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「お弁当はミクロコスモス」
ー ふたを開けた瞬間、そこには小宇宙が広がっている ー
先日、乃木坂にあるギャラリー『21_21 design sight』の「㊙︎展〜めったに見られない デザイナー達の原画〜」という企画展に行ってきた。
展示場の片隅で出会ったのが、タイトルにもあるこの言葉だった。
「弁当はまた、箱に入った小宇宙、多彩でポリフォニックなミクロコスモスとして、東洋の文化を象徴しながら、自己への深い観照をそくする、魅惑に満ちた芸術作品だ。」(武蔵野美術大学 新見隆 教授)
出会ってしまった、と思った。
入館料は800円だった。
そのうち300円分くらいの価値がこの言葉にはあるなと思った。
(え、意外と少ない?)
この言葉に出会うまで、私のお弁当に対する印象はネガティブなものだった。
きっかけは数年前に始まったお弁当作りだった。
大学入学と同時に母親がもうお弁当を作らないと決めた。
「大学生が親にお弁当作ってもらうなんて恥ずかしくない?」と言われた私は、それもそうだなと思い、一念発起。
自分のお弁当くらい自分で作るぞと決めた。
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生まれて初めて作ったお弁当がこちら。
卵焼きのスカスカ感、盛り付けのセンスのなさ、なんか暗い感じは置いといて、生姜焼きからナムルまで全て手作り。しかもご飯には混ぜ込みふりかけを使っている!
私、いちおう頑張っていた。
でも一週間後がこちら。
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卵焼きは明らかに上達している。
でもおかずは冷凍の唐揚げを小さく切って敷き詰めただけ。
申し訳程度にトマトとブロッコリーを隙間に埋め込んだだけ。
そう、モチベが下がったのだ。
そしてこの一週間後にはもはやお弁当を作らなくなり、お金が羽ばたく学食生活が始まった。
私のお弁当作りに対するモチベ低下の原因は自分でもはっきりとわかっていた。
・衛生面を気にして、作れるおかずが限られてくるから。
・箱に入るサイズを考えなければいけないから。
・匂いの強いものは避けたいから。
・液もれに気を使わなければいけないから。
・冷めてもおいしいおかずを考えるのが面倒だから。
そう、制限が多すぎるのだ。
毎日子どもにお弁当を作る親御さんの苦労がわかった。
お弁当作りが嫌になる理由はこれだけではない。
その理由ナンバーワンが、こちら。
「他人に見られるから」
うわあ、もうこれが本当に嫌なんですよ。
自分の分だけならともかく。
(私は人目を気にしないタイプだから、まっ茶色でなんなら黒ずんでいる昨日の晩ごはんの残りの煮物弁当とかでも大丈夫なのだけど。)
問題は妹のお弁当作りだった。
この時期ちょうどお弁当が必要だった妹の分も私は作っていたのだ!
(偉すぎる!って友だちに言われたし、自分でもそう思う。)
人目を気にする年頃の妹のお弁当は、何よりも見た目が重要だった。
幸いあまり文句を言われたことはなかったが、一番戦慄したのがこちら。
「今日友だちとおかず交換したよ、卵焼きおいしいって言われた。」
「え!そんなの聞いてないよ!頼むからやめて!」
(と言いつつも、おいしいって言われたことがちょっと嬉しい。)
そう。
お弁当は家庭の料理が外に触れる瞬間なのだ。
人の目に触れる、人の鼻につく、最悪の場合には人の口に入る。
(本当に最悪のケース)
危険だ。
緊張感、この上ない。
だからプライバシーを守りたいタイプの私はお弁当というものが苦手だった。
しかしこの「弁当はミクロコスモスだ」という言葉はなんだろう。
この人はよっぽど幼少期においしくて見た目もいいお弁当を作ってもらっていたに違いない。
じゃなきゃこんな言葉、思いつかない。
でも、ちょっとだけわかる気もする。
「箱に入った小宇宙」
「多彩でポリフォニックなミクロコスモス」
確かに。
お弁当は小さい分、いろんな味を少しずつ楽しみたくなる。
卵焼きを半分かじって、ご飯を食べて、味の濃いお肉を食べて、野菜をつまんで、水筒のお茶を飲んで。
箱に詰められているものを食べていくってだけで随分楽しい。
しかもこの人が食べてきたのはきっと具沢山なお弁当だったのだろう。
それこそ様々なおかずの共鳴を存分に楽しめたに違いない。
「東洋の文化を象徴しながら」
ともおっしゃっていた。
確かに、西洋の人ってお弁当食べてるイメージないな。
(なんかカフェテリアでピーナッツパンとフライドチキン食べてるイメージ。)
そう思って、一冊の本を手に取った。
それがこちら。
この本を読んで、お弁当は米食文化のなせる技なのだと知った。
イギリス人はサンドウィッチを食べるらしいし、アメリカの学生はドミノピザをデリバリーしたりするらしい。
一方のアジアでは、インドにカレーとライスの五段弁当があったり、東南アジアの国々では屋台でいろんな種類のお弁当が買えるらしい。
もちろん日本にもご飯とおかずを詰めたお弁当文化がある。
なるほど、お弁当って東洋の文化の象徴だったのか。
そう思うとちょっとだけお弁当が愛おしくなった。
(作りたくなるとまではいかない。)
この人の言葉の最後には、
「魅惑に満ちた芸術作品だ」
とあった。
ぶっ倒れかけた。
芸術?作品?
どんないいお弁当作ってもらってきたんだ!
「もしかしてこの人が言いたいのは手作りのお弁当のことじゃないのかも!」と思うことにして、私は気持ちを落ち着かせることにした。
(毎日芸術的なお弁当を作れる人なんているわけがないんだ、、、。)
・・・
でも、自分の手作りじゃないのなら、
私にも一度、涙が出るようなお弁当体験をしたことがある。
屋久島で縄文杉トレッキングをした日のことだった。
屋久島にはいくつかのハイキングコースがあるが、中でも一番人気でレベルも高めなのがこの縄文杉トレッキングだった。
朝2時に起きて3時に宿を出発。
宿の人が朝用と昼用の2つのお弁当を持たせてくれる。
そして6時にこちらの朝用お弁当を急いで食べる。
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カロリーと塩分を取るため、って感じのお弁当。
苦しかった。喉を通らなかった。むせた。
そしてまだ日も出ていない朝6時から約11時間に及ぶ登山が始まった。
この日はあいにくの大雨だった。
雨水が流れてくるから道が全て川のようになっていた。
激しく流れる川の中を登って行くような過酷なトレッキングだった。
(鮭かよ。)
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この写真の奥みたいな感じで、避けては通れない滝行スポットまである。
(苦行)
お腹をぐうぐうにすかせた私がやっとお昼のお弁当にありつけたのは山頂についた時だった。
レインコートが意味をなさないほどの大雨に体の芯まで冷え切った私たち(9月)は、屋根のある東屋で各自のお弁当を黙々と食べた。
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6時間私のリュックサックの中に縦に置かれていたお弁当は原型をとどめることなく寄っていた。
見た目、うわあと思った。
しかもラインナップはごく普通のお弁当のそれ。
けど、私はこの時のお弁当の味を今でも覚えている。
ほんっとうに心の底からおいしかったのだ。
しなしなのエビフライと唐揚げも、本日二度目の梅干しも、柴漬けまみれになったたくあんも、冷たくなったごはんも。
1つ1つの当たり前のおいしさが最高においしい。
いろんな種類のおかずを少しずつご飯と一緒に食べた。
全部が体に取り込まれた瞬間に私のエネルギーになった。
こんなお弁当がある日本に生まれてよかったと思った。
この時ばかりは「お弁当がミクロコスモスで芸術作品」だったかもしれない。
そう考えると、このお弁当のご飯、ごま塩は宇宙にきらめく天の川で、梅干しは宇宙の中心で輝き続ける太陽に見えないこともない。
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