Cinema Review1 映画史を塗り替えるモンスター級プロジェクトの怪作『DAU.ナターシャ』
セルクルルージュのHPでは、これまで気になる映画を複数の視点から考察する座談会=Cinema Discussionシリーズを、34回に渡って、続けてきました。
この度もう少し気軽に、数多く映画をご紹介出来るようにする為に、こちらのNOTEページを中心に、CINEMA REVIEWという新企画をスタートさせます。
これは、それぞれが好きなように、作品のレビューを書いていくという手法です。
きっちり目線を合わせて構成する座談会と違い、視点もフォーカスする部分もずれてくると思いますが、それはそれで面白さがあると考えています。
また今後はメディアの数を増やして、更にマルチアングルで映画を考えていく予定ですので、お付き合い頂けますよう、よろしくお願い致します。
その第1弾は、大国ロシアの怪物プロジェクト『DAU.ナターシャ』です。
以下はプレスシートからの引用です。
オーディション人数約40万人、衣装4万着、欧州最大1万2千平米のセット、
主要キャスト400人、エキストラ1万人、制作年数15年……
「ソ連全体主義」の社会を完全再現した狂気のプロジェクト!
第70回ベルリン映画祭において、あまりにも衝撃的なバイオレンスとエロティックな描写が物議を醸し賛否の嵐が吹き荒れながらも、映画史上初の試みともいえる異次元レベルの構想と高い芸術性が評価され、第70回ベルリン映画祭で銀熊賞(芸術貢献賞)を受賞。
ロシアの奇才イリヤ・フルジャノフスキーは処女作『4』が各国の映画祭で絶賛を浴びると、「史上最も狂った映画撮影」と呼ばれた本プロジェクトに着手。それは、いまや忘れられつつある「ソヴィエト連邦」の記憶を呼び起こすために、「ソ連全体主義」の社会を完全に再現するという前代未聞の試みだった。
今回は映画評論家川口敦子と、川野正雄の二人のレビューになります。
★川野正雄
出来るだけ予備知識なく、いつも映画を見る事にしている。
先入観無く見て、ファーストインプレッションを大事にしたいからだ。
とんでもない映画を見た。それが『DAU.ナターシャ』の率直な感想である。
ともかく今までの映画とは違う。
その違いを言葉で説明しようとすると、陳腐な表現になってしまい、作品に相応しくなくなってしまいそうだ
わかったのは、これがまだ序章に過ぎないという事だけである。
この映画は音楽もなく、何の説明もない。
ほとんどの場面が、秘密研究所のカフェで展開される。
唐突に始まるが、難攻不落な芸術映画とは違い、開始早々短時間に、不思議な映画の世界観に引きずり込まれる。
映画を鑑賞しているというより、映画の中に入り込み、フィジカルに体験しているといった感覚に近い。
それは見ながら、いくばくかの苦痛やストレスや恐怖を感じたからかもしれない。
そして全編を覆う奇妙な不安感は、映画の体験とは、違う感覚のものであった。
通常のドラマから得る感動や興奮、ドキュメンタリーから得る共感性とは違った類の感情である。
観賞後資料を見て、1952~54年のソ連を完璧な形で再現していると知った。
映画のプロジェクトが開始したのが2006年。14年を経て、2020年のベルリン映画祭で上映され、賛否両論の中、銀熊賞を受賞している。
撮影期間は40ヶ月、主要キャスト400名、衣装4万着。ヨーロッパ最大のロケセットが組まれ、役者もスタッフも、当時のソ連の生活様式のままの共同生活をし、1950年代のソ連が正確に再現されている。
正に物量で圧倒する大国ロシア(ソ連)。スケールで制圧するのは、ロシアの伝統的な手法だろう。
しかしこの映画には、圧倒的なスケールだけではなく、芸術性とアヴァンギャルドな挑戦が根底に流れている。それは多分今までのロシアにはなかったテーマだ。。
映画の中で出演者が見せるものは、芝居ではない。その時、その場所で、出演者一人一人が、役柄を演じるのではなく、役柄そのものの生き方や感情の表現なのだ。
それは歴史ドキュメンタリーでもなければ、歴史ドラマでもない。
あえて言うなら、旧ソ連における社会と科学の関係性を実験的に再現した歴史シミュレーションである。
この映画のプロジェクトがスタートした時期と同じ頃、2007年モスクワのモスフィルムスタジオを訪問した事がある。ヨーロッパ最大の映画撮影スタジオと言われていたが、全く人気がなく、突然大雨が降ってきて、受付も無人という状況で、とても不安を感じた。
電話をかけ、ようやく中に入る事ができ、アポイントも確認する事が出来たのだが、その時感じた不安感と、この映画に漂う不安感は、同じ質に思える。
モススタジオには、撮影所としての歴史が展示されていた。ロシア映画には門外漢の為、『戦争と平和』とエイゼンシュテインの『戦艦ポチョムキン』以外は知っている作品はなかった。
撮影所は広大だったが、その日は1箇所しか撮影をしておらず、人気もほとんどなく、閑散としていた。オーケストラの機材設備を備えたサウンドステージなど見所も多くあった。
どこもとても綺麗に清掃されているが、冷たく無機質な空気感であった。強いていうと、この映画で尋問に使われる部屋に似た雰囲気である。
同じ年にバーバンクのソニー・ピクチャーズのスタジオも訪問したのだが、そこはモスフィルムスタジオとは、真逆のエモーショナルな空域感が満ち溢れており、明らかな米国とロシアの文化の違いを感じた事を記憶している。
モスフィルムは100年の歴史があり、旧ソ連時代も通過しており、『DAU.ナターシャ』で描かれている時代には、映像表現という観点から、同じように政府に管理されていたのかもしれない。
時代は変わっても、流れている歴史の空気感は、変わらず、スタジオは多くの真実を通過してきたのだろう。
『DAU.ナターシャ』は、撮影したフッテージが700時間を超えるという。
2019年パリのポンビドゥーセンターとシャトレ座で開催された展覧会では、ビザと携帯電話の提出が必要で、外界と隔離された状態での鑑賞により、1950年代のソ連をフィジカルに体験する事が出来たようだ。
少し見たフッテージはロシア語で内容はわからないが、当時のソ連の生活が再現されていた。展覧会らしい物販コーナーでは、当時の無機質な食器のレプリカなどが並んで販売されていた。映画の衣装も同様だが、機能主義オンリーでデザインされたものは、それなりに美しい。
昨年のベルリン映画祭では、2本の作品が上映されたが、監督が希望したインスタレーションは中止されたという。一体何をインスタレーションでやりたかったのか、気になるところである。
『DAU.ナターシャ』を見て、これはナターシャが主役の映画と思ったが、そうではなく、各作品にそれぞれ主要な登場人物がおり、それが約400人になるのだ。
劇場用映画は既に15本が完成し、昨年から数年間で世界の映画祭を回る予定だったが、コロナの影響で映画祭サーキットは中止になったようだ。
自分としては、最後まで見逃す事なく、追いかけて行きたい。いや追いかけていかないといけない作品である。
今後劇場で見る機会が生まれる事を願ってやまない。
尚日本の法的規制で、100%完全な状態で作品を見れなかった事について、作品の本質に関わる部分でもあり、大変残念であった事を言っておきたい。
芸術の領域に入る作品であり、今後公開される作品が、100%の描写で見れる事を願ってやまない。
『DAU.ナターシャ』は、映画の概念を変えていく可能性のある作品なのだから。
余談だが、映画における歴史の再現という手法で、映画製作をしようとした日本人の監督がいる、
黒澤明監督である。フォックスの依頼で監督をすることになった作品『トラ・トラ・トラ』である。
黒澤監督は経済人など一般人を日本海軍首脳にキャスティング。
何故か東映京都だったスタジオ入りも、海軍の制服を着て入らせる徹底した指示で、完璧な歴史の再現に挑んだ。
残念ながら黒澤監督は、その完璧主義から様々なハレーションがフォックスとの間で起き、解任され、普通の映画に生まれ変わってしまった。
フォックスは三船敏郎さんが山本五十六を演じるような作品を望んでいたのだろう。
これは当時フォックスの日本側コーディネーターをしていた方から直接聞いた話なので、事実である。
黒澤明監督が出来なかった事を、ロシアでは実現されたのだ。
余談ながら黒澤の『デルス・ウザーラ』は、旧ソ連時代のモスフィルムスタジオで撮影されている。
★川口敦子
何なのこれは!?
2018年、Comme des Garçonsから届いたダイレクトメールを前にしてむくむくと湧き上がる好奇心と、ページを繰るごとに現われてくる正体不明のイメージたちの鬱蒼と怪しく危険な磁力に唖然としながら呟かずにはいられなかった。
確かに今年の映画作家クリス・マルケルに至るまで一年間、ひとりのアーティストをピックアップしてフィーチャーする同社の季節ごとの宣材、年数回送られてくる素敵にスリリングな小冊子の挑発性は常々、密かな愉しみとなっているのだけれど、あの年のあの選択には大袈裟でなくふるふると胸が高鳴った。
「DAU INSTIYUTE 1938-1952」と扉のページに付された名前には、不明にして覚えがなく、けれどもそこに差し出された建造物や人の顔、その衣裳と意匠のどれもこれもが鈍色の抑制と古めかしさの新しさ、不自由さゆえの奔放さ、得体の知れない不安や恐怖にも似た感触を纏って迫ってきて、差し挟まれた赤色のページに日英二か国語で記された「壮大な映画の試み」DAUなる一作を待望することになったのだった。
というわけでこの春、ついに日本公開が実現の『DAU/ナターシャ』――構想から15年、4年がかりで撮影された700時間に及ぶ35ミリフィルムのごくごく一端を垣間見て、無論、そこで辛抱強くみつめられるスターリン体制下ソ連の物理工学研究所、そのカフェテリアに働くもう若くはないウェイトレス ナターシャとその妹分オーリャのまさに姉妹然と愛憎あいまった関係、そのまずまずしげな食卓と酒浸りの会話以下、恐怖政治の下で坦々と続く毎日から理不尽に人を密告者に仕立て上げる体制の力の怖さまで、時代のリアルを再構築する果敢な試み(そこで囲い込まれた時空を実際に生きた演者/普通の人々の息遣い)の端々に、“映画(というもの)”を超えて歴史の向こうに透けて見える現在をこそ省察するプロジェクトとして好きも嫌いもうっちゃって圧倒され、されつつまずはComme des Garçonsとこのプロジェクトの関わりについて知りたいと、唐突な欲求に突き動かされた。
取材の結果、映画やその衣裳の制作に直接関わったわけではないこと、往時欧州スタッフの奨めがあってビジュアル使用の許諾をとり、Comme des Garçons独自のデザインを施して編んだ冊子であることが判明。勝手に濃密な関係を夢想した早飲み込みを恥じながら、でも――と、嚙み応えある実験精神に両者の結び目を見出したい強引な気持ちも抑え難くくすぶっている。
そういえば少し前のプラダのコレクションも発想源としていたようなロシア・アヴァンギャルド、芸術の革命を生活に採り入れた時代の尖鋭な実験精神にいち早く注目していたのがComme des Garçonsではなかったか。あるいは無難な着易さばかりを求める時代の風潮に毅然と逆らって、素材にも意匠にもアートの心を追究してきた創り手の、今どき稀な萎びない試みの姿勢を再確認してみれば、DAUという映画+インスタレーション作品に息づく不敵さが近しいものと思えたことにも納得がいく気がしてくる。
皮肉にも社会の革命と芸術のそれの蜜月時代に産み落とされた構成主義やシュプレマティズム、ジャンルを超えた詩や絵画や建築や衣類や家具や食器等々に迸った試みの意気を封じ込めたスターリンの粛清、抑圧――そんな全体主義の社会を完璧に再現するという、見ようによればみごとに反動的な時代に向けたDAUプロジェクトの監督イリヤ・フルジャノフスキーの眼差し。それを実験と呼べるのは、そこに今を透かし見て警告するしたたかな覚悟が感知されるからだろう。
リアルとは何か、演出と搾取との境界とは等々、様々に物議もかもした監督とプロジェクト、まずは自らの眼で、心身で体験してみることが肝心だと思う。
2月27日(土)よりシアター・イメージフォーラム、アップリンク吉祥寺 他全国公開(R18+)
©️PHENOMEN FILMS