映画『福田村事件』評/観客の想像力をもっと駆動させてほしい
キャスト陣は抜群だった。特に、在郷軍人・長谷川秀吉役の水道橋博士の好演のインパクトは大きいものがあった。博士の演技を見に行くだけでも、劇場に足を運ぶ価値はある。
しかしどうも、キャラクター自体とそのキャラクターに負わせる物語上の役割に古臭さがあり、かつ日常描写に緩慢さがあるのが気になった。
本作は、1923(大正12)年の関東大震災による混乱の中、千葉県東葛飾郡福田村(現野田市)を訪れていた香川の薬の行商団が、村人たちに朝鮮人ではないかと疑われた末に虐殺された史実を題材としている。企画は荒井晴彦、脚本は佐伯俊道、井上淳一と荒井の3人が手掛け、監督は劇映画としては初めてメガホンを取った森達也である。
本作がなければ「福田村事件」の存在が広く知られることはなかっただろうし、映画自体がつまらないかと言われるとそうではない。福田村事件だけではなく、朝鮮人惨殺や、この機に乗じて警察が社会主義者を捕らえ署内で殺した「亀戸事件」にも触れている点など、押さえるべきポイントにも目配りしながら劇映画として成立させているのは、とりあえず評価して良い。
だからこそ、惜しさが余計に気になるというものである。
主人公・澤田智一(井浦新)の政治的な無力感、挫折経験を性的不能と絡める筋立てはかなり古臭いし、こういう筋立てにする価値観は、もはやマチズモではなかろうか。
また、村の同調圧力に屈せずにいる面々が、みな周縁の人間であるというのも、マイノリティーの存在がマジョリティーの罪をそそぐという構図に見えてあまり気持ちのいいものではなかった。
さらに村人の日常が見えるようで見えない。
民衆が煽り煽られる中で暴走するということを考えれば、彼らが持つ凶器は、日常のものでなければならない。でないとわざわざ、暴力のために武器を持つことになるからだ。武器になり得るものでも、それは日常においては武器としては使われない。だから群集心理が暴走したときが怖いはずなのだ。
にもかかわらず、日常シーンで彼らは凶器になりうるようなものを使っているところがほぼ見えない。むしろ地震前に包丁を使ったり、鎌を使ったりしているのは澤田夫妻ら、のちに虐殺を止めようとする側の人間なのである。
日常描写こそ、その後の事件との連続性を、話ではなく画で見せないといけない。そこまでしてやっと、観客は自分の日常に潜む狂気への転換点を探し始めることになるし、それが首都東京で起こった朝鮮人虐殺への想像へとつながることになる。
もちろん、一方では、想像力を働かせようとする試みは、福田村事件を題材にしたことからそもそも始まっている。「朝鮮人と間違われた日本人が殺された」こと自体には意外性があるが、それゆえに、殺される行商のリーダー沼部新助(永山瑛太)のセリフ「朝鮮人なら殺してええんか」が大きく響く点で素晴らしい。
豊原功補演じる村長・田向龍一の役どころも良い。進歩的な考えを唱えながらも、村の民衆の暴走を止められない描写は、言葉の力の限界を素直に捉えていて好感を持った。
また、川をさまざまな隔たりの象徴として、各所に登場させる点など、画作りにうまさを感じる部分もしっかりある。
あと一歩なのである。企画者の熱意はそのままに、もっと洗練された脚本と、画作りのさらなる引き締まりがあれば、文句なしの作品だっただろうと思う。
(2023年9月17日、シネ・リーブル梅田で鑑賞)