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【振り返りエッセイ】教師だった私へ① 〜2012年。逃げたことを正当化しただけだった〜

はじめに。あともう少しで退職します。

Kurin(くりん)です。

2023年7月に転職エージェントに登録し、同年12月に内定を頂きました。
ちょうど内定の連絡を頂いた頃、次年度の希望調査が行われ、

今年度末をもって退職する

ということを校長に伝えました。

そこから早いもので、もう3月。
私が教師としていられる日数も残り少なくなりました。
既に指導要録の作成も終え、私が担っていた役職の引き継ぎ資料も完成しています。

学年末考査をもって成績が締め切られたこの時期は特別時間割になり、最後の国語科の授業も静かに終えました。
終業式・離任式も終え、担任としての役割を果たし、あとは少ない機会のクラブ指導と私の机の整理が残されるのみです。

そんないよいよ退職を目前に控えた私ですが、やはり感慨深い気持ちにはなるものです。
今回は12年間教師として歩んできた自分自身のことを記事にしたいと思います。

私のnoteは

教師から未経験業界・未経験職種への転職を目指す方
30代中盤からの転職を目指す方

のための転職情報に特化したnoteです。
現在はこちらのブログにて教師から民間企業への転職を考える方への力になることができるような情報を発信しています。

このnoteはそういった方にとって有益な情報とはならないかも知れませんが、退職間近の私の素直な気持ちをどこかに残しておきたいと思い、キーボードを叩いています。
自己満足の記事ですが、お読みくださる方は息抜き用のエッセイ的なものだと思って読んでいただけると嬉しいです。


2012年。逃げたことを正当化しただけだった。

2012年3月初旬、大学を卒業した。
在学中の4年間を過ごしたマンションは既に引き払い、実家には2月中に戻っていた。
就職先は未定。3月20日ごろには連絡が来るはず、と思っていた。


3回生から始まった就職活動は出版、書店、自動車、航空と色々と手を出し、その度に不採用のメールが届いていた。
2011年6月、ある企業の選考が唯一順調に進んでいた。それと同時期に教育実習も始まった。
中学校の免許も取得予定であったため、3週間の実習期間。
総体と重なったその日程により指導教員が大会で不在、その日の授業を代わりに行うという無茶から始まった。

そんな中、企業からの電話。

最終面接は6月◯日はいかがですか?

指定された日は実習中の平日。
思わず教育実習のため帰省していることを明かしてしまう。
その瞬間に不採用が確定した。

実習に行っていなかったら、最終面接はどうだっただろう?
書店の営業は自分に合っていたのだろうか。

評価してもらえないことから逃げたくなった。
眼の前には好都合なものがあった。

教育実習を経験して、本格的に教師になりたいと思うようになった。

確かに悪くはない感触だった。
塾講師の経験もある。クラブ指導も楽しそうだ。
就職活動から逃げることを正当化できる口実が見つかった。

そこからは民間企業から採用試験へのシフトチェンジ。

当時は一次試験は一般教養と面接、二次試験は教職教養と面接と模擬授業だったように思う。
とにかく一般教養の勉強と面接対策。
もともと勉強は嫌いではない。
面接対策は就職活動からの転用だった。

運良く一次試験を通過し、二次試験。
結果は不合格。後に成績開示をすると教職教養と模擬授業が合格ラインに届いていなかった。
直前まで教師になんてなろうとしていなかったから当たり前の結果だった。

とはいえ、ここで就職活動を切り上げる理由ができた。
”二次試験まで残った受験者は、講師登録をすれば次年度の講師として働けるのがほぼ確実である”という情報を手に入れた。

つまり4月からの働き口が見つかったということだ。
実は両親も教師で、採用試験を受けるときも講師として働くことを伝えたときも

本当に教師をするの?

と心配(反対?)された。
それには、2つ年上の兄が同年に大学院を卒業し他県へ就職することを利用して

兄が地元に戻ってこないんだから誰かが戻らないと。
地元で働き口なんて無いんだから教師をするしかないだろう。

とまたもっともらしいことをいう。
周りの物事をうまく利用し、自分がうまくできなかったことを隠した。

駄目だった、失敗した

と思われるのが嫌だった。
そんな自尊心を抱えたまま、冒頭に戻る。


転職を前に。 12年間引きずっていたことを今払拭しているのかもしれない。

山間部の超過疎地域出身の私は、小学校こそ奔放に過ごしたが、中学・高校では成績も上位に位置し、クラブでも県大会を勝ち上がり上位大会に出場したりもした。

そのため周囲からも一目置かれていた面はあったように思う。
それが自尊心を生み出すきっかけだったのだろう。
公の場での失敗を避けたい気持ちが強かった。

そういったプライドの高さが災いしたのか、誰とでも友達になれるようなタイプではなかった。
人望は無い方だったと思う。でもそのことも自分で認めることはできない。
いつか周囲に抜かれるかもしれないという焦りは常にあったと思う。
周囲との差をいつでも気にしていた。

だから大学入試は怖かった。
誰もが苦しむセンター試験。それを乗り切れる自身がなかった。
受験がうまくいかないリスクを孕んだまま過ごすことに耐えられず、早々に指定校推薦に切り替えた。

我が家では、先にセンター試験を経験し、結構な苦労をしていた。
それを使って、兄でもあんなに苦しむのだから自分には耐えられないと両親を説得した。

これは本音だった。両親も察してくれたようだった。
高校生活で自分の弱さを誰かに見せられたのはこの時ぐらいだったのではないだろうか。
指定校推薦に合格した私はセンター試験そのものを受けなかった。
勉強しなかった自分が、頑張った周囲に追い抜かれているのも目の当たりにしたくなかったからだ。

大学受験を逃げた経験は、高校教師になってからコンプレックスとしてのしかかることになる。
そのコンプレックスのお陰で、努力できだ部分もあったが精神的には辛いものになった。

自分の不出来な姿から逃げた高校時代。
この習慣が就職活動にも影響したのだろう。

民間企業への就職活動から逃げたコンプレックス。
社会人になってからは度々思い出すように自分を苦しめた。
教師について悩む度、教師について語り合う度、自分が教師という選択をしたことと向き合う度に逃げたことを思い出す。

20代中盤で結婚をしたが、妻も教師をしている。
しかし、妻は民間企業で勤めた後に、地元に戻り教師をしている。
民間企業での経験は妻の強みとなっている。
身近な存在からコンプレックスを感じることになる。

教師になって12年。
干支がひと廻りする期間を経て、初めて民間企業に務めることになる。
民間企業が楽なはずはないし、30代中盤の私は育成の対象でもない。
使えなければ評価はされない。年功序列の後ろ盾はもうなくなる。

その一方で、長年私を苦しめてきたコンプレックスからは開放される。
不安の裏には救いも待っている。
抱える不安には払拭の手立てがある。
とにかく目の前の仕事に励むだけだ。
そうすれば教師でいるよりも気持ちは楽に生きられるかもしれない。

さいごに。次回は教師1年目の自分。

ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
備忘録としての自己満足な記事ですが、私自身に必要なものとして書いていきたいと思います。

次回は右も左もわからないまま働き出した1年目。
新たなコンプレックスと、教師としてかけがえのない出会いの年。
苦しかったですが、教師として大切な経験をした1年を振り返ります。

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