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第三章 「秘密」

「中二病」という概念

 「中二病」という概念がある。この言葉は「中学二年生のころに特に見られる、背伸びしがちな言動」を「病」に喩えたものであるが、この概念は前章でみた「冷笑」とつながっているかもしれない。つまり、背伸びし、成長しようと欲することへの冷笑。分かりもしない洋楽を突然聴きはじめ、ブラックコーヒーを飲み、英語の原書に急に手を伸ばす。この全てが「中二病」と揶揄されるのだが、つまり分かりもしない大人らしいものに急にあこがれて形だけの真似をするわけだ。だが、成長の過程でこうしたことは不可避で、はじめはよく分からなかったものが後から段々と分かってくるものではないか。
 たとえばラッパーのZeebraは「中二病」をそうした側面から捉え、その概念の存在そのものを批判する。「何にも本気になれない「出る杭を打つ」クソみてえな文化」「揚げ足取り文化」と彼はこの言葉とこの言葉の背後にあるものを批判する。

 そして、その言葉の発明者である伊集院光を「余計なことをしやがって」と批判するのだが、しかし、伊集院光としてはそのような「中二病」という言葉の流通はまったく本意ではないのだった。
 一九九九年に、この言葉はラジオ番組『伊集院光のUP'S 深夜の馬鹿力』で生まれた。だが、このころの「中二病」という言葉はあくまでも自虐的な笑いを誘うためのものであって、他人を揶揄するためのものではなかったという。だが、それはいつの間にかそうしたものへと変質してしまった。「もう違くなってんじゃんか、だからあれはもう知らない」と彼は語る。
 だが、自分の過去を揶揄することと他人を揶揄することとは方向が異なるだけで、少なくとも「中二病」という言葉の意味については大きな違いはないのではないか。
 伊集院光は、この言葉の運命をダイナマイトに喩える。この類比は、言い得て妙である。「中二病」という言葉の変質というのは、何ら害のないものが突如人を傷つける兵器に変わった、という類のものではない。それははじめから、取り扱いに注意を要する危険物だったのだ。「中二病」、この自分自身の過去を掘削して笑いを持ち帰るための爆薬は、自らの人生を闘う最中にある戦士に重傷を負わせるに足る充分な威力をそなえていた。
 とはいえ、この言葉の行く先について、この発明者に責任を問うというのは馬鹿げている。あるいは、責任を問うたところで何になると言うのか。
 さて、「中二病」という言葉にはまたもう一つの変質がある。「厨二病」としばしば表記されることもある「邪気眼系中二病」のことである。その発端は二〇〇六年二月十二日にニュース速報版(v速版)に立てられた「過去の失態を告白してみんなで奇声を発するスレ」(このスレのタイトルを見ても分かるようにここで告白されるのは基本的に自分の過去であり、つまり伊集院光的な用法は維持されているのである)に投稿された一つの書き込みであった。

中学の頃カッコいいと思って
怪我もして無いのに腕に包帯巻いて、突然腕を押さえて
「っぐわ!・・・くそ!・・・また暴れだしやがった・・・」とか言いながら息をを荒げて
「奴等がまた近づいて来たみたいだな・・・」なんて言ってた
クラスメイトに「何してんの?」と聞かれると
「っふ・・・・邪気眼(自分で作った設定で俺の持ってる第三の目)を持たぬ物にはわからんだろう・・・」
と言いながら人気の無いところに消えていく
テスト中、静まり返った教室の中で「うっ・・・こんな時にまで・・・しつこい奴等だ」
と言って教室飛び出した時のこと思い返すと死にたくなる

 東京大学の文芸サークル「新月お茶の会」の会員である只野胡椒は、「中二病」概念の変遷を追ってその調査結果をTwitter上で発表した。

 それによると、この言葉は二〇〇五年十月ごろから2ちゃんねるで爆発的に拡散したとのことである。だが、「当初は洋楽やマイナーを愛好するというサブカル系の痛い言動が主であり、アニメ漫画の類は数例あるが絶対的少数」であり、「2005年末頃になると飲酒喫煙といったいわゆるDQN的言動が増え、2006年前半には多数を占め」たが、この段階では何かの漫画の主人公のような何かになりきるというものは中二病としてはほぼ存在しない。だが、この「邪気眼」の登場によって事態は一変する。「2006年夏以降、邪気眼=オタク的な妄想の言動が膨大に生産される。」
 「大人にあこがれた背伸び」から「マイナーへの愛好」さらに「飲酒喫煙のような非行行為」、そして「オタク的妄想」。これほど多様な内容が「中二病」という一つの言葉のなかに居座ることができたのは何故だろうか。単に、流行りにのって本来の意味を忘れてしまえば、言葉の意味などころころ変わる、ということなのだろうか。いや、これらすべてが同じ一つの言葉において表現されているということそれ自体に意味があるのではないか。
 まず、これらに共通するのは「かっこつけ」であるということであり、自分が「かっこいい」と思うものを模倣してみる、ということである。次に重要なのは、模倣する対象が「よく分からない」ものであることだ。洋楽は「分かりもしないのに」と揶揄され、ブラックコーヒーは「コーヒーの苦みもなにも分からないくせに」と揶揄される。そして、この点でみれば、包帯や突然の発作、そして何かをほのめかすような言動もまた、実のところ演じている彼自身にも「よく分からない」ものである。こうした「よく分からない」ものにかっこよさを見出して、それを模倣する、というのが、「中二病」という症状を構成しているように思われる。ここでは「マイナーな趣味」も何か謎めいたものとして中二病患者を魅了しているのであるし、非行行為も、自分のよく知らない世界への入り口として魅力的に映るのである。
 このような、「よく分からないもの」に惹きつけられるというあり方について考えるにあたって、われわれは柳父章の翻訳論、ないし日本論を参照することができる。

柳父章のみた「カセット効果」

 柳父章は、何冊もの翻訳論を執筆し、よく分からない翻訳語というものが放つ奇妙な魅力について論じた人物である。彼はさまざまな翻訳語の日本における流通について調べ、そこで奇妙な効果が発生していることに気付く。これを彼は、宝石箱を意味する言葉「cassette」を用いて「カセット効果」と表現した。
 翻訳語はよく分からない。少なくとも表面上は日本語で、日本語の文章のなかに紛れ込んでいるが、他の日本語との関連のなかで完全に理解することができない。何か高尚な意味、理念を含んでいるらしいが、その言葉から完全に引き出すことはできない。このことが、読者をかえって惹きつける。

意味がどうにも分からない部分がある。その分からない意味を、ことばじたいに預けてしまう。「自然淘汰」や「万物法」は、筆者にとってまだ知られていないが、ある重要な意味を、そのことばの向う側に持っている。ことばをそのように扱うのである。私流に言わせてもらえば、ことばを、未知の宝石の隠されている「カセット」のように扱うのである。*1

 これが、「カセット効果」なるものである。言葉が何かを隠しており、その隠しているということが何か無視しがたい魅力を放っている。これと同様の効果に、清水義範の提唱した「ジンクピリチオン効果」があるだろう。それは花王のベストセラー商品「メリットシャンプー」のCM中の言葉から来ている。この三〇年以上つづいたCMのキャッチコピーが「ジンクピリチオン配合」だった。よく分からないが、「なんだか、すごそうだ」。「カセット効果」もこのような効果なのである
 彼が「近代」という「modern」の翻訳語について述べることは、山本七平が「空気」、もとい臨在感的把握について述べたことを想起させる。彼は、「modern」という原語が本来あくまでも時代区分上の意味しかないことを押さえた上で『近代の超克』の座談会に触れ次のように述べる。

ことばがこうして、いいとか、悪いとか価値づけされて受けとめられている、ということは、ことばが、人間の道具として使いこなされているのではなく、逆に、何らかの意味で、ことばが人間を支配している、ということを示している、と考える。「近代」が「混乱」であり「地獄」であると思い込む者は、「近代」と名のつくものを、考えるよりも前に、まず憎むであろう。他方「非常に偉い」ように感じている者は、冷静に見てみるよりも、まずあこがれるであろう。
 人がことばを、憎んだり、あこがれたりしているとき、人はそのことばを機能として使いこなしてはいない。逆にそのことばによって、人は支配され、人がことばに使われている。価値づけして見ている分だけ、人はことばに引きまわされている。*2

 さらに柳父章はこうした効果を、漢字そのものにもみる。

私たちの国でも、たとえば出土するかつての支配者の剣などに、きっと文字が刻まれているのを見出す。文字を刻んだ人たちじしん、必ずしもその意味を知ってはいなかったことは、鏡文字といって、左右が逆の書き方が時おり見つかることでも分かる。その文字は、意味によるよりも、まずその「くねくねとした」不可解な形によって人々を惹きつけ、貴重であるとされ、独占されたのである。*3

 ここでは漢字そのものが、カセット効果を引き起こす謎めいたものなのだ。
 さて、こうした彼の翻訳論だが、この翻訳論はそのまま彼なりの日本論に結実する。『「秘」の思想 日本文化のオモテとウラ』。二〇〇二年に出版されたこの本は、日本文化を翻訳の文化としてとらえ、よく分からないものがそれゆえに魅力を放つ「秘」の思想の国としてとらえた。
 「すばらしいものを受け取った、しかし、その送り手はよく見えない。このような舶来文化の受け取り方の経験」*4、「初めに形がある。その意味はよく分からない。しかし、それは大事な、立派なものである。」*5、こうした経験から、「秘」の文化がつくられる。銅鐸、漢字、仏教などなど。彼はまた、天皇が歴史を通してつねに外来の文化で飾られてきたことを指摘する。御真影は洋装だった。近代的知識の受容というものも、翻訳語について見たように、こうした「秘」の思想によるのである。
 だがこうした「カーゴカルト」的とさえいえる文化のあり方は、単に消極的な受容にとどまらず積極的に秘密を生産する、という方向へ日本人を動かす。

すなわち、初めに形を作る。その意味は、よく分からないようにする。すると、結果として、大事な、立派な意味として受け取られるようになる、というわけである。*6

 こうした「秘」の文化はたとえば世阿弥の芸術論に見つけることができる。「秘すれば花」!

「秘密」の衰退

 さて、「中二病」とはこうした「秘」の思想と同様のものに思える。彼らは「包帯」や「眼帯」で何かを秘めているように装い、言葉の節々から日常の常識では測ることのできない何かを隠しているように装う。このような秘密の生産によって、自らをかっこよく見せることができると信じるのである。大人文化や不良文化の場合もそうである。これらは彼らに謎めいた感じを与え、それゆえに模倣されるのである。
 しかし、ここでわれわれは思い出さねばならない。「中二病」とは、まさにこうした「中二病」に対する揶揄と冷笑の概念であるということを。
 なぜ「秘」の思想は衰退したのか、少なくとも以前と同じ姿を保ち得なくなったのか。ここでわれわれは「中二病」という概念が定着した土壌について考えるべきである。つまりインターネットのことだ。ここでわれわれは、あまりにも簡単に「秘密」を装うことができる。何か自分が重大なことを隠していて、それを伝えようとしているのだ、というふうに演じることができる。だが、果たしてそんなものが信用されるだろうか。「秘密」の氾濫。それが「秘密」の衰退を招いたのだ。
 東浩紀のこんな言葉、「物語が成立しない、あるいはむしろあまりにもたやすく成立してしまう「データーベース消費」的な環境において」*7を、われわれは「秘密が成立しない、あるいはむしろあまりにもたやすく成立してしまう」というふうにパラフレーズさせてみることも可能だろう。だが、このとき「データーベース消費」とは一体なんだろうか。
 「データーベース消費」。この概念は東浩紀が、大塚英志の「物語消費」という概念がもはや現代を言い当てていないのではないかと考えた末に生まれたものだ。
 物語消費とは何か。大塚英志は、とくにビックリマンシールを取り上げる。ここではさまざまなキャラクターとその紹介文が書かれたシールを、それらが徐々に明らかにする物語のために愛好し収集する。
 だが、東浩紀は現代においてキャラクターはもはや物語から遊離して受容されているのではないか、とみる。そして、物語消費における虚構の物語がかつて人々の生を支えた「大きな物語」の代用品であったとみて、そうした物語さえ必要なくなった現代のオタクに「動物化」をみる。
 さて、東浩紀の言説のさまざまな点に反対した人物に、宇野常寛がいる。彼は『ゼロ年代の想像力』のなかでこの物語から遊離したキャラクターという考えについても反論をしている。彼はまずキャラクターと物語は独立したものとして存在しえないのではないか、とみる。「キャラクターとはその設定を承認してくれる共同性=物語を必要とするもので、独立しては存在し得ないのだ。」「キャラクターとは、小さな物語(人間関係)の中で与えられた位置=役割のようなものにすぎないことがわかる。」*8、彼はこの点を強調する。データーベースから属性といったものを組み合わせただけでキャラクターは生まれない。また、キャラクターを用いた二次創作でも、物語は再強化されているのであり、そうして生まれた物語のもとに小さな共同体が生まれているだけではないか。解釈の違いで争うファンたちをみるといい。
 納得できる批判である。だが、少々受け入れがたい。というのも、東浩紀は、本当にキャラクターと物語が遊離している例をあげているからだ。たとえば、『エヴァンゲリオン』のキャラクターは「キャラ萌え」の対象になって、その元の物語からまったく遊離したどこかの学園の生徒になって愛でられる。それどころか、一九九八年に誕生した「デ・ジ・キャラット」に至っては、もともと物語さえない。このような実例について思いだすと、キャラクターと物語の不可分性については容易に首肯できない。とはいえ、物語から完全に切り離されたキャラクターというのも、考えにくいものではあるのだが。
 そう、キャラクターは背後に物語を隠している。このことを隠されている「物語」に重心を置いて理解するならば、それは物語消費論と似たものになるだろう。だが、私が強調したいのはこの「隠している」ということ「秘めている」ということ、つまりは「秘密」というポイントである。キャラクターは物語を隠している「秘密」において人を惹きつける。
 データーベース消費もそうしたものとして再解釈が可能だろう。柳父章が示したように、漢字という文字が、そのくねくねとした不可解な形によって人を惹きつけるように、キャラクターも、その不可解なふるまい、形姿、東浩紀の表現に従えば「萌え要素」によって、人を惹きつける。へんなはなしだが、ここではキャラクターはチャイニーズキャラクターと相似しているのだ。漢字は、その意味体系という物語をこえて人を惹きつける。(漢字を愛好する者はオタクが萌え要素について語るように部首について語ることができるのではなかろうか。なお、私は「しんにょう」が最美だと思うが、「くさかんむり」の衒いのない素朴な完成度も捨てがたいと思っている。)
 キャラクターとそのさまざまな属性は、物語の連環とからまりあっているが、同時にはなれている。キャラクターは、物語のつながりのなかで存在するが、しかし、キャラクターの魅力は、物語からはなれてたところでも存在する。その魅力は、物語にではなく、物語を隠しているところ、その「秘密」にこそ、あるのである。その物語には、そのキャラクターのほのめかす過去・来歴もふくまれるが、しかし、このキャラクターならこんな物語をつむぐだろうという期待もふくまれる。キャラクターとは、喩えていえば植物の種か芽のようなもので、その小さな体に、すべての花とすべての果実、ありうる物語のすべてを萌しているのである。
 この「萌している」ということを、単なる二次創作の潜勢態と考えてはならない。それは何らかの二次創作を生み出すことにおいて人を惹きつけるのではない。「秘密」とは、村上裕一が「東浩紀がデーターベース論として語るように、消費者(オタク)は常に二次創作のシステムを幻視しているということになるだろう。だが、その見立てではキャラクターの可能性の中心を取り逃してしまう」*9と言って見つめようとした「キャラクターが持つ本質的で魔術的なフェティシュ」*10なのだ。
 「包帯」や「眼帯」もそうした物語を隠している「秘密」として、中二病患者をこういって良ければ「萌え」させる。重要なのは、この「秘密」である。
 物語について言われたことは、「秘密」という概念において再解釈が可能だろう。大きな物語の支配と呼ばれる出来事も、末端においてはさまざまな「秘密」の支配であったに違いない。キリスト教という大きな物語は、しかしたとえばどこかの鄙びた農村では、十字架や聖体パン、聖遺物にラテン語の祈祷、神父のおごそかなたたずまいといった「秘密」において人々の生活を支配したはずだ。「物語」というが、その物語全体を見渡すという事業は誰にでも可能なことではない。多くの人はただ、その断片に舶来的に――あるいはこういって良ければ「郵便的」に――めぐりあうのである。
 「秘密」は「物語」が衰退しても即座には滅びない。十字架は、キリスト教においてイエスの生涯のクライマックスに登場する装置だが、しかしそうした物語が支配力を失っても、たとえばどこかの新興宗教のなかで再び神秘的な意味を背負わされもするし、それどころかいかなる物語も背負わずにアクセサリーの意匠として生き延びさえする。
 さて、このように「秘密」「よく分からないもの」に過剰な魅力を感じるわれわれは果たして「動物」だろうか。物語の重みを背負っていなかったとしても、この「過剰を孕んだ存在」(浅田彰)はどうしようもなく人間的と言うべきではないだろうか。
 「秘密」の衰退、と私が言うのは、もはや「秘密」が必要なくなるという意味での衰退ではない。「物語」の衰退が「物語」の氾濫でもあるような意味における、「「秘密」の衰退」である。ここでは個々の「秘密」は根拠を失い、いくらでも疑いようのあるものになってしまっている。そして、こんな状況で中学二年生が演ずる「秘密」など滑稽なばかりであるし、ネットの有象無象がブログやら何やらで演出する「秘密」など馬鹿馬鹿しいとしか言えないだろう。
 原理上、人はネットにおいてどんな姿を自分に与えることも可能である。どんなおごそかな「秘密」、どんな盛りだくさんな設定を自分に付与することも可能であり、どんな完璧なイケメンになることも不可能ではない。そして、その全てがもはや信用ならない。
 あらゆる完璧さが信用を失うとき、人はむしろ一点の曇りを求めるのではないか。ここで私は「残念なイケメン」「残念な美少女」といったさやわかの見出したあの「残念」の思想を思い出す。しかし、「残念」なるものは、われわれがこれまで見てきたインターネットのコミュニケーションにおいていかなる位置を占めていただろうか。

*1 柳父章『翻訳の思想 自然とNATURA』(ちくま学芸文庫)、105頁。
*2 柳父章『翻訳語成立事情』(岩波新書)、46~47頁。
*3 同上書、85頁。
*4 柳父章『「秘」の思想 日本文化のオモテとウラ』(法政大学出版局)、8頁。
*5 同上書、17頁。
*6 同上書、18頁。
*7 東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生』(講談社現代新書)、26頁。
*8 宇野常寛『ゼロ年代の想像力』(早川書房)、44頁。
*9 村上裕一『ゴーストの条件 クラウドを巡礼する想像力』(講談社BOX)、10頁。
*10 同上書、9頁。


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