ネガティブを受け入れられるポジティブさ #1
最近「ポジティブだね」といわれることが増えた。
ネガティブの日本代表のように人生の半分くらいを生きてきたので、なんだか、ずっとなりたかった自分に生まれ変われた気がして嬉しかった。
俗にいう毒親の元に生まれた私は、小さいころから自己肯定感が低かった。いつも喧嘩している父母に挟まれて、「あたしあの人としゃべりたくないから、こうやって言ってきて!」「あいつに○○と言っとけ」と、当時3歳ながら、立派な家庭内伝書鳩として働いていたら、ストレスでおなかが痛くなって幼稚園に行けなくなってしまったらしい。なーんも覚えてないけど、後からそう聞いた。
それからちょっとして、小学校に上がる前にお父さんとお母さんは離婚した。幼稚園から保育園に転園したとき、みんなは「おどうぐばこ」にちゃんと名前が書いてあるのに、私のだけ下の名前しか書いてなくって、よくわかんないけど、その時生まれて初めて、「あぁわたしは周りの子とは何かがちがうんだな」って思った。
小学校にあがって、お母さんは私と弟を悲しませないためか、自分自身のさみしさを紛らわすためか、私たち兄弟を毎週いろいろなところに連れて行ってくれた。国内47都道府県を回りきるんじゃないかという勢いで旅行に行ったし、そうでないときは、近くの様々なテーマパークに連れて行ってくれた。
本当はどこにも出かけないで、ずっとお母さんと一緒にいて、いろんなお話を聞いてほしかった。でもお母さんは私たちのために一人で一生懸命遅くまで働いてくれていたし、何よりそんなわがまま言って、ぶたれるのが怖かったから静かにいい子にしてた。
しばらくして、その「家族旅行」に、私のよく知らない茶髪の若い男が付いてくるようになった。その人は、お母さんの会社の人らしい。なんでその人が突然付いてくるようになったのかはよくわからなかったけど、その人といるとお母さんは楽しそうだったので、私も嬉しいフリをした。お母さんは私が何か間違ったことをするといっつもイライラして、私のお腹を殴ったり、前髪をギーっと上に掴み上げてほっぺたをぶったり、蹴ったりするから、イライラしないというだけで私は嬉しかった。それから少しして、その人は私たちの家に毎日帰ってくるようになった。
中学生になって、見知らぬその人と私たち家族が同じ屋根の下で生活を行うことが少しずつ当たり前になっていった。私の中の違和感が薄れることはなかったけど、お母さんが決めたことだから、特に何も言わず毎日過ごした。クラスの女子は、誰がカッコいいとか、誰と誰が付き合っているとか、そういう話を楽しそうに話していたけど、私にとって恋愛とか男女関係というものは、とっても生々しくてグロテスクで邪悪なものだった。
そんなある日、お母さんはあるものを私にみせてきた。陽性反応が出た妊娠検査薬だった。もう中学生だし、二人の間で何が起こったのかはすぐに理解ができた。私自身、デキ婚で生まれた子供なんだけど、またデキ婚するらしい。生まれてくる子供に私みたいな人生を送って欲しくなかったから、ほんとはその子も産んで欲しくなかった。でもここまで育ててくれたお母さんにそんなこと言えなかった。私は中学生にして、0歳児の姉になった。テレビではちょうど「14歳の母」が流行ってたのを鮮明に覚えている。
高校生ぐらいのころから、私は日常的に自己否定を始めた。
このままじゃだめだ。自分はここが弱いから、これをできるようにしよう。あれもやってみよう、これもやってみよう。と、とにかくダメな自分を良くするために、できることは何でも試した。勉強もしたし、バイトも、やる気はあるから第一印象はばっちりなんだけど、いざ働き出すと、とにかく覚えが悪く、要領も悪い。何にもできない。寝る間を惜しんでメニュー覚えたりしても全然意味ない。私は真っ当なバイトをすることを諦めた。
お酒を作って、話したり歌ったりするだけでお金が稼げるガールズバーのバイトを始める。おじさんと話すのは、全然楽しくないけど、たまに若い男の人が来ると多少盛り上がったし、私が歌うとみんな喜んでくれるから、いままでのバイトよりは続いた。でもそれも結局飽きて、そうこうしている間に私は就活を始める時期になった。
続くよ~~~
東京で生まれ育った25歳女の、リアルな生活をお届けします。