眼前の美しさに独り言が止まらない
昨日から、とある薬をやめた。すると、昨晩から、ご飯がおいしくなった。ごはんが本来持っていたのだろう美味しさに、舌先が届くようになったという感じ。この2週間ほど、体の中を、プラスチック片が泳いでいるようだった。そいつも昨日から徐々に薄れて、今日の昼にはほとんど消えている。この2週間の自分は、ほんとに腐っていたようで、まじで無感動だった。いや、正確には喜ぶこともあったのだが、目の前にいる人を悦ばすために、なかばひねり出したような感動だった。だから、喜んだ後に、その真偽を問いたり、まあ、疲れた。そんな2週間だったので、今日は、これまで変わらない1日だったはずなのに、なぜかずっとご機嫌だった。賞味期限の切れた五感を新品に入れ替えたよう清々しさがある。
そして、今いるこの家とも、あと3週間でお別れである。次はどこに行こうか。もっと真剣に考えていいはずなのに、ぼくは何もしていない。鎌倉に住もうか。それとも、小田原か、神楽坂か。この現実世界では、頭の中にあることは、実際に行動に移す必要があるのだよ。と母は言っていたことを思い出した。
1:途切れ途切れの光が照らす。映写機の世界
今日は朝の5時55分に目を覚ました。6時40分過ぎに家を出発し、傘をさしながら、駅までの2分ほどの道を歩いた。雨の音、というのは、雨が傘に当たる音。雨が、コンクリートの地面や、コンクリートに溜まっている水に当たる音は、どんな音の違いがあるのだろうか。コップに入った水の量によって、コップをさすった時の音に違いがあるように、水の深さでも音が変わる筈だ。そんな仮説を立てながらもその仮説検証をすることもなく、わたしは駅の改札を通り過ぎた。
雨の音は、傘に当たる水の音。ということを考え始めたのは、映画音楽作曲家の渡邊崇さんのTEDxKids@Chiyodaでのスピーチを聞いたからである。このTEDxKids@Chiyodaに登壇した、ぼくよりもあとよりも生まれた方々は、みんな化けている。Forbes かたのくん、そーとくん、そーまくん。彼らの道は、見えているのかな。ぼくは、どの道にすすみ、化けよう。
そうそう。雨が、地面にあたりながら、を見ていると、映写機にじぶんの目玉を預けて、外の風景を覗きこんでいるようだった。一秒間に何回、地面の弾けるような一瞬が、目の前で起きているのだろう。ぼくの持っている肉眼では、弾ける瞬間にしか焦点を合わせることが出来ていない。弾ける、と、弾けるの間には一体どんな風景が広がって、そこに、あるのだろう。
映写機、というのは、つまり。写真の連続として、こまぎれのような世界が、目の前に広がっていることが見えた、ということである。世界は止めどない滑らかな連続のように感じていたけれど、そうじゃない。ぼくには、地面に当たって弾ける水の一生が見えなかった。スーパースローカメラなどでみる世界が新しいのは、はやさ(それは遅さも含む)によって隠されていた世界の秘密、美しさ、方法などをぼくたちに見せてくれるだろう。
ぼくたちの目に見える世界は、途切れた世界を、糸で、紡いでいる。ステンレスの包丁で6等分されて津軽のりんごを、糸でつなぎ合わせても、どこかぎこちないように。時間というのも、実は、味わおうとすると、糸のざら、さらら、という声に、舌を通して大脳は気づくかもしれない。それは、舌触り、だけでなく、匂いとして、鼻に届き、舌触りより先に、身体に訴えかけているのかもしれない。
2:2分が変えるかもしれないifの世界
片瀬江ノ島から電車に乗り藤沢駅に着いた。今度は、藤沢駅の南口から、湘南鎌倉総合病院行きのバスを待っている。バス停には、濡れないように屋根があり、時刻表を確認する。次のバスが来るのは15分後。しかし、2分前にぼくがバス停に到着していれば、今頃ぼくはバスに乗っていた、という存在しないifの世界を想像した。藤沢駅に小田急線の青色の電車が止まってから、ぼくは1分ほど、車内でノートを取っていた。それをすることなく、すぐにバス停に向かえば、ぼくは電車に乗れたかもしれない。2分早めることで、15分の待ち時間を短縮できたかもしれない。その2分早く動くことができた存在しないifの世界を思う。たった1秒、たった一回の信号の待ち時間。そういったもので、様々なものが加速して、もしくは、いつものじぶんとは違った歯車に新しい現実が載せられ、運ばれ、目の前にやって来るのかもしれない。
3:行動は急げ
バスの待ち時間、というのは、ある程度予想できる。また、規則正しい感覚だったりする。が、病院の待ち時間は、残酷だ。先週、病院にいったときは「5時間の待ち時間が予想されます」とのことだった。驚愕だった。午前10時過ぎに行ったので、診察はお昼をすぎることもあり、ぼくは待合室から外に出た。律儀にぼくは5時間後の、おやつの時間にもどってきたが、まだまだ待つということだった。結果的に7時間弱ほどまって、2分ほどの診察を終えた。
ぼくが10時過ぎに病院にきて、待ち時間を知って、すこし悲しそうに待合室に座ると、隣のご婦人と会話が発生した。彼女は7時半に病院に来たらしい。(この病院では、受付は7時半からはじまり、診察は9時から始まる)少し会話をしたところで彼女の名前が呼ばれたらしく、彼女はぼくに少しだけ申し訳なさそうに会釈をしてから診察室へ向かった。ぼくは、彼女に「いってらっしゃい。お大事に」と彼女を見送った。
そういった1週間前のこともあり、今日は7時半に病院に向かった。バス停に2分遅れて着いてしまったが故に、ぼくは7時半ちょうどに病院に到着し、そして受付を7時35分に済ませた。診察は11時過ぎだった。もし、一本前のバスに乗ることができ、7時30分に受付をすることが出来ていれば、何時に診察をすることができたのか。存在しないifの世界を思い、そして、「行動は急げ」と改めて思った。
4:まずは[WE(わたしたち)]になりたい。そのあとに、また[I(わたし)]と[YOU(あなた)]
ずっと前になるが、友人と、ぼくの地元である吉祥寺を歩いていた。ぼくは吉祥寺を誰かと歩くときには大抵、勝手に案内人のような気分になってしまい、「ここの通りが!」「ここの街並みが!」「素晴らしいから!」「見て!」という気分になる。そして、その気分全開で歩きながら、様々に右手人差し指で実際に指差したり、心の中で指差しながら「ここがいいんだよ!」と気持ちで歩いている。
しかし、会話というのは盛り上がると、お互いはお互いのことを見ながら話をするようになる。ぼくも、じぶんの方を見てもらいながら話をしてもらうのは嬉しいし、相手のことを見ながら話をするのは、敬意であり、相手がいま何に興味を示し、どのような意図や、希望を持ちながらこの瞬間に存在しているのかわかるから、相手を見る。でも、そうすると、2人は向き合ってしまうが故に、同じ風景を見ることができない。すると、ぼくの見て欲しい風景を相手(you)見てもらうことができない。
書きながら気づいてしまたっが、ぼくは、じぶんの好きなものについて語るとき、相手に、相手なりの視点を持って欲しい。というよりは、まずは、ぼくの見ている世界にすっぽり入り込んで欲しい。のだと考えている。つまり、ぼくは、ぼくという[I]から、相手にじぶんの視点を着せることで[I(わたし)]を[WE(わたしたち)]にしていきたいのだと思う。そして、その後に、相手が相手なりの一人称で、ぼくがおすすめする世界をどのように味わうのかを知りたい。つまりは、まずはWEとして、同じ世界を見るという前提を揃えたい。そして、その上で、別の人間としてあなたと歩き出し、お互いの視点を見せ合いっこしたいのだ。
5:好きな人の、好きなものを通した世界の愛し方が、知りたい。
4年前になるが、ぼくには彼女がいた(これは余談だが、その人がぼくにとっての最後の"彼女"になった)。ぼくはその人のことを好きだったので、その人が何が好きなのかを聞いた。いくつかの項目を聞いたり、聞き方を変えながら聞いたりしたが、彼女からの回答の一つはたしか、「好きな食べ物はお好み焼きだよ。」というものだった。今考えれば、わかるのだが、ぼくがその時にその人に聞きたかったのは、「好きな食べ物ーお好み焼き」という図式ではなかったのだと思う。
今でも、人に「何が好きなの?」という質問をしてしまうが、聞きたいのは「きゅうり」とか「わらび餅」とか、そういった回答の裏側にある、その人の「お好み焼きやきゅうりを通した世界への眼差し、や、愛し方」である。だから、聞かれる側としては、めんどくさいのかもしれないが、もっと踏み込んでその人にとっての「お好み焼き」の魅力を聞けばよかったと思っている。その時のぼくが得たのは、参考書に書かれているような「Aさんの好きな食べ物ーお好み焼き」といった、ものであった。もちろん、その時のやり取りでは、その人の答えるまでの間とか、話し方、目線。などから、彼女のことを知れたのだとも、思っている。
ただ、それは観察眼による副次的なもので、当時のぼくの質問の意図としては「あなたが世界をどのようにして愛しているのかを知りたい。お好み焼き、という方法論で、あなたの世界への眼差しが見えるのなら、では、それはお好み焼きのもつどのような世界観、性質、特徴が、あなたを魅了するのか」というのを、じぶんの中を空っぽにして、相手の眼差しを着て、味わってみたかった。
6:相手のことを知るというのは、つまり。なんだ。
相手が好きなものを知りたい。というのは、例えばお好み焼きが、好き。ということではなく、どのようしてお好み焼きを楽しんでいるのか知りたい。相手の、好きなものとの、関わりのありかたを知りたい。どのようにお好み焼きを賞味(appriciate)しているのか。どの味や、感触、匂い。色、お店の雰囲気、光。何を良いとしているのか、を知りたい。相手が良いといったものを、一人称的に「新造真人として好きになる(もしくは嫌う)」のではなく、じぶんを空っぽにして、あなたがどのように世界を見ているのか、知りたい。
その人には、「お好み焼き」以外にも「D」とか「M」とか様々に好きなものがあるだろう。4年前、ぼくが彼女にどのように質問をしたのかは覚えていない。が、やり取りの中で、ぼくは彼女の好きなものを、単語として切り取るなら軽く10はあげれるようになっていたと思う。しかし、例えばクイズ選手権で「Aさんの好きな色は?」とか「行きつけのお店は?」などと、「QuestionーAnswer」として答えられるようなものは、ぼくにとって、対して価値がないように思う。もちろん、そうしたひとつひとつの小さな知識が、彼女の思考体系、趣味思考、傾向、パーソナリティーを推測するには役立つだろうが、ぼくが知りたいのは、個々の事象を通して、彼女がみている世界に入り込みたい、ということだと思う。
人と人はそもそも違う。性別や肉体の違い、生まれ育った環境の違いもある。そんなことはわかって、こういうことを言っている。じぶんが好きな人が、その人が好きなものを通して、どのように世界に眼差しを与えているのかを知りたい。
7:声が聞こえない文章
この頃、SNSのメッセージというものが、ひどく苦手だ。端的にその理由を言えば、文章から相手の声が聞こえないような文章が、ひどく苦手だ。
ぼくは基本的に、他者からメッセージが届いた時には、他者の声で、その文章を再生しようとする。企業からのメールが届いた時には、その限りではないが、知っている個人からの文章であれば、その人の声で、その人ならこういった話し方をするだろうな、という風に声を想像して、文章を脳内で再生している。
だから、情報だけ送ってくるようなメッセージを送る人には、もれなく「くそ」とか「fcuk」などと、相手に聞こえるように声に出していう。他人にこの話をするとめんどくさがられるが、ぼくがしたいのは単なる情報のやり取りではない。というより、情報だけのやり取りをしてしまう人に、自らを自ら機械のように扱うな。と、思う。人がどのように振る舞うのかは勝手だから、何を食べようか、何を着ようが、何を口にしようが勝手だが、それを眺めているぼくも勝手に、そのことにあれこれ思う。「そんな風に自分を使うなよ」と。
例えば、ふだん使わないなうな「りょ」とか、スタンプだけを送られてくると、非常に困る。というか、ぼくは露骨に不愉快になる。その人は、そういう人だ。と思い、いつもなんとか切り抜けるが、正直、ぼくはそのような相手とは交流を保てないな、と思う。
8:自分の扱い方が、世界の扱い方(草案)
神経質すぎる、という人も、いるかもしれない。しかし、じぶんをどのように扱うかが、世界の扱い方だ。だから、ぼくは、自分自身(相手自身)を粗末に扱うような人とは一緒にいたくない。ものの扱い方を見れば、その人の人となりがわかる。ものを大切にしないひとに、人間を大切に扱えるわけがない。もう、書きながら、自分を糾弾しているような気分になってきたので、すこし休もうと思うが、じぶんの扱い方が世界の扱い方である。これは、今度、もう少し、丁寧に述べたいと思う。書きながら、このままではまずいな、と思うことが多々あると感じたので、これからその多々に向き合おうと思う。
9:他者を、じぶんの内側からちぎり離す
24年間生きてきて、やっと、他者というのは他者なのだということがわかった。(いや、おそらく微塵もわかってないのだけど)敢えて、文章にしてみたくなるくらい、この感覚を得れたのは、嬉しい。いや、本当はじぶんの中に入っていたと思っていた他者が、ちぎりパンのように、ふわっと皿の外に出ていってしまったから寂しくもある。が、この乳離れに似た決別は、健全なものだし、ぼくは今日の夜涙を流したとしても、明日からもじぶんが使った食器はじぶんで洗おう。せめて、スポンジは水色のお魚スポンジで洗わせてください!可愛いのが好き!!!、といった高揚した気分になっている。高揚する、というのが、いたく久しぶりなので、それだけで嬉しいし、この「楽しさの世界」を誰かと共有したい。
10:眼前の美しさに、独り言が止まらない
朝5:55から一日中、文字と戯れている。疲れない時って言うのは、どうしてこうも疲れないのだろうか。16時過ぎから、「今日の空はやばい。きっと曇るだろうが、ぼくはそれでも今日の夕焼けを喜ぶだろう」と気分予報を出していた。そして、その気分予報は的中し、17時過ぎからウキウキしてしまって、18時になった頃には、脳がなにか奏でている。つまり、5:55からゆるりと登り続けた結果、脳は見事にHi状態になって、Duft PunkのArond The Worldを無限再生している。例えば、例えばだ。足裏の世界が嬉しくてしょうがない。右足裏で左足裏を触り、床を触り、本を触り、服を触り、、、と、足裏で感じる世界のざらつきに魅了され、うっとりしている。ざらつき、さらつき、ささら、ささささ。快楽というのは、そんなつもりじゃないのよ、という所に隠れていて、ある時「こっちよ」と、語りかけてくる。
そして、いよいよ、空の色が感極まって、涙が出てくるだろう、という予感をまぶたの端っこが感じ取る。カメラを手に持って玄関を開け、海へ向かう。案の定、信号待ちをしながら眺めた空は、曇り。灰色の雲の下には波打ち際、灰色の上には握りつぶしたピンクグレープフルーツ。うっとりしている。一眼レフで撮影する。と、試みるも笑ってしまうくらいに見事に電池切れだが、あたかもそんなことはむしろ準備していたのだ、というかのように足は海へ向かう。体の中に他者を感じながら、下半身のそいつに上半身のぼくは連れられて、海に向かう。上半身のぼくは、下半身のそいつのポケットに入れたiPhoneを思い出す。画素数とか、そんなデタラメなことは関係なく、ただ、ぼくが綺麗だと思ったものを、低解像度だとしても、撮影したい。高揚した時に撮影すれば、画素数なんて関係なく、なんていえばいいの。あれこれやってくれる。そして、やはり、目の前にひろがる海は、空は、色は、空気は、しぶきが、美しいのだが、これをこのまま撮っても、「そんなつもりじゃないのよ」と言った感じである。
そいつは、みるみる海へ入っていく。灰色の雲に近づいた方が、よりよく海の向こう側にいけるよ。とでも言うかのように。デタラメに足は喋り出すが、そいつの言っていることは本当で、浜で砂を足の下に置きながら眺める空と、波に衣服を濡らしながら見る灰色の雲は、まるで違った。灰色の雲にはたくさんの色が隠されている。視界は、一本の映画のように、劇劇と、その様子を変えている。登場人物なんていないし、投獄犯もいないし、感動的なヒューマンドラマがあるわけではない。が、色が変わる。雲が分厚くなり、足をさらう波の刺激は毎度、毎度、新鮮なあたたかさを残して、また次を予感させる。「なんにもお前には言わせないぞ」とでも言うかのような、空。「顔がどんどん黒くなっていくお前の声を聞きたい。いや、聞かせろ」そんな横暴な態度にぼくをさせるくらいには、灰色の雲が敷き詰められた空は魅力的だった。
もう、そんなつもりじゃないのに、写真を撮ってしまう。そんな誰に隠す必要もないのに、撮りたい気持ちを抱えているのは、もうじぶんでもわかっているのだけど、こうも魅力的なものを見せつけられると、それにまんまとのせられているじぶんが悔しい。でも、美しいから、撮ってしまう。そして、撮ることで、その写真を見ることで「わたしは、あなたをこのような形で、美しいと思っているの」という、じぶんの気持ちを知る。そして、それを撮らせるにいたった海が、空が、色が、光が、みずしぶきが目の前に堂々と存在している。こちらを見ないでほしい、もう、あなたたちには消えてほしい。けれど、まだあなたのことを見ていたい。でも、辛いのよ。と、独り言が止まらない。