ミヤコホテル論争
友人と京都の宿の話をしているうちに、名称が多少変わっていたが、かつて泊まった東山のホテルは、俳人、日野草城の、あの「ミヤコホテル」ではなかったかと気になった。
ミヤコホテル論争は、俳句を嗜む方ならご存知だろう。ホテル利用はフィクションでも、その内容は不快でしかなかった。
1934年に発表された、新婚初夜を赤裸々に詠んだ連作10句である。
日野草城作 以下同
けふよりの妻と泊るや宵の春
春の宵なほ処女(をとめ)なる妻と居り
枕邊の春の灯(ともし)は妻が消しぬ
をみなとはかかるものかも春の闇
薔薇にほふはじめての夜のしらみつつ
妻の額に春の曙はやかりき
うららかな朝の焼麺麭(トースト)はづかしく
湯あがりの素顔したしも春の昼
永き日や相触れし手は触れしまま
失ひしものを憶へり花曇
新妻に処女性を求めて満足したのは当時のことと了解しても、自己完結の露悪趣味もほどほどにしてもらいたい、と読んだのは数十年も昔のことで、改めて読み返せば、「勝手にすれば、お好きにどうぞ、でも愛妻に直接言ったらどうですか?」程度の感想しかない。
それにしても、である。
Wiki には、以下の記載がある。
「ホトトギス」で学んだ後、「旗艦」を創刊、女性のエロスを主題とした句や無季俳句を作り、昭和初期の新興俳句運動を主導。戦後は「青玄」を創刊・主宰し一転して静謐な句を作った。
戦後に一転して静謐な句を作ったにせよ、戦前の句しか印象になく、雪月花や花鳥諷詠に俳句の真実性や情趣を見い出すべく鑑賞する身としては、のろけやエロティシズムを否定はしないが、肌が合わない。
えりあしのましろき妻と初詣
ちちろ虫女体の記憶よみがへる
仰向けの口中の屠蘇たらさるる
切干やいのちの限り妻の恩
初鏡娘のあとに妻坐る
南風や化粧に洩れし耳の下
妻が持つ薊の棘を手に感ず
新涼や女に習ふマンドリン
春の灯や女は持たぬのどぼとけ
朝寒や歯磨匂ふ妻の口
浴後裸婦らんまんとしてけむらへり
潮干狩夫人はだしになり給ふ
誰が妻とならむとすらむ春着の子
重ね着の中に女のはだかあり
鼻の穴涼しく睡る女かな
よほどの愛妻家か、単なる好色漢かは本人しか知る術はないし、女の子が成長してどんな男の妻になるかの妄想や、女体の細部までの観察と粘着質の固執が際立つにせよ、これらが「俳句」であることは間違いないらしい。
多くの芸術家たちは女性から霊感を受けるものだが、「俳句」と謳ってひと括りにすると、重ね着の中に女(せめて妻でなければ、かなりヤバい人)の裸体を想像するのも、妻の口から垂らされた屠蘇を口で受けるのも、歯磨き粉が匂うのも、これすべて芸術ということになる。
よそ様ご夫婦をとやかく言う悪意はさらさらないし、夫婦間で合意のプレイならば口出しもしないが、戦前という時代背景を考慮すると、奥さんは恥ずかしくて外を歩けなかったのではと、要らぬお節介や心配をしてしまう。
どうしても房事を詠みたいのであれば、加藤楸邨の句が手本になる。
蚊帳出づる地獄の顔に秋の風
本能が支配する生理的欲求とはいえ、汗だくになりながらも満たされた排泄欲と、己の内面の醜さを客観的に捉えた虚無が響き、草城の句の甘さばかりが際立つのは仕方あるまい。
このところ、人生を二周して読み返している山頭火が、実際に東山に泊まり、遺した句がある。
旅は笹山の笹のそよぐのも
こんやはこゝで雨がふる春雨
馬鹿馬鹿しい究極の選択だが、「自由律」と「のろけ定型」、どちらが「俳句」かと問われれば、私は迷いなく山頭火を採る。
山頭火は俳人ではないとの声も聞くが、彼は自らを俳人と名乗っている。
本人が、これは俳人ですと宣言すれば、草城も山頭火も俳人なのである。
以下は、山頭火の日記からの抜粋。
生命ある作品とは必然性を有する作品である。必然性は人間のどん底にある。
これが真実を述べているのなら、草城も必然性を有する作品を発表したのだ。
以下も山頭火の日記から抜粋。
来る者は拒まず、去るものは追はず、求めず、斥けず。
他を相手にせず、自分を相手にする。
私は毎日毎夜句を作ってゐる、飲み食ひしないでも句を作ることは怠らない、いひかへると、腹は空つてゐても句は出来るのである、水の流れるやうに句心は湧いて溢れるのだ、私にあつては、生きるとは句作することである。
山頭火は俳人です。
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