舞台「末原拓馬奇譚庫」
2024.01.22~01.25
舞台「末原拓馬奇譚庫」 @Hall Mixa
この末原拓馬奇譚庫という作品、正直なところ事前に出ていたあらすじを見ても、末原さんのツイートを見ても、稽古場でのツイキャスを見てもさっぱり想像がつかなかった。
そして、1公演観劇し終わった直後の感想はというと、この受け取ったものを一体どう言葉に表したらいいのかという点で考えあぐねてしまった。
今まで見てきたどの作品とも違う感情で劇場を後にした。
終演後、すぐさま売られていたグッズの台本を買い、目を通した。そして、先ほど目の前で繰り広げられていた数々の物語を思い出しつつ、感想をポツポツとまとめ始め、今に至るわけである。
映像にも残らないようなので、あらすじを交えたり交えなかったりしながら私から見えた奇譚の感想を書いていこうと思う。
不思議な体験だった。
聞くもの全てを置いてけぼりにして、様々な物語が手を替え品を替え目の前で繰り広げられては消えていく。
劇中でも語られる通り、どれもこれも変な話。奇妙で奇怪な物語ばかりだ。
言葉を選ばずに感想を述べるなら「なんて独りよがりな物語ばかりなんだろう」だろうか。
とっても失礼な第一印象である。
語弊があるので訂正すると「人を選ぶ作品ばかりだな」と思った。
訂正してもなお失礼すぎる。
しかしながら、だからこそこれらは全て「奇譚」なのだろう。
長らく日の目を見なかった奇譚たちなのだから、もしかしたら聞いて欲しくて堪らなくて、空回っては、私たちを置いてけぼりにしたのだろうか。それならば仕方がないかもしれないね。
この物語をどうにか読み解きたくて必死に目を凝らし、耳を傾けたけれど、私の頭じゃ1回では全く理解しきれなくてなんだか凄く悔しかった。
このセリフは、この物語は一体どんな意味を持ってそこに存在しているのだろう。
必死に頭を悩ませながら見ていたところにポンと渡される「どんな奇妙な物語であろうと、存在していていい」というセリフ。
ああ、なるほど。
じゃあ、そこに理解や意味を求めなくてもいいのか。
意味がわからなくても別にいい。意味がなくても別にいい。
オチがなくたって、価値がなくたって、この奇譚庫においてはその存在を否定する理由にはならないのだから。
でも、やっぱり私はこの物語たちがどんな意味を持ってどんなものを伝えたいのかを知りたい。
思考を放棄することは簡単に出来たのだけれど、あまりにも全員のお芝居が良かったものだから意地でも自分の中での正解を導き出したかった。
どうしても、今の私にはどう見えたかを自分の言葉にして残したかった。
オタクってそういう生き物だからさ。
さて、そうして考えて考えて考え抜いていたら、もうマチネの時間になってしまっていた。
もう一度奇譚に触れた時、掴みあぐねた言葉がふわふわと浮かぶ私の頭に一気に物語が流れ込んでくる。
昨日よりも確実に言葉がその感情と共に流れ込んできたような気がして、一気に世界に引き込まれていった。
【二人三脚】
あばら小屋に住む老婆が語るとある二人の子供の話。
運動会の二人三脚があまりにも心地よくて、そのまま真ん中の足を切り落としてもらう。
それってもはや二人三脚か?肩を組んで支えあった二人の人間では?
しかし、二人はそうして限りなくひとりに近づこうとしたのだ。
そこで老婆は問う。「どんなオチが良いか」と。
そのあとに老婆が語ったのは、ひとりになりきれなかった2人の話。
足を切り落としてまで一緒に居たがった2人はやがてその不便さに気がつく。少しずつ少しずつ気持ちはズレていき、結局はひとりとひとりに戻ってしまう。
でも、切り落とした足は戻らない。ひとりに戻ったあとは、もう二度と歩くことも出来ずに地べたを這いずり回るだけの惨めな人生。
これだけを聞いたら一時の感情に身を任せて無謀なことをした愚かな子どもの話としか言いようがない。実に後味の悪い話だけれど、現実に無いと言い切れるだろうか。永遠を誓ったはずの2人が別れることなんてザラじゃないか。
老婆はこう続ける。「こんなオチはどうか」と。
これはきっと究極の共依存の話だ。
二人三脚の幸福感を忘れられず足を切り落とした2人は気づく。でも4本は要らないし肺も4つは要らない。だって2人でひとつなのだから。
そこで彼らは手を切り落とし、肺を切除し、腹や首を繋げ、心臓までもをひとつにした。
まるでテセウスの船のような話だと思った。
2人は限りなくひとりに近づいたのだ。
しかし、その思考は、言葉を紡ぐ唇は、脈打つ鼓動は、いったいどちらのものなのだろう。
互いを支え抱きしめ合っていた腕は無い。お互いのためを考える脳みそも、言葉を交わしキスをすることも出来るはずの唇も、いまはひとつしかない。
2人がひとりになったことで、彼はようやく孤独になったことを悟る。
そして、彼は山奥の小屋にひとりで今もずっと暮らしている。ずっと、ずーっと。
老婆の話はここで終わる。
この話は本当なのか、老婆はなぜこの話を語ったのか、そもそも誰の話なのか。
老婆の自身の話か、それとも老婆とひとつになったもう1人の話か。
全てが謎に包まれたまま、幕は引かれる。
末原さんの描く物語も末原さんのお芝居を見るのも初めてだったけれど、この人からこの物語が作られているのだと思うと「ああ、なるほど」と納得してしまった。なにが「なるほど」なのかと言われると難しいのだけれど、きっとよく考えてみれば私はもうこの時点で、この奇妙で薄気味悪い奇譚の世界に一気に惹き込まれていたのだと思う。
【すきとおり】(「好き」と「檻」)
最初に感じたのはバケモノと呼ばれる彼女(で合っているのかも不明だが)から溢れている“母性”のようなものだった。
私には彼女がまるで母のように見えたのだ。
(異論は認める。というか違う解釈ある人も同じ解釈だった人も絶対私に教えて。どんな手段使ってでも教えて。解釈噛み締め妖怪なので(?))
取り乱しました。話を戻しますね。
さて彼女が母だと仮定して話を進めよう。
彼女のそれは檻に閉じ込めてしまうほどに重たく深い「好き」という感情。
私の頭に過ぎったのは“毒親”という言葉。それがバケモノと呼ばれる彼女をを形容するのに正しいかどうかは分からない。
ただ、彼にとっては檻に閉じ込めざるを得なかったほどのドス黒い感情だったのかもしれない。
だってきっと愛は呪いでもあるから。
そんなバケモノはある日突然すきとおって少しづつ消えていく。
姿は見えなくても常日頃考えずにはいられなかったほどなのに。罵声を浴びせ続けるほど憎んでいたはずなのに。彼は消えゆくバケモノの彼女を必死で引き留めようと言葉を投げ掛け続ける。
思い出したくないのに、忘れてしまいたいのに、消えてしまうことを恐れている。迫り来る“死”を恐れている。
本当はもっと美しかったはずの姿が醜く朽ち果てて見てるのはなぜ?小鳥のさえずりのような魔法のようなの声を持っていたはずなのに、しわがれて変わってしまうのはなぜ?
老いた母に対する逃避と現実。
そんなバケモノに触れられないと分かっていながらも触れることを焦がれ、「分かってよ」と泣き叫ぶ声がまるで幼い子どもが助けを求めているようで、苦しくて仕方がない。
「見るも無惨なおぞましい変形を始めたお前、言葉を忘れ始めたお前のことを、この宇宙の何人たりとも馬鹿にするのは許せない」
認知症で変わり果てた老人の姿が頭をよぎる。
もしかして母は老いて言葉を忘れ、鳴り止まない地団駄を踏み、訳のわからぬ奇声をあげているのだろうか。
子である彼はその姿をもしかして誰にも見られたくなかったの?だから檻に閉じ込めてしまったの?
あくまで想像でしかないけれど。それもひとつの愛なのかもしれない。
そんな彼をそっと包み込むバケモノであった彼女の影の姿があまりにも綺麗で、哀しかった。
3回目の観劇の時、濁流のように流れ込んできた感情に飲み込まれ、涙がボロボロと溢れたこの瞬間に「ああ、この作品を見に来て良かったな」と心底思えたことが嬉しかった。
前川さんのお芝居の大好きなところ煮詰めました!というような作品だった。
唐突に激昂し、口汚く罵ったかと思えば、大粒の涙と共に感情を吐露する。
心の中を抉り取って、さらけ出すような前川さんのお芝居が私は世界でいちばん大好きだなぁと思います。
三上さんのお芝居を見るのはその昔にDVDで見た最遊記-異聞-ぶり。
その時はお芝居のことなんてイマイチよく分からなかったし、なんなら今もよく分かってないけれど、今回このお話でドロドロに輝く「好き」の感情と広く深い母性を感じられたのはきっと三上さんの醸し出す包容力のおかげだったのだと思っています。
【あの化学実験が行われた次の年に、この町で生まれた私たち四十八人の新生児は】
大人たちの勝手な諍いの犠牲はいつだって未来の子供たちに降りかかる。
それがどんな化学実験だったのかは分からないけれど、きっとロクなものでは無かったはずだ。
そのせいで身体も弱く長生きもできない子供たち。それでも生きようと努力し、苦しみ、死を恐れ、生を渇望した主人公。
幸運なことに、彼は最新の技術を取り入れた手術を受けられることとなる。
変わるのは身体だけ。心はそのままでいられる。
そうして、強靭で完璧な身体を手に入れた。
あの頃、必死に練習した一歩が簡単に歩み出せる。歩けるどころか走り回ることも出来る。
変わるのは身体だけ。心はそのままでいられる。はずだったのに。
身体が変わり、取り巻く環境がかわれば、心だって自ずと変わっていく。
そうして彼は必死に努力をしていた自分の過去すらも馬鹿馬鹿しいと切り捨てた。
普通を望んでいた昔の自分の必死の一歩を、自分自身で踏みにじった。
だって今の自分はもう痛みも感じず、疲労もなく、苦しむこともない。完全に作られた肉体を持っているのだから。
じゃあ、そんな完璧な身体を持った彼はなぜあの化学実験が行われたドームへと足を踏み入れたのだろう。
あの化学実験を通してどうして自分たちがあんな身体にならなければいけなかったのかを知っておきたかったと彼は語る。
完全な肉体を手に入れたいま、自分の“生”の根源を知りたいと願うのは正しい心の動きなのかもしれない。
立ち入り禁止区域であるこの場所に人が来ることはきっと無い。唯一の入り口が崩れ落ち、瓦礫に足を潰され、動けなくなった中で、痛みも感じず、苦しまず、ただただエネルギーが尽きて死ぬ瞬間を待つだけなのだろう。
それなのにどうしてそんなにも静謐を保っていられるのだろう。狂っても仕方がないはずだ。痛みも苦しみも感じることの出来ない完璧で不完全なな身体だからだろうか。それとも彼はもう既に狂っていたのだろうか。
これが初見の感想。
でも驚いた。千秋楽に近づくにつれて言葉とは相反する感情が込み上げていくのが見て取れた。
それがあまりにも辛く、目を逸らしてしまいたくなるほどだった。
彼の人生は一体なんの為にあったんだろうか。
いつかの日の彼が未来へ向けた「どこまで歩けるか」という問いの答えがそこにあったことだけが、彼の救いではないかと私は思うのだ。
とんでもないセリフ量を時に淡々と時に凄まじい感情と共に押し寄せてくる。
正直、呆気にとられるしか無かった。
さっきも言ったけれど私には芝居の知識はまるで無い。そんな私でさえも、この人のお芝居はきっととんでもない……と直感で悟るほど。
たぶん私は今とてつもなく凄いお芝居を見ている。
【悪口屋】
私は清廉潔白な人間ではない。
だから、妬み嫉み僻みや愚痴をこぼして笑い合うことの心地良さを確かに知っている。だって、不満を言い合うことで変わらない現状に対する気持ちの共有ができるから。お互いに秘密である心の内をさらけ出し、仲間を見つけることでもあるから。
秘密というのは淫靡で甘い麻薬なのだと思う。
だからこそ、この悪口屋というのは繁盛しているのだろう。
みんな心のどこかで薄暗い感情をグルグルと溜め込んでいるでしょう?
どこかでそれを発散させてくて仕方がないはず。リーズナブルでお手頃なストレス解消法だ。
主人公の阿玉 悪太郎(あたま わるたろう)は、客引きに連れられて立ち寄った悪口屋でその魅力に取り憑かれる。何を言ったって悪口屋は治外法権。悪口なんかじゃ自分の身に害は及ばない。
オプションとしてつけてもらった悪口仲間の罵針雑 権(ばりぞう ごん)と楽しく悪口を言い合うのだが、そこでお店のVIP客である根暗井 氷上(ねくらい ひがみ)とトラブルになり、喧嘩へと発展する。
この根暗井がなんというか、正直とっても嫌味ったらしくて嫌な奴。
ただ、ひとつだけ留意して欲しい。たとえ彼がいくら捻くれた嫌味なヤツでも、彼はきちんとルールを守って、清く正しく悪口を撒き散らしているのだ。
だからこそ彼はベリーインポータントパーソンつまりはVIPなのだろう。
そんな彼から注意され、大喧嘩(というよりほぼ悪太郎が放つ悪口の強烈ストレート)へと発展するわけだが、ついには店長からの大目玉をくらい、バックヤードに連れていかれる。
しかし、その店長というのがまさかまさかの悪太郎の親友である宇加津ヘマの助の弟、有加里(うかり)だったのだ。
有加里は兄の親友であり、自分にとって憧れの存在である悪太郎をとある地下室へと連れていく。
そこにはマダトコ・トダーマ様と呼ばれる巨大な石像と、それを崇めて踊るバイトくんたちの姿。
有加里はまるで教祖よろしく悪口を崇め奉る。
そして、悪口を養分に石像はどんどん大きくなりビュンッと真っ黒な光を放つのだ。どうやらその黒い光は悪口を言われるような悪い奴らを懲らしめるらしい。
マダトコ・トダーマ。たぶんだけど、言霊ってことなのだろう。
淡々と黒い光を浴びた彼らの行く末を語る有加里の姿に慌てふためく悪太郎。
やめておけと制止する悪太郎の言葉を、本当に何を言っているのか心底よく分からないとでも言うような表情で聞いている有加里の顔があまりにも印象的だった。
有加里は現実世界で言うどんな存在なのだろう。コ〇コ〇とかガ〇ソ的な?
彼はきっと何の良心の呵責もなくこの悪口屋を続けていくんだろう。悪いのは悪口を言われるようなことをする奴らなのだから。
しかし、因果応報とはよく言ったものだ。人を呪わば穴二つ。悪事千里を走る。
誰だっていつでも標的になりうるというのにね。
橋本さんが心を痛めまくっていたと噂のこのお話。みんな名前の通りの性格でそれぞれのキャラが立っていてとっても面白いのに、現代における週刊誌やSNSを通した誹謗中傷、そして「私刑」への風刺があまりにも痛烈で、思わずゾッとしてしまった。
【黄色い扉の向こうのソウスケ】
この作品で唯一のコメディ枠では????
七不思議とか呪いの都市伝説みたいなやつっていつまで経っても廃れないよねぇ。
なんだかムラサキカガミみたいな話だなぁと思ってふと気がつく。……いや、とうの昔に20歳は越えているのでそもそもセーフだったわ。
さて、親友だと思っていたやべぇ友人からチェーンメール方式で黄色い扉の都市伝説を聞かされる主人公。
「寝る前に黄色の扉のことを思い出すな」と言われたことを案の定思い出し、気味の悪い夢へと迷い込む。
教えられた通りに左手でドアを開け、小さな黄色い扉を潜り、真っ暗闇の中を目をつぶって声をかけられるまで進む。
そこであんぱんと小指をお盆に載せたババァ改め、お婆さまと出会う。
あんぱん2個食わされたり、ご時世的にしっかり消毒したベチョベチョの手であんぱん食わされたり、小指じゃなくて中指用意されてたり、あんぱんとエナドリというなかなかに合わなそうなものを摂取させられてたり、ババァ改めお婆さまにぶんぶん振り回されてて笑い死んだ。
ここが一番自由そう。
ババァ改めお婆さまと手を繋ぎ「たんたんたん、きったんこー🎶」とリズミカルにステップを踏みながら虹色の草原にたどり着く。
草原を駆け抜け迷った先に待ち構える斧を持った少年。彼の名はソウスケ。しかし名前を思い出してはいけない。
少年は自分の名前を探し、斧で頭をかち割ってその名前を手に入れようとするからだ。
ね、後悔しちゃったね。だって知ったら忘れられないもんね。
こんなテンポ良くリズミカルにえぐい話すな。
コメディで塗り固められた地獄へのジェットコースターすぎるやろがい。
ねぇちなみに今これ書いてるの夜なんだけど、どう思う?やっぱ徹夜しとく?????
私がここから更新が途絶えたらたぶんソウスケのせいです。
【25時】
台本を忠実に演じること、それが彼の人生の全て。
彼の両親が大枚をはたいて買い与えたのは彼の人生の台本。物心着いてから20年余の間、1日の23時間を台本の通りに生きてきた彼。24時から25時までの1時間が、本当の彼の自由時間だ。
その1時間の中で、次の日の台本を確認する。
そこで初めて生じた台本への疑い。
どうやら明日の台本には彼女との別れが描かれているようだ。
嘘から出た真と言えばいいのか、作られた世界に初めて生まれた本当の言葉と感情。彼自身が初めて得た本物の恋心。台本通りに進めばこの恋は終わりを告げる。そんなことを許せるはずがない。
彼が初めて手に入れた本物の恋という感情はあまりにもキラキラと美しく輝いている。そんなものを手放せるはずが無い。
彼は彼自身の確かな意思で、台本を捨てるのだ。
…………と思ったんだけどなぁ。
彼は投げ捨てたはずの台本を拾い上げ、パラパラと捲る。どうやらセリフを間違えたらしい。そして、覚えきれない長ゼリフに愚痴を零す。
そう、いま吐露していたその感情すらも台本に描かれていた言葉であったのだ。
あのセリフの中に彼の本当の言葉は一体どこにあったのだろう。もしかして、本当の言葉なんてひとつもなかったのかもしれない。
時刻はもう25時、覚えきれない台本を抱えて彼は今日も創られた人生を生きていく
全体を通して思っていることではあったんだけれど、特にこの作品は星新一の短編集を読んだ時と同じような気持ちになった。
みなさん、星新一さんの本って読んだことあります?
奇譚庫に通ずるようなショートショートのお話がたくさんあってめちゃくちゃ面白いのでぜひ。
前川さんのお芝居の大好きなところ煮詰めました!というような作品だった。(数分ぶり2回目の登場)
すきとおりが陰の詰め合わせならば、こちらは陽の詰め合わせ。生まれて初めての恋に彼の喜怒哀楽がぐるぐると駆け巡る。
私は前川さんの芝居における表情と声色のオタクなのですが(伝われ)今回本当にその全てを余すことなく楽しめて嬉しい楽しい大好き!
【闘鶏乱舞】
最初に謝ります。ごめんなさい。
正直これもコメディ枠だと思ってました。
いや、実際コメディ枠ではあると思うんですけどね。
軍鶏を戦わせ賭けをする闘鶏場で、集められた5羽の軍鶏。
本能の赴くままに自分の縄張りを守ろうと威嚇と攻撃を繰り返す。
そんな中で、1羽の軍鶏がこの闘いを、この本能からくる闘志を利用されたくないと呼びかける。
軍鶏の習性や本能という抗えないものの中で、上位の存在とされる人間の言いなりになりたくないと反旗を翻す姿があまりにも無謀なのに、どこか美しく見えた。
わざと戦い、わざと逃げ出し、わざと死に、わざと喰われてやる。
誰かに決められた道ではなく、自分で選んで散るのだ。
5人……ではなく5羽が中央に集まって都会を夢見るときのキラキラと輝く瞳がとても印象的だった。
といっても、その後5羽仲良く軍鶏鍋になってしまう未来が見えてしまうのがあまりにも無惨というか、ちょっとダークだなと。
他の誰かに誂られた死に場所よりも自分の決めた道で息絶えることは彼らにはきっと本望だったのでしょう。
いや、もしかしたら1羽くらいは逃げられたかもしれない。夢を見るなら、きっと5羽とも都会へ遠く飛び立ったんだろう。軍鶏はもちろん飛べないけれど。
刀……乱舞に関わるのガチの殺陣師さんに殺陣をつけていただいたと聞きました!!
鶏の殺陣ってあるんですね(?)すげぇや。
【アクリル絵の具の夢】
画家の先生である彼だけに使われ、描かれたいと願う黒いアクリル絵の具の夢。
「ねぇ、先生。ぼくそんなにふしだらじゃないよ」
あなた以外に使われる気は無い。あなたの為に、あなたの絵を、あなたの手で、黒く朽ち果てるあなたの姿を、自分の黒を使って描いて欲しい。
それは黒くて純粋なたったひとつの独占欲。
【猫の死に際】
全てのお話のベクトルが違いすぎて比べるのも難しいけれど、この独白がいちばん好きだったかもしれない。
純粋でまっすぐで、猫らしく気まぐれな愛のお話。
死に際を悟った猫は飼い主の元を離れ、猫の墓場へてくてく歩く。
「いつだって逃げ出せたけれど、逃げなかったのはあなたと居たかっただけ。」
「あなたちょっとウザいから、こうやってひとりになれてうれしいな。」
きっと最後の甘えと、最後の強がりだ。
朦朧とする意識の中、あなたと窓から見上げた星空が眼前に広がる。
彼女の目に映る“あなた”は星空よりも近く輝いたものであったから、“あなた”の目に映る自分はずっとずっと綺麗なものであって欲しかったのでしょう。
ああ、なんて猫の彼女らしい捻くれた最上級の愛の言葉なんだろう。
あなたの泣くところも見たくないし、死体を見るまではまだ生きていると信じて欲しい。ずっとずっと私のことを思っていて。考えていて。覚えていて。
そうやってあなたが思い続けている限り、あなたのそばに居られるから。
化け猫になってそばにいて、あなたのことを思い続けるのでしょう。
【マニキュア】
持ち主の爪をいつまでずっとずっと輝かせたいと願い除光液を恐れるマニキュア。
少しずつ持ち主を知れば知るほど、美しくこの人を輝かせたいという願いが強くなる。同時に自分は剥がれて醜くなっていく。
ああ、これはとあるマニキュアの自己犠牲の話なのか。いや、そんな一言で片付けてしまうのはあまりにも短絡的すぎるかもしれない。
あなたを綺麗に輝かせるために、マニキュアは願う。
だから除光液を買いに行こう。かつて恐れてた除光液を。
だって、あなたの素敵な指先には、醜く剥がれたマニキュアの自分なんてきっと似合わないでしょう?
だから剥がして欲しい。あなたが輝き続けるために。
【ルームシューズ】
ふかふかであったかいルームシューズ。
彼らの役目は寒い時期に家の中で持ち主の足を温め、部屋の中を歩き回ること。
靴の本望は外に出ることなんだろうか。
あったかくてふかふかのルームシューズは知らないのだろう。外の石畳の冷たさや小石を踏み付ける痛み。だってルームシューズは外で使うために作られてはいないから。
部屋の中が彼らの限界。
そして月日は経ち、持ち主の足を温めることすら出来なくなったルームシューズ。
価値の無くなった僕を捨てろと叫び、素敵な靴の一生だったと強がり、ゴミ袋に入れられ、靴としての機能を果たさないまま、憧れの外へと連れ出される。
そして、暖かさが自慢だったはずのルームシューズがもっともっと熱い炎に焼かれて塵になる。
外に焦がれたルームシューズにとっては、部屋は箱庭だったのだろうか。それとも、外の厳しさを知らずに燃え尽きたことは幸せだったのだろうかと考えずにはいられなかった。
【グラス】
安く売られていた量産型のグラス。
要するに取るに足らないひとつのグラス。
このお話、まるで平凡な人生を歩む自分のようだと思った。グラスに自分自身を重ねるのは生まれて初めての体験だ
そのグラスにも願いはある。
君と別れる最後の時は、君の好きな物を飲んでお別れして欲しい。
君の人生にとって取るに足らない存在だとしても、覚えていて欲しい。君に言葉は伝わらないし、そもそも酔っ払って覚えてくれちゃいない。これはただの独り言。一生伝わることはない。
それでも、と願ってしまう自分のようで聞く度に胸が苦しくなった。
【ボールペン】
この趣味を通して私はよく手紙を書く。
きっとこれから先、私は手紙を書く度にこのお話を思い出すのだろう。
私はいつだって「このボールペンを使って書いたこの手紙が、どうか届いたあなたの心を動かしていますように」と願って、この文字を綴っている。
ボールペンである彼が書いた文字、もしくは絵・図形が誰かの心を動かすかもしれないし、なんの意味もない線の羅列として捨てられるかもしれない。後世に何かを残すかもしれないし、なんにも残らないかもしれない。
もしかして、人の人生も同じなのだろうか。
とある作品の言葉を借りるならば「生まれる意味も生きる意味も本当は無い。それでも意味を持たせようとしている。なぜなら人は孤独な生き物だから」ということだろう。
価値のあるものと価値のないもの、そのどちらも肯定してくれるこのお話が私はとても好きだなと思った。
【お香】
一本のお香の一生。
今から燃えて塵になる。部屋をいい匂いで満たして、誰かの気持ちを少しだけ良くするためだけに作られた存在。
それは本当に幸せか。今まさに燃え尽きようとするお香はその誰かの幸せを願えるのか。
誰かのために燃え尽きるだけの一生とは幸せなのか。
考えてみたけれど、私は答えを出せなかった
【一枚の紙に恋をしたハサミ】
【年老いたビデオカメラ】
【戦場の子どもがかつて父親から貰った宝物のヘッドフォン】
【ナルシストなウイスキー】
【金槌の金魚】
【薬の空き瓶】
【ビショビショのドライヤー】
畳み掛けるように続く奇譚の数々。
たった一文、たった数文字で物語を描けることに心底驚いた。奇譚とは案外すぐ側にあるものなのかもしれない。
【或る奇譚にまつわる奇譚】
さて、この物語の冒頭に話を戻そう。
「物語というものは人々に語られ、聞かれることで存在することが出来るものである」
今回の物語は、人々に忘れ去られた奇妙で奇怪な物語-奇譚ーの数々が集まる倉庫、奇譚庫を記憶を無くしたひとりの青年が訪れるところから始まる。
今まで書き連ねた奇譚が横軸の奇譚であるならば、今から書くのは縦軸、つまりは迷い込んだ彼の奇譚である。
記憶を取り戻すため、青年は奇譚を放し飼いにしている場所で、様々な奇譚へと触れる。
そして、たくさんの奇譚に触れたあと、奇譚を守る譚守(たんもり)たちは、記憶を無くした彼にとある奇譚を語り出す。
それは、とある発狂した少年とノートの話。
身寄りもなく、友人もいない少年は衰弱し、寂しさで気が狂ってしまった。
そして、紅い月が昇るある日、少年は彼の持つ1冊の分厚いノートに言葉を綴り、ノートと会話を始める。
そうして寂しさを紛らわせた。
少年にとってノートは友達であり、もう1人の自分でもあったのだろう。
ノートだけは自分を受けいれ、自分を愛し、優しい言葉をくれる。
ノートは少年だけのために物語を綴る。
びっしりと書き込まれ、ノートがもう新しい言葉を伝えられなくなっても、少年はまた初めからノートとの時間を過ごし始める。
ノートが少年にずっと生きていて欲しいと願うように、少年もまたノートに自分が死んでもずっと生きて一緒にいて欲しいと願う。
だってノートは彼自身でもあるから。
少年がノートに残す「万が一ぼくが死んでしまっても、君がいつまでもどこかにあり続けてくれたら嬉しい」という言葉。
明るい未来の約束のようだけれど、私にはまるで呪いのように聞こえた。
その証拠に、ノートは少年が死んだあともそこにあり続け、ノートが風化し物語だけがそこを漂い、記憶を失い、奇譚庫の扉の前に佇むまで、消えることすら許されなかった。
かつてノートであった青年は全てを思い出し、なぜ僕に触れたのかと譚守に縋り付き、消えたいと泣き叫ぶ。
あの子のためだけの物語でありたいから。
あの子のためだけに存在していたかったのに。
その姿を見下ろす譚守たちの目は驚く程に凪いでいる。
彼らはいったいどんな感情でかつてノートであった青年を見つめているのだろう。
そしてかつてノートであった青年はその動きを止める。
少年の残した願いであり呪いの言葉を思い出したのだろう。
少年が「ぼくのすべて」と称した物語である自分を閉じ込め、少年が生きた全てを物語として残し続けるために。
真相を知る度にまるで心臓を鷲掴みにされたように感情を揺さぶられ、息もつけないほどだった。
やっぱり橋本真一さんって凄いや。人の目を釘付けにして離さないどころか、見ているこっちも心を削ってしまう。
そしてその脇を固める4人も本当に素敵だった。
見れば見るほど苦しくて仕方がなかった。
でも、そこまで感情移入が出来るほど、この物語を噛み砕いけたことが何よりもいちばん嬉しかった。
やっぱり、何度考えてもかなり人を選ぶ作品だなぁと思う。
たとえばエンタメ劇とか、勧善懲悪モノだったり、青春群像劇だとか、そういうシンプルで分かりやすいお話が好きな人には多分合わないのだろう。
万人受けはしないのかもしれない。むしろ、ごく少数に刺さればいいという気概を感じた。やりたいことをやり切っているその姿勢がもはや心地良いくらいだ。
正直難解だったけれど、どうにか理解がしたくて、頭を悩ませ、費やした時間の全てが、私にとってはひとつの大事な観劇体験だったなぁと心の底から思っている。楽しかったです。
でも考えるの疲れちゃったな!!
見ているだけの私でこれなんだから、演者側はもっとヤベェんだろうなぁ。凄いや。
よし、カロリーたくさん使ったので美味しい物食べよ~っと!
おわり。