「主婦でも」できるの「でも」が嫌い
自己卑下かもしれない。謙遜かもしれない。だから、取り立てて嫌いなどということもないだろうとは思っている。
けれども、表現が卑屈になりすぎている気がして仕方ない。「主婦でも」できるの「でも」に、私は引っ掛かりを感じてしまうのだ。
どうして「主婦でも」という表現が使われるようになったのか?
ネット上には類似の表現も多く見かける。『「あなたでも」できる』や『「私でも」できた』など。この場合、「でも」は自己卑下なのだろうか。それとも謙遜のつもりだろうか。
「主婦でも」「私でも」の「でも」には、できないと思われたことができたという含みを感じる。
「成し遂げることが困難なことがらを成した」という場合であったとしても、やはり、「でも」には自虐的な響きがある。なぜなら、「でも」が表現として担うのは、成し遂げる前に抱えていた自己肯定感の低さを「成し遂げたことで上げた」という「含み」だからだ。
「でも」自体がネガティブな意味を持っているわけではない
例えば、「誰でも宇宙に行ける時代になる」という表現を使うときは、宇宙旅行という夢のような世界を「誰でも」体験可能になるという「未来への希望」を感じさせる。
それに対して、「主婦でも」できるの「でも」はネガティブな響き。「主婦にはできないと思うでしょうけどできますよ」というニュアンスが前後の文脈から受け取れる。
ネガティブな含み、自己からの、あるいは、他者からの「低い評価」が前提とされているのだ。
自分自身に誓うことから始めよう
他人の文章表現に逐一文句を言うわけにはいかない。もちろん、すべての「でも」を蹴散らすわけにもいかない。
だが、自分が発する言葉は自分自身が聞いている。だから、せめてこれだけは自分に誓おうではないか。
『「わたしでも」できる』などと自分自身を下げるような言葉を口にしないこと。
この誓いから始めよう。
その積み重ねで未来はできていくのだから。