ネットサンガの夢(あるいは悪夢) 【佐々木閑著『ネットカルマ』書評】
『ネットカルマ 邪悪なバーチャル世界からの脱出』(角川新書)。
仏教学者佐々木閑によって二〇一八年に出版されたこの本は仏教とネット炎上という一風変わったとりあわせをあつかっている。
「生老病死インターネット」なる言葉までとびだす本書で「仏教」「ネット炎上」の二つを並べることを可能にするのが、表題にもある「ネットカルマ」という概念である。それは次のようなものだ。
まずカルマのシステムがある。
第一原則:人がおこなった善悪の行為は、すべて洩れなく記録されていく。
第二原則:記録された善悪の行為は、カルマという潜在的エネルギーとなって保存され、いつか必ず、なんらかのかたちで、当の本人にその果をもたらす。
第三原則:カルマのエネルギーがその果をもたらす場合、それがどのようなかたちでもたらされるかは予測不可能であり、原因となる善悪の行為から、その結果を推測することはできない。
ここにネットカルマのシステムが加わる。
第四原則:本来のカルマのシステムでは、カルマの報いはその人のやったことに応じて過不足なく降りかかるものだったが、ネットカルマの場合人々の様々な思惑が介在するので、過剰な報い、場合によってはやってもいないことの報いを受けることになる。
第五原則:本来のカルマのシステムでは、一回の原因に対して一回の結果が生まれそれによってカルマのエネルギーは相殺され消滅する。だが、インターネットでは記録を完全に消去することができず、そのため「忘れてもらえない」。数年たって、過去の炎上が再燃することもありうるし、世代をまたいでその子孫が影響を受けることもありえる(当人の行いの報いを当人が受ける、という本来のカルマのシステムではありえないこと)。
ブッダはかつて、カルマのシステムに縛られ輪廻を繰り返す人間の姿に苦を見出し、そこから脱出することをもとめた。よって、現代のネットカルマのシステムから脱け出す知恵を、我々はブッダにもとめることができる。以上が本書のおおまかな内容である。
さて、そもそも佐々木閑はカルマのシステムというものを信じてはいなかった。善いことをして必ず善い報いが来るとは限らないし、悪いことをして必ず悪い報いが来るとも限らない。なんだかんだいって、現実とはそういうものだ。誰の目にもつかないように悪いことをして、その罰もうけずにのうのうと生きている人など、この世にはいくらでもいる。ブッダのカルマ思想は、ただ彼が当時のインドの文化的限界を脱しえなかったということにすぎない。
だが、その考えを崩したのが、二〇一六年の「パナマ文書事件」だった、と彼は言う。数多くの企業と個人の脱税行為を暴露したこの事件によって、彼は「誰の目にもつかない」ということがもはや不可能な世界が技術的に実現しつつあるのではないか、と考えるにいたるのだ。
監視カメラやドライブレコーダー、IoT家電がつねに我々を監視している。あるいは、道端ですれちがった誰かが我々を盗撮してネットに上げることも考えられる。そしてそのように集積された情報は本人についてまわり、いつか必ずその結果をもたらす。かつて古代インドで考えられていたカルマのシステムは、現代社会においてネットカルマのシステムとして技術的に実現する。
こうして人は新しい苦に直面する。生老病死インターネット。
ブッダはカルマ思想のただなかでこう考えた。カルマのシステムは結局のところ人間を不幸にする、と。善行に善果が、悪行に悪果がもたらされ、楽な生活や苦しい生活が得られる。しかし、そのような世俗的な苦楽のために世俗的善悪にかかずらったところで、得られる苦楽は一時的なもの、ただ我々は世俗事に追われ汲々とするほかない。それゆえ、本当の善とはこのようなカルマのシステムから我々を脱け出さしめるような行為である。
そして、佐々木閑は彼の思想を現代のネット社会に敷衍する。
「ネットこそが自分の幸福の根源だ」と考えて、そこにどっぷり浸かっている人が、そのネットのマイナス作用によって恐ろしい目に遭い、初めてそこからの離脱を望むようになる、そのプロセスは、輪廻世界での世俗の幸福を求めてあくせくしていた人が、その輪廻における「生きる苦しみ」を実感することで初めて、輪廻からの解脱を望み、仏教に救いを求めるようになる状況と非常によく似ています。輪廻世界=ネット社会という構図で考えると、実態がよく見えてくるのです。
ネット上での評価を、本質的な「苦」や「楽」であると考えてしまうと、このようにうたかたの現象にしがみついて苦悩し、鬱々として一生を過ごさざるを得なくなります。たとえそれが一見、「楽」をもたらすように思える行為であっても、「ネットの価値観にその人を一層縛り付けることになる」という意味で、本当は「悪」なのです。(同書、97p)
さて、しかし「ネットからの離脱」といってもネットを断ち切ってそれですべてが完了するほど物事は簡単ではない。ネットは、もはや我々の生活に必要不可欠であり、また個人的にネット断ちをしたところでネットとの関係がなくなるわけでもない。そこで佐々木閑は我々の歩むべき道を「ネットとの関係は維持しながらも、そのネットの価値観から離れた、自己鍛錬に人生の生き甲斐を見いだすことのできる道」(同書、99p)とする。
しかし、そのような道にどのように入ることができるだろうか。
佐々木閑は煩悩の消し方の三ステップ、戒・定・慧の対ネットカルマバージョンを提示する。
戒:生活を正しく律して生きること。慎重に裏表なく行動すること。日常生活のあらゆるところで自己を規制しネットカルマの餌食になるような言動を慎むこと。
定:自分の心的状態を正しく知り、そして自分を望むとおりに改良していくためのパワーを生むステップ。ネットからの情報にいちいち振り回されることなく、心を固く引き締めて情報と真っ直ぐ向き合う「落ち着き」を手に入れること。
慧:定のパワーを基盤として、自己が進むべき道筋を明確に見抜く力。ネットの呪縛から解き放たれて、個々人、一人ひとりの価値観にもとづく安心の道を積極的に進むことができるようになること。
***
私は基本的には賛成である。ネットカルマの世界が訪れつつあるということも、そして対ネットカルマ版戒定慧が重要になるということも。ただ、私がただちに賛成しかねるのは、そのための彼の示す具体的な方策だ。彼の示す方策、それはネットサンガである。
対ネットカルマ版戒定慧。そのいずれのステップもやすやすと実現できるものではない、ということはすぐに気付くことだろう。そのもととなる仏教における戒定慧も個人の力ですぐに得られるものではなかった。ではブッダはどうしたか。共に苦しむ者が共に集まって修行する、これである。
ですから、同じ問題に直面している現代のネットカルマの世界においても、共通の苦しみを抱えた仲間が共に暮らすということには大変大きな意義があります。当然、ブッダの時代と現代では生活形態も違いますから、「共に暮らす」と言っても、同じ場所に集まって共同生活を送る必要などありません。
皮肉なことですが、多くの人を苦しめるインターネットが、この場合は最良の助け船となります。遠く離れていても、ネットカルマで苦しむ人たちがそのネットを使って連絡を取り合うことで、現代的サンガを作り、協力し合って苦しみから心を守るための修練方法を次第に向上させていくという状況があり得るのです。(同書、109ー110p)
ネットサンガというアイデア。しかし私は彼と同じくらい楽観的になれない。「1ch. tv騒動」を思いだしてほしい。
「人にやさしい」インターネットを夢見た掲示板があれほど好奇と揶揄の視線に晒された。ネット上に「炎上当事者だけで構成されたネットコミュニティ」なるものが出現したとして、それが冷やかしと嘲笑のコンテンツとして消費されるだろうことは目に見えている。
しかしそのような外部の状況だけではない。ネットの苦しみをその身に刻まれた人々にネットへの憎悪がないわけがない。1ch. tvでそのスタッフらが憎悪にますます身を焦がしていったように、ネットサンガにおいても同様にネットへの憎悪がエコーチェンバー効果的に増幅され尖鋭化されてゆくのではないか。
「協力し合って苦しみから心を守るための修練方法を次第に向上させていく」ための冷静で理想的なネットコミュニティははたして生まれうるだろうか。
佐々木閑は言う。
もしネットで傷ついた人が集まるサンガができたとすれば、いの一番に規範となるのがこの言葉でしょう。
「他人の間違いに目を向けるな。
ただ自分のおこないだけを見つめよ」
ネット時代に最もふさわしい、気高い言葉だと思います。(同書、157p)
しかし私はそこまで楽観的にはなれない。
もっとも、「ネットサンガの登場」を彼の希望ではなく彼の予言としてみるならば、ことによるとそれは当たるかもしれない。つまり、「ネットによる苦しみが広く知られてゆくなかで、そうしたネットで苦しむ人たちがコミュニティをつくるのは当然起こりうる」という予言として彼の記述を読むならば。
さて、私はここで当たらないことを祈願して一つの予言をしてみよう。
20XX年、弁護士業のあまりふるわなくなった「唐澤貴洋」は本格的に「ネットリンチ被害者」業に手をつける選択をする(この人物については先程あげた記事を読んでほしい)。彼はかつてある仏教学者のしたためたアイデアを用いてネットリンチ被害者のコミュニティを創設し、そのコミュニティの「尊師」として君臨する。
さまざまな件でさまざまに炎上したあらゆる炎上当事者が彼のもとに集結する。彼らはそのさまざまな技能(煽りや荒らし)を活かし、悪いものたちに「聖戦」を挑む。
対する「恒心教徒」らはその一連の流れにより一層活性化、またそのコミュニティに集った他の炎上当事者のさまざまな「アンチ」まで彼らに合流し、おそるべき大同連合を結成する。過激化する行動。暴動なみにふくれあがる「けんま民」。
ネットカルマの超克を謳いつつ、その実自分を罵倒した人に「一生十字架を背負わせる」ことに執念を燃やし、それを可能にする制度を施行することで実質ネットカルマのシステムを激化しようとする「尊師」にこのままついていってよいのか。それなりの理由で、ある人を批判する立場にいたったものの、このままこの大同連合のお祭り騒ぎに乗っかってよいのか。
さまざまな問いを孕みながらも、あらゆるところに飛び火し、あらゆるところを焼け野原にしたこの一連の騒動を、後に人々はこう呼ぶ。
――「インターネット・ラグナロク」と。
・・・・・・いやいやそんな馬鹿な。
***
とはいえ、それなら我々はどうしたらよいのか。ネットサンガを拒否しようがどうしようが、我々にはその問いが残される。今の私にはネットサンガに代わるような社会的な取り組みを思いつくことができない。ただ、対ネットカルマ版戒定慧をこころがけるように気をつけるだけだ。そして、佐々木閑の提示する方策のなかでただ一つ納得できる「子供たちにネットの負の側面を教える」に賛同するだけだ。
だが私にはもう一つできることがある。それはこの「ネットカルマ」なるものについてさらに考えを深めることである。
そもそもネットカルマという概念は古代インドのカルマ思想をもとにしている。佐々木閑は、これを単に古代インドの文化的背景として、この思想をブッダが採用しているのも単に文化的制限の上でしかないと捉えているようである。だが、文化的背景、文化的制限なるものは、その根底においてその文化に生きる人々の心性に根ざしているはずである。我々は単に文化から制限を受けているだけでなく、文化を生み出してもいるのだ。
だから、ネットカルマの必然性を問う前に、そもそもカルマの必然性を問うべきだ。
もちろん、カルマは夢物語だと言い切ってしまうことができる。世に悪事を働いた者が大路を歩くことなどありふれている。しかし、問われるべき必然性とはそのような夢物語の出現しなければならなかった必然性である。
そうすると、容易に気付くはずだ。カルマ思想が誕生したのは、要するに「善は報われ悪は裁かれるべきである」という我々の切なる願いによる、ということに。
そして、そのことからネットカルマの必然性も見えてくる。インターネットで他者の悪事を見ることのできるようになった人々はかねてからの願いを実行する。それは裁くことである。
エドマンド・バークは言った。
The only thing necessary for the triumph of evil is for good men to do nothing.(悪が勝利するために必要なただ一つのことは善良な人々がなにもしないことである。)
こうして我々は善意をもって地獄への道を舗装することにいそしむ。
必要なことは「悪を裁く」という「煩悩」から解放されることだ。しかし、悪を裁かないこととは結局、悪の勝利に力を貸す以外の何物でもないのではないか。だがそのように考えて「「「悪を裁く」という「煩悩」」を裁かないこと」はまさにネットカルマの世界の勝利に力を貸すことなのではないか。
今の私にはこの先を考えすすめることはできない。ただ私にできる最後の一つのことは、この記事を公開することで誰かの思考の役に立つことを願うだけである。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?