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映画『悪は存在しない』評/”半矢”は逃げる力を失う
(濱口竜介監督/2023年/106分/日本/カラー/ヨーロピアン・ビスタ)
印象的なセリフを2つ挙げたい。
グランピング場建設計画の住民説明会を前に、事業者への不信感むき出しの青年に、町の区長・駿河(田村泰二郎)が諭すように言う「避けられるけんかはするなよ」というセリフ。
そして、別の場面で、町の“便利屋”巧(大美賀均)が言う「逃げる力がなければ、戦うかもしれない」である。巧は、建設予定地が鹿の通り道であることを、事業主体の社員・黛(渋谷采郁)に話す。鹿は人を襲うのかと黛が問うと巧は、野生の鹿は臆病だから人を襲わないが、「半矢」つまり手負いの鹿やその親鹿なら襲うかもしれないと説明し、そのあとに、このセリフを口にする。
本作の舞台、長野県の架空の山村「水挽町」は、戦後の農地改革で土地を持たぬ者にあてがわれた開拓用地だという。歴史は浅く、住民はみな、土地にとっての「よそ者」という意識で暮らしてきた。だから、自然環境と利便の「バランス」を考えてきた。まさに「避けられるけんかはしない」という指針である。
一方「逃げる力がない」のは、事業主体のほうかもしれない。東京の芸能事務所プレイモードが、コロナ禍による経営危機を打開するため、コンサルの提案で着手した事業である。目論むのは補助金の受給でしかなく、計画はずさんだ。
会社も追い込まれているが、住民説明会で説明を担当した社員・高橋(小坂竜士)も追い込まれている。黛はまだ若く、この計画の無理を理解し、タイミングを計って足を洗おうとしているが、高橋は年齢的にも転職は厳しく、あるいはその勇気もない。高橋もまた「半矢」の状態である。
濱口監督がインタビューなどで語っているように、自然には少なくとも「悪意」は存在しないだろう。普通、人間は自然災害に「悪意」は見出さない。
もし「悪意が存在しなければ悪ではない」のだとすれば、高橋のやや無神経な振る舞いも悪ではない。確かに、友達にこういうタイプがいたら、面倒なことは多そうだが憎めないかもしれない。
しかし、実際には「悪」と「悪意」は対応しない。高橋の危なっかしい言動は、町の住民との間に意識の根本的な断絶があることを顕在化させる。自分が、会社と住民の間に挟まれて行き場を失っている身であるにもかかわらず、「グランピング場によって通り道を失われたら鹿はどこへ行くのか」と問われると「どこか別の場所に」と平然と答えてしまっていた。自分が何なのか分かっていないがゆえに、ハレーションを無意識に起こしてしまうのだ。
実は巧も、本当はそういう人間なのではないか?と思うフシがある。娘の保育園の迎えはいつも忘れるし、高橋や黛の使い方は荒っぽい。たまたま町には適応しているようだが、環境が違えばハレーションの種になっていたかもしれない。たびたびインサートされる、今は不在の女性(おそらく妻であろう)の写真も、過去の蹉跌を示唆する。
そう考えると、ラストの衝撃的な展開は、「半矢」どうしの衝突だったのかもしれない。
一体あのどこに、戦いを起こすハレーションがあったのか。なぜ高橋は、巧は、あそこで戦わねばならなかったのか。明確に提示されずにあっけなく終わってしまう。
この「わからなさ」を監督が観客に突きつけたことの意味とはなんだろう。
とりあえずこのように解釈している。観客である私たちもまた高橋や巧であるのだと。
「わからない」のは、私たちに全知全能の力がないからである。高橋や巧が、ある方面で鈍感であるように、人間は誰しも、気付かぬうちに逃げる力を失い、またいつの間にか戦いを引き起こしかねない「半矢」の存在である。
ただ、人間は傷を癒やすこともできるし、傷を乗り越えて世界を拓いていくこともある。普段の濱口作品であれば、その癒やしに必要なのは、徹底的な戦いを経た自己理解であり、その上で新たな自分を手にすることになる。こうして「避けられるけんか」が増えていく。
高橋の気絶もまたそうした、癒やされることを前提にした負傷なのか、それとももはやその段階は超えた悲劇だったのか。瀬戸際に高橋が立たされているなら、観客である私たちも同じく瀬戸際に立たされているということなのかもしれない。
=2023年11月26日に広島国際映画祭で、2024年5月4日にシネ・ヌーヴォで鑑賞。