自立とは「自分を頼り」に「人を頼る」こと
信頼できる人や親身になって関わってくれる人。それらは人生を生き抜く中で、大きな支えとなる。
そういう存在はありがたい。
だが私は、誰かを頼ることはあったとしても、根本的には「自分を拠り所」として生きている。
自立とは人を上手に頼ること?
上手に助けを求めよう。適時適切に人を頼ろう。
昨今、このような言葉を見聞きする。
これは本当にそうだと私も思う。
だが、これらの言葉の解釈について人と話す機会があると、「全く違う解釈をしてる」と嘆かわしい気持になることが多い。
助けを求めり頼ったりという行為の「主体者」が自分自身であるという前提がなければ、それは自立と呼べないと思うからだ。
違和感を感じる「助けを求める」の意見
自分の事情を話して相手から同情してもらい、感心を持ってもらうことだという意見を聞く。
愚痴を聞いてもらうとか、憂さ晴らしにつきあってもらうとか、そういうことをイメージして「助けを求める」といっているようだ。
要するに「傷のなめ合い」のようなことをすることなのだそう。
それを全ては否定しない。そういうこともあるだろう。
だが、「自立とは人を上手に頼ること」という文脈で使うときの「頼る」は、傷のなめ合いではないと思うのだ。
上手に頼るということは
自分の状況を整理して助けを求める判断をすることが先決。
解決に向けた道筋を立てるのは自分自身。その上で「どうしてもここだけは誰かに助けを求めなければならない」という判断を行い、助けを求める。
あるいは、何が問題が自分では道筋を立てられないので、情報整理を手伝って欲しいという助けの求め方もあるだろう。
いずれにせよ、主体となるのは自分自身だ。
自立した頼り方とは?
自分の体調不良を治そうとしたとき、主体的に助けを求めて頼るという考え方を具体的に見ていこう。
何科にかかるかは自分で判断するし、どの医師を選ぶかは自分で決める。服薬や検査を勧められれば、その指示に従うと決めるのも自分自身である。
思うように回復しないとか、予想していたよりも症状が重いとかで、どうしても逃避したくなることもあるだろう。
そういう時に、愚痴を聞いてもらったり憂さを晴らす行動にでることもある。
「今は逃避をする」と決めるのは自分自身であるなら、それもまた立派な自立の形といえるのだ。
試行錯誤でも「自立」の道を選びたいと願うなら
つまりは、自分の意志ありき。
自分自身の意志や判断があってのこと。
どのタイミングで、どういう助けを誰に求めるのか?
それを決めるのは自分自身。
自立とは「自分を頼り」に「人を頼る」こと。
その方法がうまくいかないことがあったとしても、そこから学び、次へ進めばいい。
成功と失敗を繰り返しながら人は自立していくのだから。