「生まれてきてよかった」と思える日まで
3人きょうだいの真ん中っ子。
幼き日、祖母から「あなたは要らない子として生まれた」と告げられたことで、心に闇を抱えて育った私は、生きていて申し訳ないと思いながら大人になった。
「生まれてきてよかった」なんて思える日がくるとは思えなかったが、それは、生まれてきてよかったと思える日まで生きていないだけのことだったのだ。
生まれてきてよかった。
50年以上も生きなければ、それを感じることはできないなどと、思春期の頃の私は想像だにしていなかったのだ。
◇◇◇
思春期の頃には、人道的に生かされているだけの屍として自分を認識するようになっていた。
両親に対してお祝いをしたいと思うような節目、例えば銀婚式などには、3人きょうだいで足並みをそろえてお祝いをしようと声をかけた。私がお祝いしたのでは両親は喜ばないだろうと考えたからだ。
成長するにつれ、自分が親からは大事にされているようだが「家」には必要とされない存在だと感じるようになっていった。
だが常に頭の中から離れなかったことがある。それは「生まれてこなければ迷惑をかけることもなかっただろうに......」ということだった。実家が金銭的に貧しい時期に育ったことも大いに関係している。
だが、実際は、私が生まれたことで、「本気を出さなければ一家心中の道しかなくなってしまう」という背水の陣しくことができたのだとか。私が心を病み、将来に希望を持てず自暴自棄になっていた頃に、両親から知らされた。
それを機に、どんな形であれ、「要らない」存在でもなかったのかなと思えるように心境は変化していったのだ。
◇◇◇
昨年、初夏、父は他界した。
それ以降、仏事のほか、遺産相続の協議という難題を抱えることとなった。
「男子に遺産を多く残すという偏りある分配をしたい」という父の口癖とメモだけが存在しており、正式な遺言書が存在していなかったからだ。
法定通りに分割したいという姉は孤立した。
父が望んだように、父が願ったようにと、私が主張したからだ。
それができたことは、自分を否定するような自我形成の成育歴が大いに関係しているかもしれない。
自己否定というと、とても残念な響きと思われがちだが、その時期を糧として全うな人格を形成することができたおかげで、私は、父の望むような遺産相続の議事進行を担当できたと思う。
最優先するべきは、財産を残した者の遺志である。残された者は財産を好き勝手に分割できるわけではない。
その大原則に則り、男女不平等な分割を是として協議を進めた。
自分の信条である「男女平等」「拗らせジェンダー」の主張を脇において、父の意向に沿う形をとることができたのは、自分の立ち位置を成熟した人格として認識できたからだろう。
皮肉ではあるが、その結果、「私は必要とされた存在」になれたと感じることができたのだ。生まれてきてよかった。そう思えた。
◇◇◇
生まれてきてよかったと感じたい。
そういう気持ちの人は少なくないだろう。
けれども、それを心の底から感じることは、生半可なことではない。
親とは全く違う人格で、全く違う人生を生きている子どもが、親を受け入れることが容易ではないことを想像してみれば、その難しさを理解できるのではないだろうか?
「親は子どもを肯定すると同時に、子どもが親を肯定する関係」こそが、最上の関係。子どもは成熟して対等な関係として親を看取り、親の屍を乗り越え生きていくのだ。
それができて初めて、心底「生まれてきてよかった」と思える日を迎えることができる。
両親のうち、父との関係においてだけであっても、そう思える日まで生き延びられたことは、自分の誇り。
この誇りは静かに心の中にしまって生きていこう。
父と私の絆を大切に思うからこそ。