他者との違いをどのように捉えるか?人としての器が試されるとき
肉が好きか?それとも、魚が好きか?
人との違いは探せば探すほど見つかる。
違っていて当たり前なのだ。
その違いをどう捉えるか?
違いがある人との関わりを、どのように進めていくのか?
そこには人としての器が現れるのだと思う。
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自分と違う環境境遇立場の人との付き合い方には、人の器、即ち、隠された人柄というものが見える。
とある「女性」を例にとってみよう。
彼女は結婚をしていて子どもがいる。子育ての真っ最中だ。そのためストレスもたまっている。
そういう境遇の女性が、世の中において、既婚未婚を問わず、子育てをしていない女性に対して、どのような態度をとるかで、「人柄」が見え隠れするのだ。
具体的には子育ての大変さを、どのように捉えて、周りとのコミュニケーションをとるかの話になる。
「子どもを産み育てたことがない人には、どれだけの想像力を働かせても絶対に大変さがわかるはずがない」と上からの目線で切り捨てる場合。そのスタンスを取るとすれば、子どもがない人に対して、辛さを想像できない存在として「問答無用」で切り捨てることになる。
この態度は、子どもを産む産まない、育てる育てない、ひいては結婚しないするといった、個人の価値観の多様性を許容しない心の狭いもの。違いがある人同士をそれぞれのカテゴリーに押し込めて、「違いを理由に分断を生み出す思考回路」だ。
こちら側とあちら側。
違いがある人たち同志をグループにして、それそれを敵と味方に分けるような扇動をするのだ。「分断を力にする」という人間関係の力学もこの世には存在している。分断されたことで、それぞれのグループ内の結束力は固まる。だから、「違いを理由に分断を生み出す思考回路」を否定することはできない。
ただし、あまり平和的な考え方の人ではないだろう。
一方、子育て中の大変さを抱えながらも、周りとの分断を生み出さない工夫が自然にできる人がいる。当人としてみれば、自然とできているわけではなく、非常に頭を使った結果かもしれないが、とにかく上手いやり方をするのだ。
具体的には「子どもがいない人には私のことがわからないかもしれないけれど、想像力を使いながら、私の辛い話を聞いてくれないだろうか。」と自分の辛い体験、子育ての大変さを語り尽くすことをする。
見方を変えれば「一方的に辛い話を聞いてくれる存在」として子育ての経験がない女性を使い倒しているともいえるのだが、「違いを認め、理解することを許す思考回路」は素晴らしいと思う。
それと併せて別の機会には、子どもがいない側の話を聞くことがあるなら、なお素晴らしい。違いを前提とした相互理解の関係といえるからだ。
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子育ての例をとって話をしたが、あらゆることに通じる考え方だと思う。
「違いを理由に分断を生み出す思考回路」を選ぶのか?
「違いを認めて相互理解を許す思考回路」を選ぶのか?
その違いで、人としての器を測ることができるだろう。
自分と同じ人でないと存在を異物として蔑む立場か、それとも、違うのが当然として許容を促す立場か?
どちらが増えると世の中が平和になるかは、火を見るよりも明らかではなかろうか。