くろりす

くろりすです。投稿と人生をサボりがち。 ◆くろりすのお題箱→https://odaibako.net/u/chloris_since20

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マガジン

  • くろりすの気まぐれエッセイ 2022

    くろりすのエッセイ集2022年版です。

  • くろりすの研究ノート

    日常のふとした疑問について考えてみるnoteです。

  • くろりすの気まぐれエッセイ 2020

    くろりすのエッセイ集2020年版です。

  • くろりすの気まぐれエッセイ 2021

    くろりすのエッセイ集2021年版です。

最近の記事

自転車

とある秋晴れの爽やかな週末、久々に自転車に乗ってみた。 最後に自転車で出かけたのがいつのことなのか、もうよく覚えていないほどだが、おそらく十年ぶりくらいになるんじゃないかと思う。 毎週のように電車で買い出しに行っている食料品店へ、線路沿いの国道をペダルを漕いで向かっていく。 不慣れな感触に戸惑い、ふらつきそうになりながらも、ゆっくりと慎重に進む。 時折、耳元を心地よい風が吹き抜けていくのを感じた。 自転車といえば、私は「自転車」という曲の歌い出しがとても好きだ。 「言わな

    • 東京

      東京の街は、いつだって他人の顔をしている。 旅行先などで知らないはずの街を歩いていると、ふと周囲の世界が自分に「懐く」瞬間が訪れることがある。それは足元の地面が少しずつこねられて柔らかくなっていくような、あるいは辺りの空気がかき混ぜられて緩んでいく過程の終点にたどり着いたような感覚だ。 そのようにいわば街を「手懐ける」までの時間は、常に一定であるとは限らない。ある時は何度かの訪問を経てようやくそこに至ることもあるし、またある時には駅の改札口を出た瞬間に空気が一変することさえ

      • 知らない街を歩く理由

        世の中「旅行が好き」という人は結構多いが、「旅行に行った先で何をするか」という点については、かなり好みが分かれるところなのではないだろうか。 テーマパークを目当てに遠出する人もいるし、お寺や神社を巡るのが好きな人、あるいはカフェやレストランをはしごして食を堪能する人など、「旅行」と一口にいってもその内実は多種多様である。 つまり、あなたも私も旅行が好きだからといって、連れ立って出かけることが必ずしも幸福な結果を生むとは限らない。仮に旅程や目的地が同じであっても、各々が旅先でや

        • 母の日・父の日の贈りもの

          大学院を修了するまで実家で暮らしてきた私だったが、この春から一人暮らしを始めた。研修中の仮住まいは会社側が手配してくれていて、家具も一通り揃っていたので、引っ越しはそこまで苦ではなかった。 問題はその研修が終わってからだ。配属先のオフィスが決まり、仮住まいを出て引っ越しをすることになっている。引っ越し当日の作業を両親に手伝ってもらう関係上、予定の調整や諸々の確認のため、5月下旬に一度帰省することになった。 初任給が入り、母の日や父の日のシーズンにもなっている。流石に何か贈り

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        • くろりすの気まぐれエッセイ 2022
          7本
        • くろりすの研究ノート
          2本
        • くろりすの気まぐれエッセイ 2020
          5本
        • くろりすの気まぐれエッセイ 2021
          5本

        記事

          過渡期と可能性の美学

          過去に対する憧れのような視線が差し向けられる時代というのは、大抵過渡期であるように思う。近代国家成立への過渡期であった明治時代、あるいは焼け野原から現代的な都市生活への過渡期であった戦後の昭和期、などなど。さらに小さな規模で言えば、子供から大人への過渡期として捉えられる高校時代が「青春」として称揚されがちなのも同じことのような気がする。 しかしよく考えてみると、どの時代、どの瞬間であってもある側面においては何らかのパラダイムから別のパラダイムへの過渡期に置かれているはずで、

          過渡期と可能性の美学

          はじめての帰省

          幼い頃、「実家」という言葉の意味を「おじいちゃん/おばあちゃんの家」という意味と勘違いしていた。 おそらく「自分と自宅の関係」と、「両親とおじいちゃん/おばあちゃんの家との関係」とが同一のものであるという認識が持てなかったのだろう。だから両親が「夏休みは実家に帰省するよ」という時、私もまた(両親と共に)「実家」に「帰省」するのだと思っていたのだ。 一人暮らしをするようになって、私はようやく正真正銘「実家に帰省する」立場になった。 大型連休の初日、約一ヶ月ぶりに地元の駅に降り

          はじめての帰省

          読書、サブスク、コンテンツ

          本は紙のものを買って読むのが好きだ。その理由はいくつかあるが、一つ挙げるとするなら「読み終えた後も手元に残るから」だと思っている。 「読んだ後も残るなんて、嵩張るだけじゃないか」と思う人もいるかもしれない。実際、世の中では「モノをもたない暮らし」がもてはやされたりもしているし、そのような考え方のほうがひょっとすると、現代では受け入れられやすいのかもしれないなとは思う。 しかし、本に対するこうした姿勢はそれが持つ重要な価値のいくつかを見落としている。第一に、私たちの脳は一度読

          読書、サブスク、コンテンツ

          初めての一人暮らし

          大学院を出て就職し、この春から一人暮らしを始めた。生活リズムと生活環境と生活場所が一気に変わったので、特に最初の三日間くらいは精神的な負担が結構大きかった気がする。夜は眠れないし、夜中に何度も目が覚めるし、ようやく寝ついたと思ったら悪夢を見て飛び起きたりして、何もしないうちにクタクタになっていた。 それから一週間が経ち、ようやく自分の中でリズムが掴めてきて、こうして朝早くに起きて文章を書ける程度には回復している。 二十年以上を実家の子供部屋で暮らしてきた私にとって、一人暮ら

          初めての一人暮らし

          JR御坊駅

           トンネルを抜けた電車が、南の方角を目指して海沿いの線路を走っていく。  私は旅行用の有線イヤホンで音楽を聴きながら、窓の外に視線を向けた。  頑なに傘のマークを掲げていた天気予報を見事に裏切って、青く晴れ渡った空。その色を鮮やかに映した水面は、まるで呼吸をするように複雑に揺れ動いている。  和歌山発、御坊ゆき。─一足先に車で目的地に向かった仲間たちに合流すべく、私は各駅停車の4両編成で紀伊半島の海岸をのんびりと南下していた。  ごく小さな頃の特別な乗り物だった小さな金属の

          学級旗

           これは、私がかつて犯した大きな過ちについての話だ。  中学生の頃、体育祭における学級活動の一環として、クラス単位での応援に使う「学級旗」を制作することになった。  生徒一人ひとりがイラストの形で案を持ち寄り、多数決で選ばれたものが採用され、その後は発案者を中心にポスターカラーを使って制作を進めることになっていた。  季節は3年生の秋。高校受験を控えていた私に当然旗のデザインなどに労力を割く余裕などはない。ものの数分程度のやっつけ仕事で作り上げた案を提出し、他の誰かが挙げ

          アイデンティティ・クライシス

           親に対しては過剰なくらい従順な私にも反抗期があった。高校一年生の夏から秋にかけてのころである。と言っても大したエピソードがあるわけでもなくて、母親の説教に対して言い返してみたりとか、父親の旅行の計画を断ったりとか、今思い返してみれば可愛いくらいの、ちょっとトゲトゲした私がそこにいた。  もちろん当時は「私は今まさに反抗期を迎えている!!」みたいな確固たる認識があったわけでもなくて、ただ親が間違った考えや言動をしていると思ったときに、自分の正しいと思うことを持ち出してぶつけた

          アイデンティティ・クライシス

          鳥取砂丘

           ゴールデンウィークも後半に差し掛かったある日。張り切った様子の父が早朝からハンドルを取り、朝9時を過ぎた頃には車は鳥取砂丘の見える駐車場に停まっていた。  やはり連休中だからか、パーキングの大半が県外ナンバーで埋まっている。この調子だと昼頃には満車になってしまっているに違いなかった。  人混みがピークになる前にと、とにかく海を目指して砂浜に足を踏み入れる。目を凝らすまでもなく、普段の海岸なら水平線が見渡せるであろう場所に、巨大な砂の壁が聳え立っているのがわかった。  どこ

          新学期の花見

           先日、大学院の新入生ガイダンスがあり、久々にキャンパスに足を踏み入れた。卒業式からはや二週間。今年度からは大学院生として、再びここに通うことになる。  天気も良く、キャンパスの桜がちょうど見頃を迎えていた。午前中の説明会を終えた私は食堂で簡単な昼食を済ませると、庭園のベンチに腰を落ち着けた。  暖かい春の陽射しを受けて、満開になった花びらの薄桃色が輝いている。時折吹きおろす風がそれをはらはらと散らして、青草の鮮やかな地面にも無数の小さな花が咲いたかのようだった。  午前中

          新学期の花見

          卒業

           先日、大学四年生の私は無事に、卒業式の日を迎えた。  もともと、私は卒業式のようなイベントがあまり好きではなかった。その内容というよりは、その機能において―すなわち、それまで続いてきた「日常」に終止符を打つにあたって、式典という「非日常」を借りてくることに違和感を覚えるのだ。  卒業式において総括される学校生活という日々は、時に非日常的な出来事という例外はあるにしても、基本的には変わり映えしない、ありふれた行程の反復に過ぎない。  その反復の終端として必要なのは「いつもよ

          「せっかくの大学生活なんだから」に思うこと

           「せっかくの大学生活なんだから○○しなさい」「大学生は~したほうがいい」。大学生として過ごした4年間の中で、私より年配の方から、直接あるいは間接的にそんな言葉を掛けられることがあった。  おそらく当人は、あくまで親切心からアドバイスを与えているつもりなのであろう。しかし私はこうした発言に対して、違和感と反感の入り混じったような複雑な感情を抱かざるを得ない。  私の―そして私と同世代の大学生たちの生活は、2年前の春を境に様変わりした。突然キャンパスへの立ち入りを禁止され、授

          「せっかくの大学生活なんだから」に思うこと

          教養の灯をともす

           教養のある人と話すのは本当に楽しいもので、それまで全く知らなかった情報が、全く予期しない形でぽんぽんと飛び出してくる。この世界に関する多くの情報を片手に収まる情報端末から検索できてしまう今の時代だが、いちいち検索していたのでは絶対に生み出せないようなアウトプットのテンポ感が心地よい。そして何より、ほとんど連想ゲームにも近いような情報の結びつきにその人の考え方の根本を垣間見るような気がして、ちょっと言葉を交わしただけでなんだかこちらまで一つ賢くなったような気がしてくる。  と

          教養の灯をともす