わたしをバラバラにするもの
わたしをバラバラにする言葉というか、ものというか、瞬間がある。
わたしの身体がちょっとずつわたしから離れて宙に浮いているような感覚。あるいは、わたしが身体からふわふわとどこかへ離れていってしまうような感覚。
傷つくのとはちょっとちがう。
傷つくのはもっと強くて鋭くて大きな何かが自分のなかに入ってくるとき。否応なしに自分の身体にも心にも痛みが生じるとき。
わたしがバラバラになるのは、もっと複雑で、なんというか、どうしようもないようない瞬間だと思う。傷つくほど鮮明に自分の感情を掴むこともできなくて、怒りや悲しみのように表現できる形にもならなくて、ただとにかく頭と心が「処理できません」って言ってくるような感じ。そこに含まれているのはマイナスなことだけじゃなくて、もっと色んなことが、絡まり合ってそこにある。
それとはまだうまく折り合いがつけられない、と言ってみてもいいかもしれない。どう反応すればいいのか、どう応答すればいいのか、どう動けばいいのか、身体中がわからなくなってしまうような、そんな状態。
誰かはそれをトラウマみたいなものだと言うかもしれないし、誰かはそれを地雷とか、心の傷だと言うかもしれない。きっとこれに近い名前は色々あるんだろうけど、どれもわたしにぴったりではなくて、だからとりあえずわたしは「わたしをバラバラにするもの」と呼んでいる。
1
わたしをバラバラにするものの1つ目は、「地震」。
実はわたしには、ちっぽけな被災経験が2つある。
被災といってはいけないかもしれない。それくらい客観的にはきっとちっぽけで、でもわたしにとっては抱えきれないほど大きくてどうしようもない記憶がある。
一回目は小学2年生のとき。
全然離れた地域だったけど、東日本大震災が起きた。小学校のドアが外れそうなくらい揺れた。家に帰ったらお皿が半分くらい割れていた。
それから、数ヶ月後だったか数年後だったかに、家族に連れられて陸前高田に行った。お土産を買った何の変哲もない売店で、お店の人の被災体験を聞いた。
二回目は中学2年生のとき。
被害の大きい地域ではなかったけど、そこにいるときに熊本地震が起きた。洋服の引き出しは全部飛び出て、みんなのスマホは地震速報が鳴りっぱなしで、救急車は呼んでもいつまでも来なかった。
学校がしばらく休校になって、みんなが余震に悩まされたその時期に、わたしは遠く離れた実家でひっそりと生きていた。
気づいたのは随分後だったけど、これ以降わたしは「地震」というキーワードに触れるたびに、自分がバラバラになるようになった。
どこかで起きた地震のニュースも、たまになるスマホの地震速報も、出来事の一つとして語られる震災も、どれもわたしの身体をバラバラにしてしまう。
こわいとか、トラウマだとか、そういう単純なものじゃなくて、もっと罪悪感とか、空腹感とか、雨上がりのアスファルトの匂いとか、あのとき食べたアルフォートの味とか、そういういろんなことが混ざり合って溶け合った記憶が、歪な形をしたまま処理できずにわたしの中に残っている。
2
わたしをバラバラにするものの2つ目は、「母」。
自分の母親から連絡が来たとき。
友達がお母さんの話をしているとき。
「母の日」という言葉、文字、イラストを目にしたとき。
そういう瞬間に、ふわっと自分がバラバラになっていく。
わたしの母親とわたしとの関係は、まだ言葉にできないしいつまでもできないかもしれない、それくらいわたしにとって難しくて、どうしようもない気持ちのある場所で、
誰かに「わかります」って言われたくなくて、全然ちょっとも説明できない思いを抱えたまま15年くらい生きてきてしまった。
関係が良くはない、だけどそれだけじゃなくて、もっといろんな葛藤とかわたしにとっての正しさの問題とか、そういう決着の着いていない、着くかもわからない問題が山積している場所がある。幸せな記憶とかあったかい気持ちとか、愛みたいな、そういうものも一緒に。
だからわたしの心の、そのゴミ袋みたいに今は閉じ込めているいろんなことが、なにかに反応して出てきちゃったときに、わたしは自分がわからなくなって、どんどんバラバラになってしまう。
3
わたしをバラバラにするものの3つ目は、「障害」。
わたしの母はパニック障害だった。今もそうかもしれない。
わたしの弟は発達障害だった。診断はグレーだったけど。
わたしは起立性調節障害だと診断されたことがある。
わたしは小学生のとき、なぜかいつもひまわり学級の子のお世話がかりをしていた。
思い出せばもっとある。
なぜかずっと、「障害」という言葉に縁のある人生だった。
いろんな人がいて、いろんな人生があって、それなのにその言葉で括られているものが雑多すぎて、それがわたしに混乱を引き起こしているのかもしれない。
わたしの出会ってきた人、関わってきた人、その人たちと過ごした時間。そういう記憶が、そのときの感情が、全然わたしの中で整理されなくて、暴れているのかもしれない。
「障害」という、その言葉をどう取り扱ったらいいのかもわからないし、自分の記憶をどう整理したらいいのかもわからないし、障害のある人たち・障害と呼ばれるものたちとどう関わったらいいのかもわからない。
ただ、その言葉をキャッチした瞬間、せざるを得ない瞬間に、わたしがバラバラになってしまうことだけがわかっている。
良い悪いとか、好き嫌いとか、そういう白黒はっきりした判断がいっそのこと下せたらよかったのになあと思ったこともある。
でももっといろんな色の記憶と経験と感情がわたしの中にはあるから、あるからこそそれはできなくて。できないけどできない自分をまとめて受け入れるみたいなこともできなくて。
向き合いたいとか考えたいとか思いながら、口では言いながら、実際にはバラバラになる自分を必死に繋ぎ止めることしかできない。
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バラバラになっちゃいそうと言いながら、でも本当にバラバラになるわけでもないし、もっと本当はどうにかしたいなって思っていることたちについて。
いま書けるだけ・いま言葉にできるだけ、ひとまずがんばってみました。
みんなにもこんな瞬間あるのかな。わたし以外の誰かにも。
ここまで読んでくれたあなたにあるのなら、心の片隅でそっと、仲間だなあって思っていてくれたらうれしいです。
これがいつかのわたしを助けてくれますように。
いつかの誰かを守ってくれますように。
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