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「私なんて」と悲観していませんか

念願の書道教室に通って2年、思いがけず4級に昇給

上の子が小学校に入学した時から
私も書道教室に通い始めました。

前の職場で隷書の作品展を上野に見に行ったときに
「いつか私も大きな紙に筆で作品を書きたい」という想いから、習い始めて2年が過ぎました。

子供のころは服が汚れるし、墨をするのも面倒だし、
墨の後片付けも嫌だったのでそんなに関心がなかったのですが、

大先生の指導の下
孔子廟堂碑(こうしびょうどうひ)
九成宮醴泉銘(きゅうせいきゅうれいせんめい)
集字聖教序、孟法師碑
といった碑文から抜粋した2文字や4文字を手本に
筆の持ち方、動かし方の指導を受けています。

「肉太でどっしりと」という注意書きがあったので
”太く”を意識して書くと、
太すぎ!
なんて言われながら、仕上がった作品を
毎月競書に出します。

先日、先生から
「福原さん、4級に昇格したから、
こっちの行書の手本で作品を書いて出して」

と言われて泡食って書いて、
提出期限ぎりぎりで郵送しました。

「私なんて無理」って言う人多いんですよ

私が書道教室に通っていることなど
おまけの話なのですが( 笑)

大先生が興味深いことをおっしゃっていました。

「福原さん、お子さんと一緒に
教室に通われて2年くらいでしょ。
子供がドタバタして落ち着かない中でも
競書に出して上達してる。

福原さんと同じように5級で、
半年で神奈川県の作品展に
入選する人がいてね。

その人は多摩の方からここ横浜まで
1時間半かけて通って、40分集中して
練習して帰る。
半日がかりだよ。

意気込みが違うよね。

片や、何年たっても5級のまま
上達しない人がいるんですよ。

力量があるから、作品を出すように勧めても
『わたしなんて、無理です・・』と
遠慮してしまう

これじゃ、チャンスも逃すし、上に行けないよね。

5年10年続けている人の中には、
こんな人いっぱいいるんだよ。

もったいないよね。」

「○○なんて」と思っているうちは、幸せに過ごせていない

「私なんて、無理」とおっしゃるのを聞いて、
私のキャリアカウンセリングの恩師、
坂巻美和子先生の言葉が頭をよぎりました。
授業や著書でも語られていて、
坂巻先生の軸を感じる
一場面です。

坂巻先生があるスーパーの18歳地方出身者の新入社員に「悪い男に騙されないように」をテーマに講演した時のこと。
東京に出てきていろんな経験をするでしょう。仕事・・ボーイフレンド。
「仕事なんて~」と思ったときは
「いい仕事」をしていないときだと思います。
「男なんて~」と思ったときは
「いい男」と付き合っていないことが多いと思います。
どのような事柄にも意味があり、どのような言葉にもその人の人間観、仕事観が見え隠れしています。

と語られています。

それまでは、私も何の気なしに、
「私なんて・・・」「だって・・・」と
よく口にしていた!

福原がそれを口にしたとき、
「福原さん、損してるな」
と感じている人がいたかもしれない。

リーダー職時代の私を思い出しては、
「福原さんは、つまらない人」
「一緒にいたいと感じない人」と
見えてたかもしれないと
反省した記憶があります。

幸運の女神には前髪しかないから

坂巻先生の話を聞いてから
「○○なんて」が出た時、
出そうなときは、
一旦立ち止まって冷静になり、
別の言い方を探すクセをつけました。

坂巻先生の言葉に出会ってもう6年は過ぎましたが、
「○○なんて」に出くわすと
自他関係なく、

完璧主義・ガマン体質からくるコンプレックスが
あんたには無理、
面倒でしょう?
とやってみようかな、できるかもという理想を
崩していて

その瞬間
何かが失われている
誰かが損をしている
何かを逃している
何かを押さえつけている

ような気がしてなりません。

書道教室で大先生から作品を出してみたらと言われて、
落選したら恥ずかしい
自分はそんな大きな競書に応募する自信がない
到底無理

と感じて、断ってしまう。

これって、なんのブレーキなんでしょう?
何にこだわっているのでしょう?

大きすぎる期待や先読みの喪失感で
ついつい「あまのじゃく」になってしまいがち。

自分にチャンスが回ってきたら
ただ、作品を書いて応募する
挑戦する

好きな人に告白されたら
笑顔で返事をする。

これは好機と感じたら
手を挙げる。
そこへ出かける。

幸運の女神は前髪しかない(後ろ髪がない)
通り過ぎてから
つかまえることはできない
のです。

チャンスを遠ざけずに、
そのこと自体を楽しむことが
幸せを感じる充実した時間を過ごす
第一歩。

もし、「○○なんて」が口ぐせなら、
「△△、それもアリだよね」と
置き換えてみませんか?

引き算思考のつくり方で。