『フェイブルマンズ』を観た。
普段こうして長文というか文章ばった形式で感想を書くことはないのだけれど、時間もあるしやってみようと思う。こうして何かを観たり読んだりしたことを記しておくのはとても大切なことだと思ったからだ。アウトプットすることで、俺がそれを通して何を思ったのか言語化できる部分があると思う。なんとなく良かったな、と思うのではなく、ここがこうでこうだったから良かったんだと思えるようになりたい。
『フェイブルマンズ』面白い映画だった。面白くない映画もあるから、面白い映画を見たときは嬉しい。
この作品はスピルバーグの自身が子どもだった頃からインスパイアを受けている作品だとは知らずに見た。見た後にそれを知ってなるほどな、と思った。ストーリーの構成があまり綺麗ではないからだ。綺麗ではないというと語弊があるけれど、一本筋が通ったシナリオ通りのストーリーとは離れているという意味で、俺はこういう構造の話が好き。あまり映画を観ていないので何とも言えないのだけれど、『ショーシャンクの空に』よりも『カッコーの巣の上で』の方に近いというか、起こる出来事の全ての全てが主人公の核の部分に触れていない気がする。そういう話の方が好き。あくまで日常に沿ったというか、そんな感じ。
幼少の頃の「衝突」に対する憧れとか、それを許容する母とか、ままならない家庭とその故を知らない子供とか、子供独自の視点みたいなものがきちんと描かれていて良かったと思う。何か熱中できるものを見つけて大はしゃぎするなんてことはもうないから……。飯を食うのも早々に切り上げて母から内緒でフィルムを受け取って嬉々として自室にこもる。そしてそれを大好きな母に見せて「もう一度」と言われる。なんとなく嬉しかった。俺にもそんなことがあったかもしれないな、と思った。
ベニーと母の浮気についてはあまり何も思わなかった。最終的に別居という形をとるわけだけれど、泣いている妹が移るカットの鏡の奥でそれを撮っているサミーがいて、コイツマジか! と興奮してしまった。撮りたいと思ってしまうのだ。結局サミーは大叔父の言う通り撮ることから逃れられないし、それに心を全て持っていかれているような狂気が垣間見えて非常に良かった。何かを作れる人間なんてどこか大事なところがぶっ飛んでしまっているのだと思う。おそらく、祖母が死ぬとき、首の脈を見ている時もサミーは撮りたいと思ったはずなのだ。
ベニーがカメラをくれたシーン、あれも非常に良かった。複雑な事情があるとはいえ、ベニーも家族同様サミーのことを愛していたのだ。不貞を犯したことは事実だが、サミーを愛していたということも紛れもない事実でありそれは相反するものではない。そういうところに人間のままならないところがあるというか、愛すべきところがあるというか、結局倫理観という曖昧なもので括られているだけで自分の感情からくるものに嘘はつけないからな。そういう意味では母も仕方のないことなのだ。そう願ってしまったのだから、仕方ない。自分の人生は一度しかない。
サミーがおサボり日のフィルムを撮り、いじめっ子から非難を受ける。俺は努力して足が速くなったんだ、お前の安っぽいヒーロー像には華がある、あてつけか? と言って涙する。サミーはそんなつもりで撮ったわけじゃないだろうが、受け取り手はそう判断する。ままならない自分との乖離にいじめっ子自身も苦悩しているのだ。そしてその立ち行かないという点、いじめっ子は自分のイメージ、サミーは自分の頭の中のイメージという共通点を見つけて煙草を交わす。でも映画は現実と違うからといういじめっ子に対してでもお前の行く末の幸運を願っているぜとアンサーを返す。このシーンを初めて見たときは本当に震えた。こんな心の機微を本当に微細で伝わりにくいようなことを物語を通して訴えてくれる。素晴らしい表現だと思った。
最後に、サミーが憧れの映画監督と話すなどして、路上に出て小躍りを踊る。嬉しさでステップを踏むシーンがあるが、あれは一分の、本当にうれしかった出来事があったことがある人にしか伝わらないんじゃないかと思った。自分の創作物が認められるような、そんな瞬間に立ち会った人じゃないと分からない感情だと思った。あの点だけは、スピルバーグの本当の、本当にあった出来事なのだと掛け値なしで言い張ります。
時間があると冒頭で書いたがもう時間がない。
では・・・・・・