社会を支える人になる
この時期になると、何気に憂鬱な気持ちになる。
囚われた過去の苦い思い出が蘇るからだ。
その人は、私の同僚でもあり先輩でもあった。
その人は、普段は穏やかで優しい人だった。
だから、私は、自分の病についても正直に話すことができた。
信頼関係があったと思っていたからだ。
あるとき、病に罹っていたときに思っていたことの話題になった。
「私は、このまま死ぬのは嫌だ。この世に生まれてきて、周りに支えてもらってばかりの自分が不甲斐ないと感じて、なんとかして生き延びたいと思った。そして、私は1円でも多くの税金を納め、社会を支える人になりたいと思った」
心を許しているからこそ話せた内容だった。
だが、目の前に居た彼女の表情はみるみる曇っていき、激しく怒り始めたのだ。そんな彼女は見たことがないというほどに感情を露わにし、激高していた。
そして、怒りに任せ、次のような言葉を私にぶつけてきた。
病で働けない人がこの世にはいる。その人のことを一体どう思っているのか?そのような人たちのことを「働けず税金が払えない無駄な存在だ」と切り捨てる気なのか!人権無視も甚だしい!
自分は働けるからといって威張っていいと思っているのか!
私には働きたくても働けない友人がいる。病に苦しんでいる。その友人を貶める言動は許さない!
彼女は、とにかく激しく怒っており、何をいっているのかわからないくらいの支離滅裂ぶりであった。この内容も、自分なりに辻褄をあわせるとこんな感じだろうかと理解してることといったほうが近いかもしれない。
その日を境に、彼女からの執拗ないじめが始まった。つまり、私が退職する日までのカウントダウンが始まっていたのだ。
彼女の言い分は全くわからないわけではない。だが、あの言葉を発した私に憤ることとしては筋が違う。
私は「私が働きたい」といっているだけであり、「働かない人はダメだ」と発言したわけではないからだ。
そもそも私自身の問題として話した言葉を、世の中一般論にあてはめられてしまうことは妥当なのだろうか?
その是非は個人差があるのかもしれない。
だが、少なくとも、「社会を支える人になる」という気持ちを否定するような風潮が是とされるなら、私たちの暮らす社会がよりよくなろうはずもない。
「社会を支える人になる」という気持ちが否定されるようであってはならないのだ。
一所懸命働いて社会を支える人になる。
支えるという行為は税金を納めることに限らずできることではあるが、数字で見える分「納税」という形はわかりやすい。
だから私は確定申告の時期に「社会を支える人」として生きているだろうかと自問する。
目標と掲げるほどの自分ではないことが悔しくもあるが。
人生が続く限り、命が続く限り、目標に近づくことはできる。
そう信じて前を向き、社会をより強く支える人になっていけたらと思う。