判決」とは言い難いものである。少なくとも私はそう感じた。いくら罪を重ねても人生はそう簡単に罪を償わせてくれないし、罰を受けて終わりにしたくても終えることができない。非常に後味の悪い終わり方である。
本作はメ~テレ60周年記念作品だが、これまでに同局が製作に関わった『愛がなんだ』『勝手にふるえてろ』『寝ても覚めても』などの名作に比べて、見ていて痛みの非常に強い映画だった。傑作である。
(加藤拓也監督、2022年)=2022年5月24日、テアトル梅田(先行上映)にて鑑賞
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