短編小説「雨の歌」
※以前に趣味で執筆していた短編小説です。元々はお題にそった短編小説なので、原題は「雨の日」という作品になります。
※「春の風、嵐の前」と「アラウンドザワールド」とちょこっとクロスストーリーになってます。
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湿った空気に、小さな粒がリズムよく落ちる。
こんな日は雨宿りがてら、カフェに立ち寄るお客さんが増える。
カラメルをたっぷり含んだように甘美な弦楽BGM。せっかく雨宿りできてくれたのだから、少しでも雨の憂鬱さを忘れてくれればいいと思う。
もちろん雨の日にコーヒーのテイクアウトは少ない。だからこそテイクアウト用カップにつけるコメントは特別に力を入れてしまう。
はたしてそれを楽しみにしてくれているお客さんがどれくらいいるかなんて分からない。それでも、こんな天気の日に立ち寄ってくれたせめてものお礼だ。
今日は何のテーマにしよう。
もう梅雨入りだからアジサイなんか描いてみたいけどなにせ時間がかかりそうだ。それともやっぱり傘がいいだろうか。
そう思ったところで入口の自動ドアが開く音がした。新たにお客さんが入ってきたようだ。
私は目の前のコーヒーマシンから入口へと顔を向け、いらっしゃいませ。と、いつものように言いかけた。
しかし瞳がすぐに彼を捉えた瞬間、かすかに震えた声しか出なかった。
雨の日にしか現れない彼。
憂鬱なレイニーデーは、私にとってはいつのまにかラッキーデーになっていた。
【 雨の歌 】
コーヒーショップで働くようになってから、音に敏感になったような気がする。
ただそれは不快という意味ではなく、ある種の楽しみをもたらしている。
飲んだカップをソーサーに置いたときのささやかな音や濃厚なエスプレッソを抽出する時のパワー音。
学校帰りの女の子たちがする鈴の音のように可愛いガールズトーク。
おばさま方の下世話な噂話にはちょっと辟易するけれどそれが全くないのも何だか寂しい日もあって、まるで色が沢山並んでるパレットみたいだと思う。
人がくつろぐ空間で、美味しい時間を提供する。私がカフェ空間で働きたいと思った一番の理由がそれだ。
店内は壁もテーブルもコーヒー色のウッド調でシンプルに統一されていて、店員は全員白いシャツに黒のパンツ。そして森を思わせるような深いグリーンのエプロン姿。
売っているのはただのシアトル系コーヒーなのに、その洗練された雰囲気とドリンクのフォトジェニックさにオシャレが好きな人やSNS好きの人たちに結構人気だ。
『世界で厳選されたコーヒー豆での挽きたてをご提供』というのが売りだけれど、ここは立地が駅近に加えて藝大の近くなので、売れるのはもっぱらクリームがたっぷりのラテかフラペチーノ類。
コーヒーをブラックで頼むのは藝大の職員さんか先生くらいだ。それと……
「いらっしゃいませ、こんにちは。本日はいかがいたしますか?」
私はオーダーカウンターに現れた彼にいつもどおりに挨拶すると、彼もいつもどおりの笑顔で返してきた。
「こんにちは。今日もいつものでお願いします」
「かしこまりました。それでは受取口でお待ちください」
「今日も長く降りそうですね」
「こういう降り方ってなかなかやまないですよね。警備員さん泣かせですね」
「あはは。ほんと。まぁ慣れましたけどね」
「あら、頼もしい」
人懐っこい子犬のように笑うこの人は、藝大で働く警備員さんだ。それも表門ではなく裏門の。
年齢は多分、私とそう変わらない。もしかしたら少し年下かもしれない。
笑うと少し目が細くなるのだけれど、なんだかそれが幼く見えるのだ。そこに通う大学生と言っても十分通じると思う。
出勤前だから服装もラフで、いつものジーンズとスニーカーにパーカーとリュック姿。ジーンズやパーカーだってオシャレというよりは何年も大事に着ていそうなぐらいにはくたびれている。
お昼前に寄るという事は今日はどうやら遅番らしい。
少し照れたように遠慮がちに笑う彼はお客さんとしてとても好感だった。
中には距離感を勘違いして慣れ慣れしく近づこうとする人もいる。けれど親しさの中にもきちんと距離を保って、それ以上でもそれ以下でもなく接してくるこの警備員さんはすごく好きだ。
そして必ずと言っていいほど雨の日に来る。注文するものはいつも決まって『本日のおすすめコーヒー』。
今日も例にもれず、私は迷わずカップを指定のマシンのところへセットした。
什器は蒸気を含んだエンジン音のような音をたてて、こっくりした色の液体をおとす。
淹れたてコーヒーのアロマが立ち上る湯気と一緒に薫ってきて、たちまち私の鼻腔は刺激されて毎度のことながらうっとりする。
ああ、どうしてコーヒーの薫りってこんなに良いんだろうか。
とくに今日のおすすめはキリマンジャロだから、酸味ですっきりとした薫りと味なので、天気に左右されずに気持ちが切り替わってくれたらいい。
しかしいつまでも浸っていられない。少しでも冷めないうちに手早くキャップを嵌めると、カップ脇の「BLACK」のチェックボックスにサインペンでチェックを入れ、そのままサラサラと「おまけ」を描いた。
「お待たせいたしました。今日も頑張ってくださいね。いってらっしゃい」
「ありがとうございます。じゃ、行ってきます」
彼は穏やかに微笑みコーヒーを受け取ると「じゃあ」と挨拶がわりに少し掲げてカウンターを離れた。
朝や出勤前に立ち寄る常連のお客さんにはなるべく「いってらっしゃい」の一言をつけるようにしている。もちろんそれが勘違いの原因にならないとは言い切れないけれど、それくらいの社交辞令が通じない人のほうがどうかしてるんじゃないかと思う。
初めはとくに言ったりしていなかった言葉だけれど、店長が自然とそう常連さんには口にしていて、常連さんたちも嬉しそうに「いってきます」と答えてくれるのを目の当たりにして「なんかいいな」と感じてから、私も真似をするようになった。
考えたら一人暮らしをしてから人に「いってらっしゃい」なんて言われてない気がする。
なんて事のない一言かもしれないけれど、いざ自分が人からそう送り出されたら……こそばゆさはあるものの、やっぱり嬉しい。
それにその一言で誰か一人でも「今日という日を頑張ろう!」と思ってもらえたならもっと嬉しい事はない。
自動ドアが閉まった音を聴き終えると、私は無意識に一息吐きだす。肩の力が知らずに入っていたのに気付いた。
そしてすぐに思う……次の雨はいつなんだろうか、と。
自分でもどうしてそう思うのかは分からない。それでも何となく、気になるのだ。
「ため息なんてどうしたの、カエデちゃん」
その言葉にハッとした私は、レジカウンターに立つツゲさんに笑う。
ツゲさんは若いのにバリスタとしてはベテランスタッフで、将来自分のカフェを持ちたいと目標している。落ち着いた物腰の彼女は年配のお客さんに人気があって、もちろん本社からの評価も高い。
スタッフ同士の私語はご法度だけど、あまりにもさりげなく話しかけてきたのでお客さんにも気づかれてはいないだろう。
私は什器を軽く拭きながら「雨、だからですかね」と曖昧にしたら、ツゲさんは「ふーん」と訳知り顔のようにして楽しそうに微笑んだ。
「今の男の子、雨の日によく来るよね」
どうやら話題を続けるらしい。お昼の慌ただしい時間が終わってちょうど人が落ち着いた頃だった。
当然喋っていてもお互いカウンターを整理したり少しの拭き掃除をしたり、レシートやサービス品の補充を確認したり手元は忙しい。私は何でもない風に答える。
「そうですね」
「雨の日ばかりにシフトも大変ね。そこの警備員の子でしょ。通りがけにたまに見るから」
「ツゲさん家は裏門の方に行きますもんね」
「カエデちゃんと同い年くらいよねきっと。彼女とかいるのかな。顔、可愛いし」
「さあ?そこまで喋った事ないですし」
「そっか。なんとなく、カエデちゃんとお似合いそうって思うんだけど」
「え~?だから接点ないですって」
「あるじゃない」
「へ?」
「雨の日。今日みたいな日」
思わず手が止まった。ツゲさんにしては妙にこの話しに拘るので不思議に思ったけど、それくらいカウンターでの私が少し浮かれているように見えたのかもしれない。
「……私、ちょっと変でした?」
そろりと小声で確認すると、ツゲさんはにこやかにして小声で「ちょっと、嬉しそうだったからもしかして……って下世話な事思っちゃった」とお茶目っぽく言った。
「たしかに良いお客様ですけど、ただそれだけです。いつも天気の話しかしませんし」と返す私に、説得力がないとばかりにハイハイという表情をした。
「なんか二人イイ感じだったからさ。っと、マネージャーのご来店っと。お口にチャックだ」
タイムリーにもエリアマネージャーが店の前の横断歩道を渡ってくるのが見えた。濃いブルーの傘に雨が跳ね返っている。先ほどよりも雨脚は強くなっているようだ。
今日の天気はもしかしたら台風へと変わるかもと、朝のニュースで天気予報のお姉さんは言っていた。帰る頃にはとくにひどいかもしれないことを今から覚悟した。
* * * * * * * * * *
天気予報は裏切ることなく、雨は夕方から勢いを増した。
風も轟轟と鳴り響き勢いは衰えず、そのまま夜になり中番の今日はいつもより早く上がれるとしてもまっすぐ帰る気にはなれなかった。
「あれ?カエデちゃん、帰らないの?」
「使ってる路線がちょうど運転見合わせになってるみたいなんで時間潰そうと思って」
「そっか、私鉄か。たしかに夕方からどんどん酷くなってるもんね」
「読みかけの本もあるしコーヒー飲んでから帰ります」
「あたしは明日早番だからこの天気だけど帰るわ。気をつけてね」
「ツゲさんこそ、傘ごと飛ばされないで下さいよ」
「そこまで暴風雨じゃないから大丈夫よ。じゃあお疲れ」
「お疲れ様です」
この天気の中、帰るツゲさんを見送った私はオーダーしたコーヒーを受け取り、一人で時間をつぶす時のお気に入りの席に目を向けた。
そこは入口近くの窓際カウンターの端っこ……から2番目の席。
だけど今日はOLと見られる女の子が既に一人座っていたので、レジカウンターを背にしきりがソファになっている一人掛けのテーブル席についた。
一人掛けでもゆっくり時間を過ごせるその席は大体常連さんで埋まる事が多い。
そこでは集中して勉強したりパソコンを広げたりと思い思いにカフェ時間をすごしている。
私は腰を落ち着けるとバッグから文庫本を出した。そこまで通勤に時間がかかるわけではないけれど、ちょっとした移動の時につい忍ばせてしまうのが癖になっている。
ここで働くと特典として毎回コーヒー2杯分が無料で飲める。いつも休憩中と仕事終わりに1杯ずつ頂いてから帰るのが日課だ。
オーダーしたのはこっくりとした味わいのコロンビア。最近のお気に入り。
本日のおすすめのキリマンとは違った風味で、向こうがサッパリとした軽やかな香りなら、深煎りのこちらは芳醇といった言葉がよく似合うかもしれない。
一口飲むと苦味とはまた違った濃い何かが喉の奥にじんわりと広がる。いわゆるコクってやつだ。けれど後味は引きずりすぎず、口内に香りだけがいつまでも佇んでいる。
そこでようやく気が休まると、お客さんがまた一人入ってきた。
何気なく見ると、警備員の子だった。
お互い仕事終わりといえ、目でも合えば社交辞令でも挨拶をせざるをえない。
それがいつもなら少しだけ気まずく感じるのに、彼がちょうど来るなんて初めてだったのでつい目を逸らしそびれていたら目が合ってしまった。
彼は私に気がつくといつもの子犬のような笑顔で会釈をしてくれたので、私も小さく会釈してそそくさと文庫本に向き直る。
けれどどんなに本に集中しようとしても、いつもと同じようにオーダーする彼の声を自然と耳がキャッチしてしまっていた。
どうして気にしてしまうのかは分からない。
ただ雨の日に来るってだけのお客さんなのに。
名前、何て言うんだろう。年齢はいくつくらいなんだろうか。
本当は知りたい事ばかりが頭をグルグルしていて、私の目は本を読んでいると言うより字を視線でなぞっているだけに過ぎなかった。
「あの、隣、いいですか?」
はっ、と顔をあげると、やはり彼だった。
遠慮がちそうな表情だったので思わずあたりを見渡すと、窓際のカウンターもほとんど埋まっていて、私の両隣が唯一空いている席だった。
入口近くのお気に入りの席では、いつの間に来たのかOLさんの彼氏が彼女の隣に座っていた。
「あ、どうぞ……」
「読書してる時にすみません。隣失礼します」
「いえ、何となく読んでただけなので……」
彼はホッとしたように微笑み、私の隣に腰を落ち着けながら訊ねてきた。
「お仕事、終わりですか?お疲れ様です」
「はい。そちらも……ですよね。大変な天気でしたね、今日は」
「はい。でも上がる時間が雨が一番すごくて。乗る電車も動いてないみたいなんで、たまにはと思って仕事上がりに」
「あ……ご利用くださってありがとうございます」
「いえいえ!逆に仕事終わったのに話しかけちゃってすみません」
「そんなことないです!大丈夫です」
「よかった。話しかけちゃった後に、もしかして嫌だったかなって思って内心慌ててたんです」
彼は遠慮がちに笑いながら首の後ろを撫でるような仕草をした。きっと癖のひとつなのかもしれない。
ただのお客さんと自分の職場でこうした会話をするのは変な感じだ。
柔和な彼の雰囲気に何となく訊いても大丈夫な気がして、気になっている事を聞いてみる事にした。
「あの、私の勘違いだったらアレなんですけど、雨の日にシフト入ってること多いですよね」
「え?あ、あぁ、よく気付きましたね」
「何となく、雨の日にいらっしゃるなって思って……」
「毎回ってわけじゃないんですけど、ぼく雨の日はだいたいシフト出てるんです。担当警備員が……わりとおじいちゃんなんですけど雨の日だととくに昔に事故した足が痛むみたいで。なので交代ってかたちで入ってるんです」
「優しいんですね」
「そういうわけじゃないですよ。結構ぼくもその人に用事で代わってもらったりするし、交代ですから。それに雨の日は意外と嫌いじゃないんです。犬かってよく言われるんですけど」
彼はちょっとだけ恥ずかしそうしながら笑った。雨の日が嫌いじゃない、と笑顔で言えるのは何だか素敵だ。
そしてその笑顔と一緒に、私の心には店内のBGMがふいに入り込んできた。
曲目がちょうど変わったらしく、弦楽……おそらくチェロだろうか。ピアノのこぼれるような音とチェロが一緒に響いている。
何のクラシック曲かは分からないけれど、目が覚めるように明るく晴れていくような……そんな優しいメロディだった。
こんな天気で時間つぶしで過ごしていただけなのに、まさにひょんな事から彼と隣の席になり、雨の日にしか来ない少し気になる人の笑顔が目の前にある。
アンバランスな状況に変わりないのに優雅な音楽が響いてきてコーヒーの薫りは漂っているなんて、まるで何かの舞台のワンシーンのようだと思った。
不思議な感覚になりながらも、雨の日に見る理由がなんとなく分かってスッキリした私は、
「いつも雨の日にくるなぁって思ってたので謎が解けた気がします」
と笑ってみたら、彼の目がいっそう細くなって楽しそうにくしゃっと笑った。
「え~?謎になってたんですか、ぼく」
「あはは。すみません」
「ぼく、いつも雨の日のここのコーヒー楽しみにしてるんです。いつもカップの絵。なんか可愛くて」
そう言われて私はちょっと照れくさくなった。
「あれは……ほんと私の勝手な趣味みたいなものなんで恥ずかしいんですけど、楽しんでもらえればいいなって思って」
「何気に楽しみにしてるんですよ。コメントもいつも違うし、絵とか描けないんですごいなって」
「そんなに褒めても何も出ないですよ」
「そういうわけじゃないですって」
「……じゃあまた雨の日を楽しみにしててください」
「あははは。じゃ今度も楽しみにします」
その時、「いいです。もう、わかりました」とキッパリと涙声ながら女の人の言葉が不意に聞こえた。
何となしに声のする方を見ると、お気に入りの席に座っていたOLの女の子だった。
彼女は耐えられないというように荷物をひっつかむと、酷いこの雨風の中、店から出て行った。席には彼氏らしき男性が彼女を追う事もなく、うつむいて静かにただ座り続けていた。
何となく悲しそうに見えるから、別れ話だったのだろうか。
横顔でも分かるほど顔立ちの整った男の子で、カッコイイ子でも失恋することはあるんだなと何となく思った。
「……あ、電車が動いてるっぽいです」
「え?」
彼がスマホでの電車情報を確認しながら口にした。
私は目の前の光景に気を取られてしまい一瞬間抜けな返事になったけれどすぐに「そっか。じゃあ私そろそろ行こうかな」と言い、文庫を鞄へと入れた。
コーヒーは彼との他愛ない会話のうちにすっかり飲んでしまっていた。彼もカップの中はもう空だ。私が席を立つと、彼もトレーを手にしながら立った。
「じゃあ僕もそろそろ。 雨、やみそうにないですし」
彼も電車待ちをしていたのだろうから、この流れに不自然さなんかなかった。
けれどお客さんと店員としての気まずさとはまったく違う心のざわつきを感じてしまう。私はソロソロと落ち着かない心がばれないようにさりげなく聞いてみた。
「電車が動いた頃がやっぱりチャンスですよね。……私鉄ですか?」
「ぼく、私鉄です。ニュータウン方面なんで」
「じゃあ私とは反対方向なんですね。」
「同じ沿線だったんですね。ホームに何とか入れたらいいなぁ」
「停まっちゃうとすごいですよね」
「大雨と大風には弱いですよね、あの路線」
「あははは。そうかも」
一緒に店を出ると、雨も風もかわらずに凄かった。
街路樹はドラマの大雨のシーンのように大袈裟なくらいにざわざわと揺れて、雨は街灯に照らされて白く光りを放ちながら、水紋が分からないほどに激しく地面を打ち付けている。水溜りの深いところは風で波打っていた。
ふたりですごい、すごいと言いながら、風に取られそうになる傘を必死に引き留めて駅へと小走りに向かう。
本当に他愛ない話題で他愛ない会話ができたことに舞い上がっているかもしれない。
ううん。すっかり舞い上がっている。
だっていつもなら迷惑だと思う大雨に、遊園地の人気アトラクションを前にするみたいにわくわくしてしまっているのだから。
走りながらも、私の足元はふわふわしていた。
駅は予想通りに沢山人がいた。
改札を抜けてホームに降りると、ちょうど私の乗る方面の電車の到着アナウンスが鳴った。もちろん見合わせで遅延していたぶん、ホームはすごく混雑していた。
雨に濡れた人や傘のせいで駅構内はすごく湿気を含んでいて、雨特有の土のような匂いがする。不思議と今日はそれが嫌じゃない気がした。
「さっきの彼」
「え……?あぁ、女の子が先に行っちゃった人?」
窓際の席で、うなだれていた綺麗な横顔を思い出す。
あぁ。そうか。彼もやっぱり見てたのか。
二人の目線の先に映った二人だから、考えてみたらそれは気付かないわけがないと思った。けれど彼は意外なことを言った。
「……良い事があるといいですよね。こんな天気だからこそ。……二人とも」
私ってなんて単純なんだろう。
……もう、その一言だけで、彼の優しさに触れた気がした。
ただのお客さんなのに。
それも今日初めてちゃんと話しただけなのに。
名前も年齢もまだ知らないのに。
それでも、やっぱり思った。この人は優しい人なんだなぁって。
たまたま目にした知らない人にそこまで思えるのって、優しい以外なにものでもない。
もしかしたら『見知らぬ人にそこまで思うのってよっぽど心が暇なんだろう』『余計なおせっかい』と人によっては思うかもしれない。
けれど、雨の日が嫌いじゃないから交代したり、わざわざカップのイラストやコメントに気付いてくれてたりするこの人を、私はそんな風には思わない。
「そうですね。……こんな天気だからこそ」
雨嫌いじゃない彼なりの言葉らしくて、真似をするように口にした。
ちょうど電車がすべりこんできた。
なんだか人がますます増えた気がして、もみくちゃになる。人の波があんまりにもすごいものだからそれが少しおかしくて笑ってしまうと、彼も同じだったのか同じようにふきだした。
人に押されて離れながら彼が言った。
「あの!今日は話してくれてありがとうございました!またシフトの時、寄ります!」
「こちらこそ、付き合わせちゃったみたいでごめんなさい。ありがとう。待ってます」
「じゃあ」
「また」
気がつけば、自然とそう口にしていた。お互い。
押されるように電車に乗り、ホームへと振り向く。人波の隙間から見えたのは人の頭と反対ホームにちょうど到着した車両だけで、紛れてしまった彼はもう見えなかった。
それがほんの少し寂しさの余韻を残したけれど、それだけじゃなかった。
話せてよかった。また、話したい。
ああいう人だったんな。笑顔、可愛かったな。声も何だか好きな声だな。
次からちゃんと、挨拶以外に少し話しても大丈夫だろうか。
ツゲさんや店長やマネージャーに気付かれないようにしないと。恋愛禁止じゃないけれど、囃したてられたら恥ずかしいから。
あの音楽、また流れないかな。すごく好きだったな。
あ、名前。せめて名字でも聞けばよかった。私、こういうとこ間抜けだなぁ。
また、雨がきたらいいのに。彼のシフトと合ってたらいいなぁ。
蓋をしていた気持ちがどんどん出てくる。
スマホで天気予報を確認すると、やっぱりこの大雨は台風に変わるらしかった。じゃあ台風の後はしばらく晴れが続くかもしれない。
こんなにも雨の日が待ち遠しいなんて、生まれて初めてだった。
* * * * * * * * * *
あの日から、雨の日は続いた。
なぜならそのまま梅雨入りしたからだ。そしてあれから彼は出勤前に毎回寄ってくれるようになった。
梅雨の晴れ間の日もあったけれど、不思議な事に雨の日こそ帰りの時間帯が合う事が多かった。
もちろん私の様子に気付かないわけがないツゲさんや店長だったけれど、にんまりしながらもそっとしておいてくれた。
そして、上がる時間が何となく近そうな時は、お互い約束したわけでもないのにコーヒーを飲んで待ったりした。
ソウスケ君は、意外にも私より2歳年上だった。
学生時代に空手をしていて、それを活かせる職業を考えて警備会社に入ったらしい。
私はただコーヒーやカフェの空間が好きだと言うだけで働いていたので、何となく自分を恥じると、
「イラストのスキルで充分すごいです。それで接客もできるんだからますますすごいですよ」
なんて優しい事を言ってくれた。
会話の内容は最初話した時とあまり変わりもせず、進展もしないままだった。知りたいけれど、気恥かしさで何となく聞けなかったり、黙っていた。
それでもその沈黙は気まずいものではなかった。逆に根掘り葉掘り聞くことでこの心地よさを壊してしまうのが怖かった。
そんなある日。
いつものように彼が仕事上がりにやってきた。今日は早番だったのか夕方上がりのようだった。
私は今日は遅番なので帰りの時間は合わないなと思いながら、ドリンクカウンターで作業をしながらいつもどおりに挨拶すると、目が合った彼はなんだか少し元気がなさそうに微笑んだ。
仕事で落ち込む事があったのだろうか。
聞いてみたかったけれど今日のカウンターはツゲさんと大学生バイトの子で、私は受け渡しカウンターでドリンク補助にいた。
時間帯と混雑具合によってカウンターからドリンクまで担当したりするけれど、客入りが多く慌ただしい時間帯はこうして担当を分業したりする。もちろんドリンク補助は私だけでなく他のスタッフもいる。
今はドリンクにいるけど、仕事としてはホールのテーブル掃除や、コーヒーにお好みで入れる砂糖やミルク、シナモンなどのスティック類が置いてあるセルフコーナーの補充もしなければならない。
何とかして元気のない彼に少しでも一言かけたくて、見計らってこっそり別の仕事をすることにした。
コンディメントバーと言われるセルフコーナーの補充に入る事を他スタッフに告げ、すんなりとその作業に入る。
店内が混んでいるからか、彼はテイクアウトにしたらしい。
コーヒーが出来上がると、彼がやってきた。やっぱり何となく、元気がない気がした。
「いらっしゃいませ」
挨拶をすると、彼は曖昧に微笑んでから、私に告げた。
「急な配属替えで、異動になりました」
「えっ……」
咄嗟のことで上手く返せずに声が漏れただけだった。思わず手が止まった私に、彼が申し訳なさそうにした。
「……すみません」
「いえ……まぁ、仕事、です……し」
「何となく、言いづらくて。……言おうと思ったんですけど……なんでか言えなくて」
「……急……なんですよね……しょうがないですよ。……いつからですか」
「実は、今日が最後だったんです」
あまりにも突然すぎて、私の頭はますます真っ白になった。
つまり、ああいう時間を「偶然」として一緒に過ごすことはもう出来ないということ……?
それでも何か言わなければと思いつつ、これからのことを聞けるほどの余裕がなかった。息を吸い込んだら、ひきつるようにして空気が入ってきた。
「……教えてくださってありがとうございます」
「はい、それで……」
「……今まで、ありがとうございました……新しいところ、応援していますね」
だって、私が言えることなんて店員としてはこれだけしかない。
むしろお客様からこんな風に言ってもらえるなんて、お店に親しんでもらえていた証拠だから嬉しい事じゃない。
だから店員としてお礼を言わなきゃいけないし、応援してあげるのは当たり前だ。なのに……。
それなのに、どうして目の前のソウスケ君は、私の言葉に『傷ついた』みたいな顔をしているんだろう。
そんな顔、しないでほしかった。……―― じゃあ何て言ったら正解だったの?
彼は、私の言葉にゆっくりと、頷いた。
「……はい……」
「あの、やっぱり……」
「仕事中なのに、すみませんでした」
彼は、深くお辞儀をした。そしてすぐに頭をあげて、踵を返す。だんだんと私と開いて行く距離。
新しく来たお客さんと入れ替わるようにして彼は出て行った。外は今日も雨だった。
……―― わたし、今何て言おうとしたの? 「やっぱり」、何?
それでも何で手は、固く握ったままだったの。彼を引き留めなかったの?
だって業務中だし。ちょうど忙しい時間帯だし。ホントなら補充も掃除も手早くやらないといけないし。
『そんなこと言わないで。』
本当だったらそう口にしたかった。でも、できなかった。
だって、私たちは……何にも関係性に名前がついてないんだもの。
ただの「店員」と「お客さん」だもの。……今だって業務中だ。
私はもう一度握りこぶしに力を入れると、再びストローやシュガーの補充を続けた。何となく動きがぎこちなくなったのが自分でも分かる。指先はかすかに震えていた。
ツゲさんは横目で私たちの様子を少し見ていたのか、またいつもと違うと感じとったらしく少しだけ気にしてくれているようだった。
補充を終えると、空席のテーブルに残されたままのトレ―類を片づける。
動揺している頭と心を誤魔化すみたいに無理やり手を動かしていると、不意に目が覚めるような感覚がおとずれた。
あの時の曲だった。もう一度聴きたかった曲。
……何で、よりによって今かかるのか分からない。偶然にもほどがある。チェロとピアノの、明るく綺麗な音楽がBGMで流れていた。
私はなんで、何も言えなかったんだろうか。
ひょっとしたら、私がもっと別の言葉を言うんじゃないかって、彼はどこかで期待してくれてたんじゃないだろうか。
だから私にわざわざ言いに来てくれたんじゃないの?
でも、違うかもしれない。自信が持てない。だってただのお客さんだし。
いいなとは思っても、好きって言っているわけじゃないし。
でも……だって……でも……でも……。
「あ、オレこの曲すごく好き」
「あぁ、ブラームスだっけ。これいいよな」
「『雨の歌』なだけにまさにタイムリー」
「だな。ゲン、今度ピアノ科のツヅキさんとこれやんなよ」
「えー?ツヅキさん怖くないか?……オレ、ぶっちゃけ苦手……睨まれるし」
「ツヅキさんお前の事が好きなんだって」
「それはない。ホントに俺に風当たり何故か強いし。余計やりづらいって」
藝大に通っているであろう、男子大学生の何気ない会話だった。
奥の席にいる二人は、大きなチェロケースをすみっこに立てかけていた。テーブルにはコーヒーと一緒に楽譜を広げている。
そうなんだ。この曲、「雨の歌」っていうんだ。
……「雨の歌」という単語は、もう私を動かすに充分すぎるスイッチだった。
私は片づける手を止め、すぐにトレ―を返却口に返しに行くとそのまま走り出した。
ツゲさんや他のバイトの子が驚いたように「カエデさん!?」と呼び止めたけれど、自分を止めることはもうできなかった。
上に報告されても、たくさん謝ればいい。ペナルティ課されたって土下座したってかまわない。
だって今走り出さないと、きっと私後悔する。
走りながら降りしきる雨の中で考える。
あぁ、私、やっぱり間抜けだなぁ。ふきんもトレ―と一緒に返しちゃえばいいのに、なんで握りながら走ってるんだろう。
それでも、はやくあの背中を見たくてたまらなかった。足元の水がはねて靴が汚れても全然平気だった。
気がついた時にはもうとっくに気持ちは走り出していたのに。
あいたい。あいたい。雨の日じゃなくても会いたい。
もっとあの人の顔が見たい。
もう会えないなんて嫌だ。
彼の笑顔を見るたびに、驟雨のように感情が降り注いでいた。心の内から湧き上がった想いが空に上がって、また自分へと降り注がれているみたいだった。
平然をどんなに装っていても、一目するだけでたちまちに降りはじめてやまない。やんだとしても余韻はずっと残っていて、雨上がりに立ち込める空気みたいに私の心に染み込んだまま。
……とっくに恋になってたのに。
大人になって一目惚れだなんて信じられないけど、ずっと気になってた。
はじめから言いたかった。
「ソウスケくん!!待って!!」
雨の中、カフェ店員が傘もささずに走っている姿が人の目をひくのは分かっていた。当然、振り向いたソウスケくんはものすごく驚いた顔をしていた。
「カエデちゃん!?」
ソウスケくんに追いついて彼の前へと出る。すると雨に濡れた私に、慌てて傘を差し出してくれた。
そんなに差し出したらソウスケ君の背中が濡れてしまう、と思い一旦身を引くと一緒に傘もずらしてきたので私は素直に受け入れる事にした。こんな至近距離はじめてだった。
彼の顔は「どうしたの!?」と言わんばかりに驚いたままだ。でもさっきの元気のない顔よりずっと良いと思った。
私は息が落ち着くのを待たずに、彼に言った。
「雨の日だと……!……あなたが来てくれるんじゃないかって、どこかで期待してたんです……!
ほんとは雨なんて大嫌いなのに……なのに、雨が降ってほしいって、そればかり思ってたんです……ずっと!」
息が切れて言葉に出すのは苦しかったけれど、一旦外に出た気持ちは溢れて止まらなかった。まだまだ言いたい事はたくさんあった。
「あなたはただのお客さんで来てくれてるだけっていうのも分かってるんです。……私も元々お客さんと必要以上の会話をしないってしてたけど……
なのに……会いたくなるなんて、変ですか?
……迷惑って分かってます。でも……会えなくなるの、さみしいです」
ここまで言っておきながら、「好き」の一言が言えない自分が情けなかった。
たまらずに俯くと、はがゆさに涙がにじんできた。
勝手に舞い上がって、業務中なのに雨に濡れながら追いかけて、勝手な事言って……。しかもふきんまで持ってるなんて、彼からしたら訳が分からないに決まってる。
恥ずかしさが今になってこみあげてきていると、俯く私の上から彼が優しい声がふった。
「……雨の日に受け取るカップのコメント……正直元気づけられてたんです。いつも。……それと、どんな人なんだろうって。……だから、あの日」
顔を上げると、いつもの柔らかい笑顔がそこにあった。少し照れくさそうにしながらも、彼は続けた。
「だからあの日。最初の大雨の日。イチかバチかで声をかけたんです。
気になってたから」
信じられなさに、目がチカチカしそうだった。初めてちゃんと話した時の事が一瞬にして駈け廻る。
私たちの距離は初めから、もうとっくに近づいていた。
「……ほんとに?」
「うん。ほんと」
「……でも、私の方が先に気になってました」
「いや、多分ぼくのが前です」
「そんなことない。私の方が絶対に先です」
お互い、同じタイミングでふき出した。まるであの電車の時みたいに。
内緒ごとのように二人でクスクス笑い合った後に彼は、私の大好きないつもの目が細くなるような笑顔で、優しく言った。
「……今度、映画でも行きませんか。……休みが合った晴れの日にでも」
「曇りでも雷でも!……私、いつでも平気です!行きたいです!」
ぐっと近づくと、すっかり相合傘だ。
好きだとお互い言ったわけではない。でも、この今じゃなくても良い。
だって今日はたぶん「はじまりの日」だから。
あの日の感覚が蘇る。
彼の笑顔とあの雨とコーヒーの薫り。チェロとピアノの「雨の歌」。
それからお互い、何も言わずに瞳がかち合い、揺れた。
雨の湿った空気の中だけど、彼の頬に出ている熱が伝わってきそうな気がした。
( お客様へ大事な忘れ物を届けに行ったみたい。 )