未熟さの英知
「英知と呼べるモノ」に憧れを感じてきた。
だが、未だ英知というものの本質は掴めていない。
漠然と若いうちには身につけられないものと認識だった。それだからか、年を取るということに憧れすら感じていたのだ。
◇
「年は取りたくないな。」などという言葉を見聞きするたびに、私は首を傾げてきた。
けれども、成熟という言葉を好む人との出会いがあり、考えが少し変化した。
「年を取る」ことは必ずしも英知に近づくことではないのだという。なぜなら、年を取ることで「腐っていく人」と、年を取りながら「成熟していく人」がいるから。
ちょっと意地悪な響きだなと思ったが、腐ると成熟は紙一重という含みは十分に理解できたし、うまい喩えだなと思った。
それ以来、英知に憧れを持つ自分が求めているものは、「成熟の先にあるもの」と考えるようになった。
人として成熟し、英知を手に入れようと考えたのだ。
◇
一方、自分がある程度の年になり、成熟の「源(みなもと)」は既に若い頃に定められていたのではないかと思うようになった。
若い人の持つ「未熟さの英知」。そう呼べるものが全ての人の中には内在しているのではないかと考えるようになったのだ。
未熟という形で内在し、それが熟すことで英知となる何か。
未熟さが成熟して英知となるのではないかと。
いずれ成熟させれば英知となるモノ。
その未熟なモノとは何だろうか?
それは悩みであったり苦しみであったりすることではないかと思う。
悩みを無視せず、苦しみを放棄せず、愚直に生きながら、それらと向き合っていく姿勢。
ときに向き合えないこともある。逃げ出してしまって全てを投げ出したくなるときもある。
それはそれで構わない。
だが、それでも内面に残る「未熟さの英知」があるはずだ。
◇
いくつかの悩みや苦しみを捨て去ったとしても、内面に残るコアな悩みと苦しみ。
それは、その人自身が「存在する意義」や「人生の核心」に迫る悩みや苦しなのだろう。だから捨て去ることはできなかったのだ。
そういう時間を積み重ねて生きることで、人は成熟していく。
未熟さの英知を全ての人は内在させている。
それを英知へと高めるかどうかは、その人次第なのだ。
悩みや苦しみに向き合い、自分を諦めず、生き続けていこう。
眠れぬ夜に、そのようなことを思ってみた。