「暴力では何も解決しない」⇨民主主義は暴力から始まったものです
川崎勤務時代、あれほど悩まされてきた手合いの1人が、まさか私が京都へ逃亡した後、奈良で終焉を迎えようとは思いもしなかったものです。
私のツイッターで相互している政治アカウントは野党支持者が多いですが、少なくとも私の周りや、幾つかのネガティブワードでツイートを検索した限りに於いて「安倍が死んで良かった」と言うツイートをする人は、あんまり見なかったですね。
建前か本音かはわかりませんが「死んで良かったなんて人間はいない」というツイートがよく見られ、内心では「民主主義(世論)の力で政治生命を断てなかった」ということが残念だったのでしょう。まぁ「君らの単なる正義中毒で世論を味方に付けるのは無理です」って言うのは、川崎勤務時代から言ってたことではあるんですけどね。
ただ、この事件を受けて与野党(とその支持者)共に、こんなことをよく口にするようになりました。
「暴力に屈しない!」
「これは民主主義に対する挑戦だ!」
「暴力では何も解決しない」
与野党双方からこんな言葉を聞きますが・・・。
「えーっとねぇ、民主主義っていつからそんなにお上品になったの?」と言いたくなることばかりです。
「暴力では何も解決しない」と言う間違い
まぁ日本人の価値観って結構儒教の影響を受けてますんで、お上にたて突くって発想はあまりありません。
また、良くも悪くも現行憲法9条は「日本人は喧嘩(暴力)が嫌いです」と定めてるようなものなので、暴力革命に対するアレルギーはあるでしょう。
「暴力では何も解決しない」
これはですね、ビジネスの世界では当然のことで、ビジネスの世界で暴力が通用しないのは万国共通です。労働の世界では運送・職人の世界じゃ暴力ありますけども、ビジネスの世界で暴力が通用することは無いです。
ただし、それはビジネス(商取引・経済活動)の中での話であり、ポリティカル(政治)の世界では当てはまりません。ましてや民主主義なんて本来は暴力と切って切り離せないものです。
歴史を見ても、政治の世界は暴力で解決されることがしばしばあります。
フランス革命からして暴力で解決している
形式の差はあれ、近代に民衆が王侯貴族から主権を奪取しようとする動きっていうのは、少なからず暴力革命が起きています。
代表的なフランス革命からして暴力によって解決したもので、パリの民衆はチュイルリー宮殿を「襲撃」しています。
ルイ16世やマリー・アントワネットなど、特段悪いことをしたわけではないのに断頭台行きでしたからね。
そのフランスでは最近だと、黄色いベスト運動がありました。フランスの選挙の投票率は日本より低いですが、デモや暴動は日本より盛んです。
そして黄色いベスト運動は実際に「暴力で解決した」一例とも言えます。
もちろん黄色いベスト運動の参加者全員が暴徒化したわけではありません。
暴徒にならなかった参加者の方が明らかに多いでしょうし、面白いことは政治デモが婚活の場をかねていたのがフランスの面白いところです。
実際に暴徒になったのは全体の一部であったとしても、暴徒は為政者に充分恐怖を与えるわけです。
民主主義なんて寧ろ暴力が隣り合わせ
民主主義って本来「お上品なもの」ではありません。
お上品な政治をしたいのであれば、中国式の方が向いているでしょう。
フランスのルペンなんて卵投げつけられてますし、日本だって最近は辻元清美が卵投げつけられたと話題になったでしょう?
「お上品な政治」を目指す場合、それは限りなく儒教的な価値観に近付きます。科挙試験というのも「バカな民衆はお勉強のできる偉い奴の言うこと聞けば良い」というような発想に基いてるわけで、乱暴な言い方すると「バカな民衆でも主権を持てる」というのが民主主義なわけですよ。
それ故、安倍晋三が凶弾に倒れた時は「人が死んで喜ぶなんて人間のやることじゃない!」と言いつつ、一方で辻元清美に卵を投げるなんてことができたりします。
民主主義ってそんなものです。
大半の国では民衆が権利を勝ち取ってきたのは戦い(暴力)によるものが大きいし、Tシャツにされるほど人気なチェ・ゲバラも、暴力革命の中に身を投じた人であります。
もちろん私自身は暴力的な手段で何かを解決したいとは一切思いません。それは別に大義のためとかじゃなくて、損得勘定によってそう判断しているだけです。
まぁ私自身は中高で虐めを受け、埼玉勤務時代は町工場や佐川のセンターで度々暴力を受け、あるいは佐川では暴力を振るってきた人間に対してコンテナを投げつけ、東京勤務時代には一時期暴力団のフロント企業に勤めては、川崎でまた5年ほど暴力と隣り合わせで生きるなど、人生の半分近くが暴力に関わって生きてきてますから、安倍晋三が凶弾に倒れたという、そのこと自体には何の感情も湧かないんですよね。
自分自身がマトモに平穏を過ごせた期間の方が少ないんで。
逆に私が死んだことで喜ぶ人間がいても全然構わないし(むしろ悲しむ人間より喜ぶ人間の方が多いでしょう)諸手を上げて万歳されても、死んだ後の私にそれを確認する術は無いです。
「暴力は絶対にダメだ!」
それは確かに「正しいこと」ですけど、それだけで終わって欲しくは無いんですよね。
政治家は直接的な暴力を振るわなくとも、たくさんの人の人生を左右出来るのですよ。与野党問わず、その自覚だけは再認識して欲しいんですよね。
細部だけ見てしまうと、オリンピックの新国立競技場建設では、過激な業務とパワハラに耐えかねて、若き現場監督が命を絶ちました。こんなことしてまで誘致するオリンピックだったのか、今でも疑問です。
「恨みがある特定の宗教団体(恐らく統一教会か日本会議でしょう)との繋がりがあると思い込んで殺害した」と言うのが山上容疑者の動機となってますが、妙に宗教団体が強くなったり、ナショナリズムが強くなった政権だったと思います。その裏で肩身の狭い思いをした人はたくさんいると思いますよ。
7年半、肩身の狭い思いをしてきた人は、それでも損得勘定に照らし合わせて黙々と生きるのがベストと判断して、目の前の仕事に打ち込んできたというのが実際なんじゃないかなと思いますね。
まぁ今回の事件が民主主義の持つ暴力的な側面と結び付けられるかに関しては、書いてる当の本人が疑問を持ってます。
幾つか相互さんのツイートを見ても、不審な点が確かにあります。
死因と外傷が一致してないという点から、山上容疑者が囮で、狙撃手が別途居たんじゃないかと言う指摘があって、確かにわけわからんなと言うのが率直なところです。
また、野党支持者が安倍晋三銃撃事件に対して「死んで良かった人間なんていない」というのも、森友事件で話題になった「赤木ファイル」の影響があるでしょう。
ところが安倍晋三は死んでしまったので、真相は闇の中となります。
ラサール石井が「このまま死なれたら安倍政権の(不正の)検証も出来なくなってしまう」と懸念してたことから、生存していて欲しかったところ、死んでしまったので森友も加計も桜を見る会も全てゲームセットとなります。
死因と外傷が一致しないという不審点が残ってたりして、ある意味で「政治不満が故の暴力なのか」すらが怪しく、むしろそっちの方が怖いかもしれませんね。