映画『きみの色』評/心的な動揺が不可視化された現代を描く問題作
(山田尚子監督/2024年/日本/100分/カラー/アメリカンビスタ)
長崎のミッションスクールに通う高校生トツ子、中退して古書店で働く少女きみ、医学部進学のため長崎の塾に通いつつ内緒で音楽活動をしている離島の高校生ルイの3人によるバンドの物語。
きみにとってもルイにとっても、最大の関心は、周囲の期待をいかに裏切らずに生きていくかということに向けられている。自我を内面に閉じ込めて、いかに体裁を整えるかにエネルギーを使い、疲弊している。このあたりは、現代の思春期世代のリアリティーに通じるのだろう。
そして最も裏切りたくない相手が、親や保護者であるというのも現代的に思われる。親には言わないような秘密を一つや二つ持ち始め、親には平気で嘘をつくのが思春期というもの、という私の常識と、本作の登場人物たちの行動規範は違う。
裏切りたくない相手とはすなわち、最も自身を承認してほしい相手ということでもある。保護者に真実を打ち明けた後、2人は聖バレンタイン祭に保護者を呼ぶ。この感覚も、私の常識とは違うなと思う。
とはいえ、きみが、保護者である祖母に隠していたのは中退の事実だから、相当なものである。確かに中退してなお承認を得られるかどうかは、不安材料なのかもしれない。ところが、そこまでに至るほど葛藤が大きいなら、きみの普段のささいな行動や表情にピリピリとした緊張感が張り詰めていてもおかしくないのに、そういうこともない。
この、きみの自然さが、鑑賞直後には制作者の詰めが甘さに見えた。葛藤をそのまま事件にするのは野暮だとしても、緊張を画面にすることはもっとできたのではないか。なぜ登場人物たちはふつうに身をこなせているのか。(登場人物にとって)あまりに大きいプレッシャーに、なぜ身体が反応しないのか、と。
しかし、そのくらい、思春期の葛藤が他者から不可視なものとなっているのだとすれば、これは現代の病理を描くことに成功しているのかもしれない。きみの孤独は解決されていないのではないかとさえ思う。3人で過ごした時間を通じて自らの個性を手にしたトツ子とのギャップは大きいように見える。かけがえのない思い出が、必ずしもその後の人生を支えるとは限らない。
唯一、シスター日吉子だけは事態の複雑さや深刻さを察しているようには見える。トツ子やきみに、規範の解釈をずらし乗りこなす知恵を授けようとする。しかし所詮大人がしてあげられることはその程度のことでしかないことも、日吉子にはわかっているのだろう。
トツ子は、きみがルイを見るときの顔つきの変化を鋭く察しながらも、それ以上踏み込まない。若年層の人間関係の潔癖化は著しい。しかしその半面、個人の心的基盤の不安定さは、深刻を増すばかりである。こうした現実を突きつける問題作である。
ラストで、進学で土地を離れる船上のルイに、きみが波止場から精一杯の大声でいう「頑張れ」は、確立できぬ自信を他者に託した悲痛の叫びにさえ思える。最後に挿入されるカットは、これが結末ではないということを示唆するが、果たして。
=2024年9月7日、TOHOシネマズららぽーと門真で鑑賞