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#119 海岸のドビュッシーと肉体の夢

本日は6時50分起床。
寝覚めが悪く、起き上がるのに時間を要した。
睡眠の質が悪いのだろうか。あまり疲れがとれている感じがしない。
だが、健診などを受けても毎度問題ないようだし、神経質になることもあるまい。というわけで、あまり気にしないようにしている。こういうところは妙に楽観的なのが謎である。私の病気不安の傾向は、なんだか偏り過ぎてはいないだろうか。けったいなこころ。

起床後、久しぶりにドビュッシーのピアノ曲集を聴く(演奏はミシェル・ベロフだった)。
否、「聴く」というのは大袈裟だ。「曲を流す」が正解だろう。
私のnoteでドビュッシーの名を出すことがたまにあるのだが、その割にドビュッシーについて私は詳しくなかったりする。
率直に言って、彼の曲は集中して聴かないと真価を発揮しないような印象を受けた。
そういえば、ドビュッシーをなんとなく流すこと、アンビエント的に空間に漂わせることなど今まで経験したことが無かったことに気が付く。
結局、しっくりこなかったのでFederico Durandの作品に切り替えた。臨機応変というやつだ。
今朝流していた音楽のリンクは本記事の最後に貼っておくことにする。
是非チェックして頂きたい。

病気不安はかなり緩和されてきた。
このまま楽になれると良いのだが。神のみぞ知る。
神のみぞ知る(God Only Knows)といえば、ビーチボーイズをもっと聴いていきたいのだが、ずっと放置している現状を思い出す。いい加減にビーチボーイズ放置主義者を脱したい。これこそがレッセフェールの末路。惰性こそ我が主である。

植物は自ずと光に向かっていく。
もっと光を!
植物に比べて感覚が随分と乏しい人間は、経験の集合体に触れ、それを学ぶことでその貧弱さを補っているのだろう。
ということは、学ばない人間は生き残れないということか?
あるいはガラパゴス化を極めるしかない。草になれ。
だが、現世でできることなどたかが知れている。いま持っている資源=肉体で何が出来るのか。どこまでできるのか。
やはり、学ぶしかあるまい。

そういえば、今朝は変な夢を見たのだった。
夢の中の私は派遣社員のような感じで、工場だか倉庫だかは忘れてしまったが、そのような所に勤めていた。
その勤務最終日を迎えた私は簡易的なヘルメットを事務所に戻して帰るのだが、そのヘルメットには「ノンポリ社員専用」と記載されたテプラ製と思わしきシールが後頭部に貼ってある。
私は挨拶して事務所を出ようとすると、職場の正社員のおっちゃんが現れる。彼は肥えた腹をポンポンと小気味よく叩きながら、ゴルフの話をしてくる。私はゴルフをしたことがないので、共感して話を聞けないことを少し残念に感じながら、最後の時間を楽しんだ。気付くと、彼はいなくなっていた。

貯金が底をつきそうな焦りが夢になって出て来たか。
無職の焦り。金、金、金。
今日の夢はメッセージ性が強い。実経験からの引用も多かったように思う。
私が見る夢の大半は意味が分からないものだが、時折自分の不安や悩みなどが殆どそのままの姿で立ち現れることがある。
ちなみに、私はノンポリではないし、そのように自称したことも決してないが、職場などに入ればノンポリ然とした振る舞いをしてきた気がする。郷に入っては何とやらというやつだ。そうした違和感なども夢の鍋にぶち込まれてごった煮にされているようだ。
夢とは混沌の醸成。そこから生まれるもう一つの現実。

今日もカットアップで言葉を紡いでみるか。
疲れた時は潔く偶然性に身を委ねることにする。
それから、少し眠気があって怠いから昼寝をしてみよう。


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