ひとりを推さない。『関係』推しこそサステナブルかも
あなたの『推し』はだれですか?
わたしは『推しのひと』はいない。『推しのキャラ』もいない。どうしてひとやキャラクターをまるっと推せないのか。かんがえてみたい。
推し寸前のひととキャラ
毎週かかさず読むコミックの著者はみんなすごい。『ダンダダン』も『宇宙兄弟』も自分にはつくれない。創造力にかかさず驚嘆する。『のだめカンタービレ』の野田恵のユニークさも、『違国日記』の笠町信吾の弱さを見せられる強さも尊敬できる。
けど、ひとは変わる。ヤマシタトモコさんの『さんかく窓の外側は夜』はすばらしいけど昔の作品をすべて推せるかはわからないし、これからもそう。ヤマシタさんのインタビュー本『ほんとうのことは誰にも言いたくない』をよんだりして創作の裏側にある考えをしると、ぐぐっと推しに近くなる。
いっぽうでキャラクターは変わらない。ムッタはムッタでかわらずそこにいてくれる。変な音で牛乳を飲むところも、魅力はそのまま保存される。理想的な世界と現実とは接続しないし、ムッタには会えない。
おすすめとファン。萌えと推し
Amazonはおすすめの本をおしえてくれる。おすすめは受け取り手がいて、おすすめを購入したり、おすすめの場所にいくことを促してくる圧がある。ファンは熱狂的(fanatic)。好きな相手に強く強くハマっていて、そこにもなんだか周りを傷つけそうなエネルギーを感じてしまう。その点、「推し」は無害だ。
推しには遠くから眺めながらこころのなかで応援するような節度がある。『俺の嫁』のように相手をじぶんのものにしようなんて恐れ多い。周りの人たちが推しを推してくれると嬉しいけど、推してくれなくてもいい、というオープンなじぶんごとになっている。
推しは推せるときに推す
推しがいるといろんな欲求がみたされる。推しのグッズを集めて満足したり(獲得欲求+保存欲求)、推し活で話し相手を見つけたり(親和欲求+認知欲求)、推しに詳しくなって自信がもてたり(優越欲求+承認欲求)、推しと同じような考え方をするようになったり(同化欲求+服従欲求)。
けれど「推しが萌えた。ファンを殴ったらしい(『推し、燃ゆ』)」といったような事件があると推しを推せなくなる日がくる。それは蛙化する瞬間があって幻滅するからかもしれないし、テレビやSNSでの発信をやめてしまって推しに会えなくなるからかもしれません。
推しのひと(やキャラ)を中心とした欲求充足システムは、推しの不在でいっきに解体される。いつかいなくなるかもしれない推しを推すというのは、なんとも切ないものですね。。
『関係を推す』という健全な推し活
ひとやキャラはいなくなる。推してるだけのつもりが独占したい欲求がでてきたり、理想化しすぎて現実社会が悪しきものにみえてきたり。ひとはキャラには推し活を不健全にする罠がある。さてどうしたものか。。
ヤマシタさんは、違国日記以前は数多くのBL作品をだしています。たとえば『ジュテーム、カフェ・ノワール』のラ・カンパネラについて質問されたときの回答に、健全な推しのヒントがありました。
特定のキャラに心酔せず、間にある関係性を推す。関係はどこにでもあるもので、それはちょっとしたやりとりで垣間みれるもの。
ひとつの同じ作品でも推せるシーンは読むときによって変わってくる。その変わらなさも移ろいもいい。共感してくれる人が見つかるとテンションあがるし、その解釈で論争することもたぶんない。
さいごに本の推し活のお知らせ
関係を推すのにぴったりな推し本10冊で語り合うBOOK BARというイベントを一乗寺ブックアパートメントをお借りして毎月土曜夜に開催しています。
平和でたのしい本の推し活に、どこでも参加できる社会になりますように。