25歳と流れ星
25歳になりました。
苦しかった24歳
24歳の1年間は、振り返るともがいている時間が多かったように思います。
24歳になった時は、“現状維持したい”が私にとっての切実な願いでした。
仕事量も適切で、大好きだった彼氏がいて、実家がとても温かくて家族とも仲良くて。地元の良さにも気づいて。
ずっと当時の部署で仕事を続けたくて、彼とずっと一緒にいたくて、家を出たくなかったし、地元を離れたくありませんでした。
ところがちょうど1月ごろから仕事量が急増し、業務負荷が増えました。現状維持したいどころか、身体の悲鳴を何度も聞きました。
心より先に身体が壊れるってあるんだなぁと実感しました。
仕事が終わらないことが辛くて泣きながらオフィスの隅っこで仕事をしていた日、電話越しに泣いていることがバレないように声を押し殺した上司との電話、こっそり沢山泣いた帰りの電車。(書いてると自分でも引く)
それでも、欧州営業という仕事が好きでした。
続けるためにはどうしたらいいか、常にその問いと向き合って乗り越えていました。
ずっとずっと、見えない何かと戦っていました。
そしてちょうどその頃、好きだった彼と割と急にお別れしました。好きな人と別れることを決断する、あの辛さはもう一生味わいたくないです。
そして4月の欧州出張を機に、本格的に駐在について迷い始めました。
沢山迷いました。でもどうしても答えが出せなかったです。
いきなり駐在に手を挙げる覚悟が持てなかったです。
日本にいたいのに、なんで海外駐在を諦めきれないのかが分からなかったです。
毎日悩み、「もう答えは出てるんじゃないの?」と春の夜に言われた時は本当に苦しかったです。
なんか苦しい記事でごめんなさい。
6月下旬。唐突に海外研修の公募が始まりました。あらゆる覚悟を決めて応募しました。
絶対にヨーロッパに行きたかったです。
もし今選考に通ったら、神様が行けって言ってるんだって思いました。
そして無事に8月下旬にドイツ支社に内示をいただきました。
その後も11月まで渡航準備と引き継ぎと仕事で死にそうでした(笑)
そして11月からはドイツで一人暮らしを始め、ドイツ支社で働き始め、12月にドイツで誕生日を迎えました。
“現状維持したい”と願ってたのに、原型が跡形もありません(笑)人生だなぁという感じです。
親友には、「あこの状況が変わりすぎてやばい。」と言われました。
自分で答えを出して覚悟を決めて進む。
そんな機会が本当に多かった24歳だったのだと思います。
等身大で生きられた24歳の最後の1ヶ月
そしてここからが本題ですが、ドイツに来て1ヶ月。
ようやく迷路から抜け出せたように、パッと視界が明るくなった気持ちです。
雰囲気が変わったと、元直属の上司と1ヶ月ぶりにビデオ会議でお会いした時に言われました。
母にも、週1回ビデオ通話をするたびに雰囲気がどんどん自然になっていくと言われました。(弟には誰かわからなかった!とビビられましたが、そんなことある?)
等身大の自分でいるんだろうなと思います。
今は誰かの言葉ではなく、自分の言葉で仕事をしています。
絵を描くことも、写真を撮ることも、英語が好きなことも。「宝の宝庫だね」と言ってくれた方に出会いました。
行きたいこと、やりたいことを考える、そのための心の余白がある。
自分が持っている世界は、自分が思っていたよりもずっとカラフルでした。
自分で望んだ道を、自分の足で歩けることは何よりも幸せで恵まれていることです。
でも、時には1人だけじゃ歩けないから、周りの多くの力を借りてしまうこともあるけど。少しずつお返ししていける人になりたいです。
流れ星をみたときに
有名な言葉があります。
“なぜ流れ星を見た瞬間に願いを唱えると夢がかなうのか?それは流れ星を見た一瞬ですら、瞬間的に言葉が出てくるくらいの強烈な夢への想いを持っているからです。”
このままドイツに駐在したいです。
もっとやればよかった、その後悔をしたくないから、1年間で結果を出せるように頑張ります。
海外に生きる20代でありたいです。
そのための覚悟は全てあります。
母が最近ちょくちょく言ってきます。
「なんか物語を紡いでいる途中みたいだね」と。
20代はそんな風に生きたいと願っているので、言われるたびに嬉しく思います。
「若い時の一年は3年分ぐらいの経験できるパワーがあるみたいだよ。たくさんいろんな人や景色、味、仕事と出会ってね」
今、一番言ってもらいたい言葉でした。
この1年は、好きな土地で3年分思いっきり生きてやります。
誕生日に虹を見れました!ラッキーな一年になりそう✌️
読んでくださり、ありがとうございます!
あこ