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『ビデオゲームの美学』の紹介
今回は,本格的なゲーム研究の学術書である『ビデオゲームの美学』をご紹介します。本の情報は以下のとおりです。
松永 伸司 (2018). ビデオゲームの美学 慶應義塾大学出版会
どのような本か
海外ではゲーム研究やゲームデザインの学術書が数多く出版されていますが,国内は比較的少ないと思われます。とくに専門的なゲーム研究の学術書となると,その数はかなり少ないです。本書は日本語で書かれた本格的なゲーム研究の専門書で,著者の松永さんは,第一線で活躍する芸術の哲学(分析美学)の研究者です。一般向けの本ではなく,一気に読み切って理解するというのは難しいと思われますが,伝統的な哲学書でしばしば見かけるような独特のわかりにくさは一切なく,平易な日本語で書かれているため,かなり読みやすいです。また,章の構成がしっかりしているので,必要に応じて読み飛ばしたり,興味のある部分だけを読んだり,ということが可能です。ビデオゲームの研究に関心のある方にはとくにお薦めします。
本書の特徴
本書は国内のゲーム研究のひとつの到達点であるといえます。国内では2000年代以降,ゲームそのものを扱った学術書が出版されるようになりましたが,残念ながら専門性はあまり高くありませんでした。例えば,訳語に誤りがあったり,概念を正確に説明しきれていなかったり,というようなことがまれに見られました。本書は美学という専門分野からゲームを扱っていて,研究対象について広く浅くではなく,深く論じています。当然,関連する海外の重要な文献が引用されていて,日本語で書かれたゲーム研究の専門書として信用に足る貴重な一冊になっています。
本書は,日本人にとって身近なビデオゲームの例を用いて説明されています。ゲーム研究では事例の説明が不可欠です(どの分野でも同じことがいえると思いますが)。というのは,事例を用いた説明によって,著者が読者と具体的なイメージを共有することで,より効果的に伝えたい内容を伝えることができるからです。海外のゲーム研究の本では,日本人のプレイヤーにとって馴染みのないゲームが例に挙げられていることがよくあります。それが未プレイのものであれば,読者はどのようなゲームであるのかを実際に確認しなければなりません。少なくともインターネットで検索して動画を見るくらいのことはすることになるでしょう。本書の場合,著者と同じ地域で同じ時代を生きて同じゲームをプレイしてきた人が多いと思われます。そのような幸運な日本人の読者は,簡単に本書の理解を深めることができるでしょう。
学術的専門性と先行研究の積み上げ
本書の主張のひとつは,ビデオゲームがゲームメカニクスと虚構世界という2つの側面から構成されているというものです。これはゲーム研究では非常に有名な古典となっているユール(Juul)の考え方を発展させたものです。単純にいえば,ユールはビデオゲームがルールとフィクションの組み合わせであって,これらが相互に作用するものであるという考え方を示しました(Juul, 2005)。現実のプレイヤーがやりとりをするゲームのルールと,プレイヤーが想像する対象としてのフィクションというビデオゲームの捉え方は,ゲーム研究の界隈では広く受け入れられています。本書では「ルール」と「フィクション」の代わりの用語として「ゲームメカニクス」と「虚構世界」を用い,ユールの考え方を発展させてより精緻な議論を展開しています。
本書の虚構世界(フィクション)の議論においてしばしば登場するのが,哲学者のタヴィナー(Tavinor, 2009)です。タヴィナーはビデオゲーム作品におけるフィクションの重要性を主張していて,ユールよりもフィクションについて深く論じています。私自身は専門分野が異なることもあって,本書を通してタヴィナーの著書を読むことになりました。このように,何らかの文献を読んでいれば,その途中で初めて知るような研究は少なくありません。学術的な本や論文を読むメリットのひとつは,先行研究が適切にそのロジックの中に位置づけられているおかげで,読者が適切にまとめられた関連知識に触れられるという点にあります。
学術的な手続きに則って先行研究を適切に位置づけるという作業には,一定のトレーニングと時間的なコストが必要です。本書を例として具体的にいうならば,フィクションの哲学の各論からユールとタヴィナーまでに至る考え方の流れをまとめるというのは,それほど簡単なことではありません。したがって,このような内容を一気に読めるというのは,専門性の高い本を読むことの醍醐味であるといえるかもしれません。
人文学の専門用語と豊富な注釈
本書は,記号,表象,統語論,意味論,語用論,量化のドメインなどの人文学(主に言語学)の概念を扱っています。これらをどのような意味で使っているかという説明はつねにあるので,順に読み進める限りは何を言っているかがわからないということにはならないはずですが,このような概念に慣れていない読者であれば,おそらく読むスピードが落ちるでしょう。このような点では読者に読解力,あるいは体力が求められる本ということになりますが,見方を変えれば,読み返しによって理解が深まるという専門書特有の味わいを体験することができるともいえるでしょう。
また,人文学特有の豊富な注釈が本書にもあり,「註」は34ページにもわたっています。一般に注釈には,説明を補足したり,本文の情報量を減らしたり(それによって読みやすくしたり),想定される反論に対して予め準備するものであったり,著者が言い訳をしたり,などといった様々な役割があります。読者がゆっくり読みたい場合は見る価値があり,急いで読みたければ飛ばしても問題ないという点は,本書も他書と変わらないと思われます。
猫
本書では,説明のために猫が登場します。索引にリストアップされていることから,本書特有の用語であるといえるので,個人的に強調しておきます。本書の猫は,カテゴリー,言語記号,現実あるいはゲーム内の存在などとして現れたり,人間がゲームをしているときにゲームの状態に影響を及ぼしていったりします。様々な形で登場しているのを見ると,著者の遊び心のようなものを感じ取ることができます。未読の方は読みながら探してみてはいかがでしょうか。
個人的な話をすると,最初から最後まで通して読んだのが最近になってからでした。それまではチラ見や飛ばし読みばかりで,そのようになりがちなのは古典や大著に多いです。通して読んで初めて感じられるパワーのある本だという印象を受けたので,まだ新しいものの,もしかしたら本書もそのような類いになっていくのかもしれません。2000年代にはこのくらいの水準のゲーム研究の本がたぶんなかったので,ゲーム研究の環境が少しずつ良くなってきているということなのだと思います。
引用文献
Juul, J. (2005). Half-Real: Video games between real rules and fictional worlds. MIT Press.
Tavinor, G. (2009). The art of videogames. Wiley-Blackwell.