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インクルージョンはなぜ大事なのか
カナダで今の会社に就職してから早くも二年半くらいになるのだが、
ダイバーシティやインクルージョンは今でこそ当然大事なことだと思うけれど、
日本にいた頃は、なんとなく常にもやもやを胸に抱きつつも、
その概念のない社会でその大切さがあまり理解できずにいたように思う。
日本の会社にいたとき、産休育休の話にはいつも
ただでさえいつも人手が足りず忙しい部署で休むことの申し訳なさ、
誰も言わないけど結局他の人に皺寄せがくる、的な雰囲気、
そもそも我々に物申す権利はない、みたいなセンシティブなニュアンスがどうしても付き纏った。
実際先輩方が臨月ギリギリまで出勤し出産後も爆速で職場復帰されていたのを覚えている。
アファーマティブアクションの議論が持ち上がるたび、
特別枠は不平等だ、「能力の低い人」を雇うことは不平等だ、という声を聞き、
そういう枠に引け目を感じて誰も応募できないという状態を見てきた。
東大にいた頃、女性活躍推進のための特別女性教授枠はいつも空っぽだった。
トランプ政権のDEI廃止施策がどのような意味を持つのか、日本でどれだけの人が興味を持っているのだろう。
そういった状況になるのも、そういう社会にいたからよくわかる。
インクルージョンの概念のない社会でそれが大切と理解するのはすごく難しい。
日々カナダの国営企業で働きながら、どうやったらうまくこの話ができるだろうってずっと考えてきたのだけど、今回ちょっとこの記事で議論を試みてみようと思う。
どうぞお付き合いください 😌
*****
カナダに来て、私は名実共に「外国人」になった。芸能人の名前も、みんなが知っている人気のニュース番組も、人気のホッケー選手も、女の子たちが夢中のスター俳優たちの名前も、基本的なポップカルチャーも全然知らない。日本で言ったらしゃべくりもエンタの神様も知らなければ、その司会も知らん。みたいな状態。ミュージシャンなのに、誰もが知っている有名シンガーすら知らない。無知すぎていつも驚かれちゃうほどに。
それでも、周囲の人たちは優しく教えてくれるし、誰も私を仲間外れにしようとは思わない。会社の部署の同僚たちと仕事終わりにビアバーでボードゲームをしていたとき、芸能人や日用品メーカーの名前を早押しで答えるという謎のゲームになったときも、私がほとんど何も知らなくても、自然にアシストしてくれたり、さりげなく私が疎外感を感じないように話題を変えてくれたりする。なんかもういつもほんますみません。会社のみんなもバンドのみんなも、いつももうめちゃめちゃ大事にしてくれるし、なんか気づいたらみんな日本語喋れるようになっとる。「あざっす」の発音めっちゃ上手なっとる。何やこれみんな大好きすぎる。本当にありがとうご恩は忘れません一生ここに骨埋めてもいいと思えるくらい。
- すみません感情が昂りすぎました。
そもそもそんな風に普通に扱ってもらうこと自体が本当に嬉しく、ありがたいことだ。でも、何も知らない自分が悲しくなることもある。話の飲み込みが遅い自分の鈍臭さに苛立つことがある。みんなが盛り上がっている話題についていけず、一人で家に帰ってそういったことを復習して勉強するたびに、なんとも言えない孤独を感じることがある。
でも、その度に同時に気づくことがある。これ、日本にいたときにもっとずっと深く、強く感じてた感覚だよなあ。
私は東北の公立高校から上京して東京大学で物理を勉強したのだけど、周囲は本当に誰もが知ってるような東京の超名門私立出身のドエリート男子たちばっかりで、しかも学科に女の子が一人か二人しかいなくて、そこで私は完全に浮いた「外人」のような立場になった。同じ授業を受け、同じ試験を受け、形式的には平等だったはずなのに、今とは比べものにならないほどの、祖国で感じていた圧倒的な疎外感。ここにお前はお呼びじゃない感。
みんなの「うちわのノリ」を壊してしまうから、
私がいたり話しかけたりするとなんだかみんな気まずそうから、
大学のお昼休憩時間も、みんなが課題の答え合わせをしているときも、
試験勉強をしているときも、当然それ以外の話をしているときも、
いつもにこにこして。いつもなんとなくそこにいづらくて。
誰も意地悪なわけじゃない。別にいじめられてるわけでも全然ない。誰も悪意はないし、むしろみんな善良なやさしい人たち。ただただ興味がなくて、なんとなく「外人」はよくわからないし居心地がよくないからやんわり距離を置かれて排除されているだけ。
男の子しかいない70人クラスの中で女子が一人でも、
100人が聴講する授業で日本語ネイティブじゃない学生が一人でも、
激務の部署で出産子育てもしなくちゃいけないメンバーが一人でも、
階段しかない建物で足の不自由な方が一人でも、
東京の私立高校出身の実家暮らしの子ばっかりの中で地方から上京してきた子たちが少数でも、
そういう、始めからそういうメンバーを想定してなかった制度のなかで「平等」だから、
その人だけ特別扱いするのは「不平等」。
ただ集団の中で「異質」であると言うだけ。誰も何も悪くない。
本当に?
それって本当に、成熟した「平等」だろうか。
みんなが、組織の中でやりずらさを感じているマイノリティへの理解を深めること。エンパシーを深めること。全員がちょっとだけ不便を被って、どうしたら全員にとってより良い組織にできるか考えること。
それがより成熟したフェアな社会なんじゃなかろうか。子どもの遊びのグループならまだしも、政治の世界や職場であればなおさら。
*****
さて、長々と具体例を話してきたが、本題に戻ると、
日本では、ダイバーシティとかインクルージョンとかがなぜ大事なのかという議論がされないけれど、
それらは倫理的にも、プラクティカルにもとってもとっても大事なことだ。
プラクティカルには、集団のマス層と異なる観点を持った優秀な人材の能力を集団に還元できなくなること。組織がより堅牢、均質で脆弱になること。予測不可能な未来への適応力が弱まること。
自分が尊重され評価されない集団に帰属意識を感じ貢献したいと思うのは難しい。
倫理的には、マス層の便利・楽さ・幸せの最大化のためにマイノリティが疎外されること。
「制度は平等だ」「能力の低い人を雇うことは不平等だ」
「ほとんどの人が日本人なのに、たった一人の外国人のために英語で授業をするのは効率的ではなく多くの人にとって不便だ」
こういう議論は、そもそもそれらの主張が想定している多くの曖昧で危うい前提に無自覚だ。形の見える制度だけにしか目を向けてない、レイヤーの全く違う議論である。そもそも「能力が低い」ってなんやねん。能力があり本来その組織で輝けるはずの人材が、既存のシステムの中で排除されているという話である。
なんて、こんな偉そうなことを書いているけど、私だって、自分がマジョリティである集団の中ではきっと孤独や疎外感を感じている人たち気づけてこなかったことだってたくさんある。被害者ヅラしたいわけでも偉そうな顔をしたいわけでも全くない。この手の議論の難しさは、どうしてもマジョリティを感情論や正義で攻撃しているように受け止められかねないところでもある。社会にまだないものの大事さを議論するのはとても難しい。
集団の中のマイノリティの割合が3割を超えるとあとは自然と増えていくというが
それは理解が広まるから。
そこに達するまでは、インクルージョンの価値観を集団が持っていないといつまでも組織は変われない。
必要なのは、
「そっかそっかそれは本当に辛かったねえ。」というシンパシーではなく、
「こういう状態だとあなたにとっては気持ちよく組織に貢献することは難しいね。」というエンパシーであり、
それに関する具体的な取り組みや対策云々はその後にやってくる議論である。
今の日本にとっても必要なことではなかろうか。それにしてもカナダの冬は寒いですね。ご意見・ご感想があればぜひ。読んでくださってありがとう。どうぞ素敵なバレンタインをお過ごしください。