心にいつも大きな犬を(文学フリマ東京38の感想など)
動物に例えるなら大型犬だね、と言われたことがある。
理由はたしか、嬉しいときに嬉しそうな顔をするから、だとか、悲しいときに悲しそうな顔をするから、だったように思う。(怒っているときに悲しそうにする、とも言われた。)
自己紹介が苦手な私は、その言葉をもらってから「心に大きな犬のタトゥーを入れています」と言うようになった。おそらくこれまでの人生で受けたストレスへの反応であるこのタトゥーを、刻みたくて刻んだ訳じゃないこのタトゥーを、今ではすっかり気に入っている。だって、大型犬だよ。たとえタトゥーの形がそう見えるだけだとしても嬉しいよ。日だまりが意思を持ったらきっと大型犬の形になる。私の心には日だまりがある。と、思いたい。
最近はいかがお過ごしでしょうか。こちらはどうにかよろしくやっています。好きなアーティストのおかげで「礼賛」を「れいさん」ではなく「らいさん」と読めるようになったり、サンリオキャラクター大賞に毎日投票していたつもりが一日逃していたらしく、最終日のボーナスチケットがもらえなくてしょんぼりしたりしています。
そして「最近」を語るうえで外せないのが文フリです。私、やっと文フリに出ることができたよ。
歌舞伎町文学賞に『空中ブランコ』という作品を応募して、ありがたいことに一次選考を通過させていただき、それからなんやかんやあって辞退を考え始めたときに、真っ先に浮かんだのが文フリこと文学フリマだった。
「賞を貰って私を知らない人に私の作品を読んでもらいたい」という気持ちで応募した文学賞。それを辞退するのであれば、他の手段でできるだけたくさんの人に読んでもらいたい。今までどんなに出たくても出ないと決めていた文学フリマに出店する。しか、ない。
出られない理由で地中深く埋めていた出たい気持ちを、出る、しか、ない、出る、しか、ないと言い聞かせて申し込みをしたのが出店申し込み受付期間終了の一週間前。抽選は見事当選し、行ったこともない文学フリマに初めて出店することになると同時に、無限ちゃん史上初めてのイベント参加が決まった。
公には宣伝しないと決めていたので、「200人に送る!」と意気込んでDMをとにかく送った。送ったつもりだったが、途中で力尽き、結局送ることができたのは15人ほどだった。見てくれた人、リアクションしてくれた人、行けないけど通販希望と言ってくれた人、行けないけど普段ツイート見てると言ってくれた人、行けるかわからない、行くね、行けなくなった、様々な反応が返ってきて、ああ、まだ無限ちゃんって終わってなかったんだな、うれしいなとぼんやり思いながらひとつひとつに返信を返す。
当日は何人か、ミスiD時代からずっと(本当にずっと)応援してくれている人たちが来てくれた。「いつもありがとう」という言葉がこぼれるように出てくる。握手をして、本を渡す。たまにサイン(はまだないので、ただの記名)を書く。全員に書けばよかった。サインペンを机に出していたのに、話に夢中で忘れていた。
あなたがニコニコと見守ってくれている無限ちゃんは三月からまともに小説を書けていない。noteのエッセイだって、ずっと放置したままだ。
たまに、本当にたまに「誰もいない」と言いながら部屋で泣くことがある。私を見てくれている人が、支えてくれている人が、誰もいないと嘆きながら、それはもう自分勝手にわあわあと泣くことがある。そんな訳ないと思いつつ、そんな訳ない訳ないと泣く自己陶酔のお時間。わかっているけど、悲しいときがある。
でも文フリに来てくれた人はみんな、ニコニコと握手に応じてくれた。「会えて嬉しい」「やっと会えた」「これお土産」「お腹空いたらこれ、SOYJOY食べてね」全部があたたかかった。人の優しさを「あたたかい」と最初に言い換えた人は凄いと思う。文字通り溶けるのだ。「誰もいない」と凝り固まった自己否定が。
もらった言葉も差し入れも全部嬉しかったけど、やっと直接お礼を言えたことが、一番嬉しかった。
ブースには40人以上の方が立ち止まってくれた。この日に間に合うように友達にデザインしてもらった栞は「かわいい~」という言葉とともに貰われていった。当初の目的のひとつだった「私を知らない人に私の作品を読んでもらうこと」も、DMから来てくれた人の約3倍の方が本を買ってくれたことによって、ありがたいことにしっかりと叶った。
中にはサークル名の「心にいつも大きな犬を」を見て、犬目的で立ち止まってくれた方もいた。犬好きな人って犬好きな人の顔をしていることを初めて知った。
文フリの少し前、悲しい言葉を頂いた。
ここで誰がどのくらいどう悪いかということについては決して書ききれないので話さないが、とにかく私はその言葉を受けて悲しかった。ただ、今回の文フリを通して思ったことがある。
私は私のやり方で、私のやりたいことを成し遂げるし、成し遂げられると思っている。
愚痴も弱音も吐くし、できないよ~って泣く。そのうえで本当にできない日もあれば、なんだかんだできる日もある。そしてそんなやり方の私をずっと応援してくれている人がこんなにたくさんいる。醜いと思う。イタいと思う。でもだからそういう私がやっぱり好きだ。見放せない。手放せない。そしてそういう私を愛してもらっていることもちゃんと知っている。「誰もいない」と泣いた日の次の日は「みんなほんまにあんがとね~」と泣いている。そんな人間だ。あんがとね。ほんまに。
『天国に帰る』は約三ヶ月、『空中ブランコ』は十日で書いた。空中ブランコの方は火事場の馬鹿力だとしても、約8万文字を三ヶ月と十日で書けたのには訳がある。このnoteだ。このnoteに散りばめた自分の思考を元に書き上げたのがこの二冊の本だ。頭の中でぐちゃぐちゃに散らかっていた思考を一度このnoteで整理整頓できていたからこそ、この二作を短期間で書き上げることができた。あんがとね。私。
今日、精神科でなぜかヨガを体験してきた。ヨガは精神に良いらしいけれど、そんなつもりで来ていなかったので、ジーンズが裂けるのではないかとひやひやしながら脚をぐねぐねとさせて腕をぐねぐねとさせた。
最後に胡座をかいて、胸の前で合掌をしたところでヨガの先生(可愛らしいブリアナギガンテみたいな喋り方だった)が、「頑張っている自分にお礼をするように合掌をしましょう」と言った。自分が「頑張っている」のかはわからない。幸せですか?という質問と同じくらい答えにくい質問は「頑張っていますか?」だと思う。
でも、胸の前で手を合わせて「あんがとね~」と頭の中で唱えたら、なんだかうるっときてしまって、誰にもばれないように瞬きを何回もした。幸い全員が前を向いていたので、私が私に感謝されて泣いているところは、誰にも気付かれなかった。
あんがとね、私。これからもできるだけ、よろしくね。