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教養の灯をともす

 教養のある人と話すのは本当に楽しいもので、それまで全く知らなかった情報が、全く予期しない形でぽんぽんと飛び出してくる。この世界に関する多くの情報を片手に収まる情報端末から検索できてしまう今の時代だが、いちいち検索していたのでは絶対に生み出せないようなアウトプットのテンポ感が心地よい。そして何より、ほとんど連想ゲームにも近いような情報の結びつきにその人の考え方の根本を垣間見るような気がして、ちょっと言葉を交わしただけでなんだかこちらまで一つ賢くなったような気がしてくる。
 ところで、「教養のある人」と「知識のある人」というのは、厳密には区別されるような気がしている。ある分野に関する一定量の知識があるからといって、必ずしも教養があるとは表現されにくいようなタイプの人がいるように思われるし、そればかりか、決して保有している知識が多くなくても、教養があると感じされるような人もいると思うのだ。

 私は以前数か月の間、ある実習の一環として、定時制高校のサポーターをしていたことがある。夜6時を回ったころ、人気のない校舎に少しずつ生徒たちが集まって来る。よく見ると、それは全日制の生徒たち―おそろいの恰好をした、基本的に学年ごとに同じ年齢の高校生たちの様子とはずいぶん異なっている。高校生らしき10代の若者の姿もあれば、それより少し年上と思われる人たち、あるいは60、70代かと思われる高齢の方まで、その年齢層は幅広い。服装はばらばらで、髪型もさまざまだ。彼ら彼女らは4つの学年に分かれ、おしゃべりしたり、本を読んだりしながら授業の開始を待つ。やがて教室に先生が入ってきて、1時間目の授業が始まる。
 その学校ではこれまで中学校や高校に満足に通うことができなかった生徒や、日本語を母語としないために学習にサポートが必要な生徒、心身に特性のある生徒といった様々な生徒たちが、時にパートやアルバイトなどの忙しい日々の合間を縫って、国語や数学、英語といった教科の授業、文化祭などの学校行事への準備、 部活動への参加などに取り組んでいる。私は主に国語や数学の時間に日本語非母語話者の学びを支援したり、英語の時間に模擬面接の相手役になってアドバイスを行ったりしていた。

 そんな定時制高校の生徒の一人で、私によく話しかけてくださる方がいた。詳しい年齢などは結局知らないままだったが、たぶん私の父親と同じくらいの男性の方だった。以前は夜間中学に通っていて、その後も勉強を続けたくてこの学校に入学したのだという。「母親が入院して、その世話などがあって一時期学校に通うことができなくなった。結局一年休学し、周りの子とは一年遅れる形で再び通学している」と言っていた。勉強への熱意にあふれた方だったのだ。
 あるとき、簡単な自己紹介カードを英語で書き、それをもとに模擬面接をするという授業があった。私は机の間を巡っては各々がカードの空欄を埋めていくのを確認し、単語や文法でわからないことがあればアドバイスをして回っていた。その生徒の方は一番前の席で、作った文を繰り返し読んで練習をしていた。カードには「名前」「好きなもの」といった項目が並んでいたが、「嫌いなもの」の中に見慣れない単語があったので、「これは何ですか?」と訊いてみた。
 「これですか? これはね『ゴキブリ』ですよ」その方は「cockroach」という語を指して笑った。言われてみれば、高校生の時に大学受験用の英単語帳の中で見かけたような気がする。けれど、その時は「こんな単語、本当にテストに出るのか?」などと思いながら無理やり頭に叩き込んだだけだったので、私はすっかり忘れてしまっていた。
 「ゴキブリって英語だとそうやって言うんですね」「そうなんです、cockroach。cockroachって言うんですよ」その方は嬉しそうにcockroachという単語を繰り返した。その方の学習状況から考えるに、おそらく、自分で辞書をめくって確認したのだろう。自己紹介カードは必ずしも本当のことを書く必要はなく、「あまり内容にこだわらず、簡単な英語で済ませてしまうのも一つの方法です」と先生も言っていた。けれどこの生徒の方は、どうしても「ゴキブリが嫌いだ」ということを書きたくて、わざわざ手間をかけて調べてきたのだ。私には少し誇らしそうなその方の表情がまぶしく見えた。その時―まさにその時、私は確かにこの方の「教養」を感じたのだった。

 「知識」がある学びの結果としての状態を表すのなら、「教養」は学びそのものに対する姿勢、あるいは態度として考えることができるのではないだろうか。確かに、私はテスト勉強や受験勉強の積み重ねで多くの「知識」を手に入れてきた。その総量はある側面から言えば、ひょっとすると定時制高校で出会ったその方のそれを上回るものなのかもしれない。cockroachという単語一つにしても、その方は辞書を調べて書いたのに対して、私は少なくとも一時期はちゃんと覚えていたのだ。
 しかし、結果としての知識、すなわち「kockroach=ゴキブリ」という語彙的な対応の把握という点ではそうであっても、それに対する向き合い方、どのようなモチベーションの結果としてそれに行きついたのかという点においては、私はその方に敵うところがなかった。私にとって「kockroach=ゴキブリ」という知識はテストの点数を一点でも多く稼ぐためのツールであり、それ自体無意味なものであり、その場で役にたたなければ捨てられる運命にあるものだった。これに対してその方はあくまで自分の表現したいことを表現するために、自分にとって明らかに価値のある対象として進んで「kockroach」という語を学んだのである。だからこそ、その単語一つに対して大きな満足と、それを知ったことに対する誇りを持つことができたのだろう。

 思えば、私が日ごろ「教養がある」と感じるような人たちの在り方も、知識の量に差こそあれ、その方と根本的には同じだ。知識を外的な価値づけを待つだけの道具、あるいは消費の対象としての商品として扱うのではなく、自分を表現するもの、自分にとっての世界を説明するもの、いわば自分自身を構成する絶対的な価値を持つものとしてとらえる。そこにはあらゆる知識に対する敬意と、学びそのものに対する誇りがある。だから、それを行使するときにはその価値を損なわないように、最も適当な文脈で、あるいは最も自分にとって合点がいく取り合わせを選ぶのだ。「調子が心地よい」とか「話題の展開力が高い」というような効果は、あくまでその結果として生まれてくるものに過ぎない。
 こうしてみると教養というのは火、あるいは炎のようなものであるといえるだろう。常に新しい知識に触れることに対して貪欲であり、それ自体によってのみ存続することができるモチベーションである。知ることとは生きることであり、生きることとはすなわち知ることなのだ。単に知識があるということではなくて、自分が学んできた知識、そしてこれから学んでいく知識を意義あるものとして大切にすることができる人こそが「教養のある人」なのだと私は思う。

 まもなく私は実習を終え、サポーターとして学校を訪れることもなくなったため、定時制高校の生徒たちのその後を特に知ることもないまま、月日が経ってしまった。ひょっとするとあの生徒の方も無事に卒業されたのかもしれないし、あるいは何かの事情があって、それはまだ叶っていないのかもしれない。しかしいずれにしても、その方はきっと学びに対する情熱を失ってはいないだろうし、これからもきっと新しい知識に進んで向き合っていくだろう。そしてまた、あの学校にはまた新たな生徒たちが学びの場を求めてやって来ては、多様な知識や経験に心を躍らせるに違いない。
 時刻は夜6時を回ったころ。授業や部活動を終えて高校生たちが帰宅してしまい、閑散としてほとんど真っ暗になった校舎に、ポツンと明かりがともる―それは生涯の学びの原動力であり、さまざまな知識そして多様な人々との出会いと交流の場であり、ひっそりと受け継がれていく教養の灯なのである。

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