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結願

結願(けちがん)とは、修行の最終日のこと。

日を定めて行った法会(ほうえ)や願立(がんだて)の、日数が満ちることだ。法会とは追善供養のことであり、願立は誓いを立てて祈願することである。

お遍路と呼ばれる人たちは、何らかの願いごとを心に抱いたり、親しい人を弔う気持ちがを抱いたりして四国八十八か所をお参りしているのだ。

お遍路をすれば「叶う」のではない。結願が修行の最終日であるならば、お遍路は成し遂げるものではなく、スタートラインに立つことが整った日といってよいだろう。



今から15年ほど前のことだ。

私は、両親につきあって四国お遍路の旅をしたことがある。お遍路の途中からドライバーとして同行した「ナンチャッテお遍路さん」であった。

当時の私は、お遍路なるものをそれほど熱心にしたいという気持ちがなかった。だが、結願の寺に向かうと、心の中に沸き起こるものがあった。

それは、達成感ではない。むしろ、その対極にある感情だった。

当時の私は闘病を終えて半年ほど。この先、命が助かる見込みがあるともないとも言い切れない「先行き不透明」という状況。命惜しくて、生きたい気持ちが強かった。

だから、修行を終えたというよりは、修行はまだまだこれからだという気持ちが強く沸き起こったのだ。

四国遍路はどの札所からスタートしてもよいのだという。そして、八十八か所の札所をまわることで結願する。

結願の場所とされる八十八番札所ではあるが、私の心境としては志半(こころざしなか)ば。自分なりに人生修行を積み、私は、この場所にもう一度立ちたい。

そんなことを思ったりしたのだ。



お導きあり、結願の寺を訪れる機会を持てた。再度、「あの場所」に立つことができたのだ。すると、私の心に、なにやら心の中に沸き起こるものがあった。

それは、達成感ではない。救いに近い心境だった。

人生でうまくいかないことがあったとき、人はどうやってそれを切り抜けるか。そのスタンスで「人となり」がわかると思ってきた。

自分は「誰かのせいにできることは楽だ」と考えていた。上手くコトを運べなかった自分を責めて、いつも苦しい気持になってきたからだ。

だが、「自分の責任として自分の行動で現状を変えることができることは救いである」という「思考の転換」が、突如として脳裏に浮かんだ。

誰かのせいにして何も変えられないと現実を嘆くより、自分の責任として行動を起こすこと。それは、苦しくもあるが救いでもある



自分を責めて苦しかったと思っていたが、苦しみの理由は、それだけではなかったことにも気づけた。

「苦しくて未来へ進めない」という自分を哀れみ、「この不幸な姿を見よ」という、周囲への怒りの気持ちも完全に否定はできないと悟ったのだ。

誰かのせいにして人を恨んだり憎んだりといったことは、何も生み出さないと頭では理解してきたつもりだが、私の心の奥底にも、そのような感情があった。

それに気づくことができたのだ。



女性に生まれたから、女だからと周りに差別され出世が出来なかったから、人生が思うようにならなかったと、私は長い間、思ってきた。実際に、そういう差別もあっただろう。

病気になったから、病のせいで志を遂げることができなかったから、もし健康な体さえあれば私にもチャンスはあったはず。そういう悔しい気持が怒りに変わることもあった。

人生がうまくいかなかった理由を「自分の外」に探そうと思えばいくらでもある。

しかし、それは過去の話。自分の人生がうまくいかなかった躓きの理由だとしても、それを言い訳にして未来への行動を起こせないのは悲しいことだ。

嘆き悲しむ時間は必要だが、自分が思っているほど「時(とき)」は待ってくれない。



誰かのせいにして気持ちが楽になるのだとしても、誰かのせいにすることが未来への道を塞ぐ感情になるのなら、その考え方を改めたらよいのだ。

命はまだ尽きていないのだから。

人生がうまくいかないことを自分以外のせいにしない。誰かのせいにできることであったとしても。

自らが人生の責任者として前に進むとき、運命の扉は開く。

自分の人生は自分のもの。

言い訳を脇において、未来へと歩みを進めよう。

今、ここから。