【短編小説】指環の使いかた
第21回女による女のためのR-18文学賞一次選考通過作品です。
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四月のひどく暖かい夕方、日菜(ひな)はベッドの上に座って、悄然とうついむいている。
体のある部分が、尖っていた。
といってもこれはけっして短い時間に尖るものではないし、昨日やおとといにもすでに尖っていたのを、日菜自身よく知っていたはずだ。今さら悩むような種類のことじゃない。なのにこの夕方の日菜は、昨日やおととい以上の戸惑いと不安でもって、その尖りを見下ろさずにはいられなかった。それをまだ、乳房と呼びたくはなかった。
クラスの女の子たちのことを日菜は思い浮かべている。彼女たちのほとんどはすでに、多かれ少なかれあまりにも当然に、尖っていた。いち早かったそのきざしを、男の子たちに対して意味ありげに見せつける子すらいた。日菜は考えた。彼女たちもはじめはこのうす気味悪い重苦しい緊張におそわれて、それを打ち負かしたすえに、あんなふうにかわいらしい下着やふるまいを身につけるようになったのだろうか。それとも彼女たちには、このおそれ自体がそもそもなかったのか。今日になるまで、このことでこんなにこわくて後ろめたい気持ちになるなんて思ってもみなかった。もっと自然に、軽い感じで新しい自分に移行できるものと、そんなイメージばかり幼いころから持っていた。
ほとんど平らな、けれどもたしかに完ぺきな平らではなくなっていっている胸の骨を、手のひらで軽くおさえてみる。大丈夫、まだ何もない。かたい感触に安堵する一方では、今、自分の指がほのかなやわらかみの中に溺れたこともまたたしかだったことに、日菜の心は暗く沈む。
今、とくべつにこの尖りが気になるのは、ゆったりした部屋着から替えたばかりのこの服のせいでもあるだろう。今日はもうかなり暖かいから、日菜が着替えたのは水色のぴたりとうすっぺらな春物だけ。ポケットもボタンもついていない。つまり、それまでのように尖っていないふりをすることがもうできない。去年これと似たような服を着たときとはわずかだけれど確実に、見える風景はちがってしまっている。
一歩むこうへ進み出るか、この場所にとどまるか。人生においてとてもたいせつなその審判までの時間を少しでもかせぎたいなら、明日から着るものにも工夫をしなくちゃいけない。日菜は手持ちの衣服をいくつか頭に思い浮かべた。明日はどれを着たらいいのかな。ああ、ため息をつきたくなる。
どれくらいそうしていただろう。あと少しで、夕方は夜に飲みこまれていく。
「日菜ちゃん、どうかした? もう行くから支度しなさい」
「あっ、うん。ちょっと待って」
ドアの外からお母さんに言われて、日菜は跳ねあがりながら返事をする。
今日は土曜だった。両親と日菜はこれから、たまの外食に出かけようとしている。だけど、こんな薄着で両親のそばに寄りたくなんてないって、どたんばになって気づいた。それでぐずぐずしている。昨日までは着ているものが厚かったから、何も気にならなかった。でも、この服はだめだった。ゆっくりとした速度で、しかし着実に日菜の命のまんなかではぐくまれていた新しい力をおおい隠すには、もう足りなかった。
今から一時間かそれ以上、両親と近くでいっしょにいなくちゃいけない。このかっこうをずっと見られながら。どうしよう。見られたくない。気分は暗さを増していく。
見られたくないと思う相手は、日菜にとってはこの世で両親だけのようだった。学校で体操服を着たときなんか、薄手のそれにかすかに浮かぶ線に気づかされたけれど、同級生の前で尖ることはほとんど恥ずかしいことじゃなかった。日菜だってほかの子と同じようにむしろ少しでもはやく尖って、晴れやかにしていたいと待ち望むひとりでさえあった。けれど、両親なのだ。どうしてか、彼らの前で尖るということだけは、彼女自身にも不可解なほどのおそろしさを呼び起こしてくるのだった。
べつの服に着替えちゃおうか。
日菜は考える。
だめ、お母さんに怪しまれる。
もう一枚、何かはおろうか。
無理。今日は少し汗ばむような陽気だから、不自然。
それに、と日菜は思う。きっとこれは、今、くぐり抜けておかなくちゃいけないことなんだ。そんな気がする。
「ねえ、早くして。お父さんに怒られちゃうでしょ」
「はーい、今行く」
自室のドアを開けて廊下に飛び出す。ぱたぱたと音を立てて階段をおりていく。ほんとうはもっと静かにおりられるけれど、なんとなくこれをお母さんに聞かせたい。
玄関のドアを軽く開いて立ちながら、早く、早く、とお母さんがせき立てる。お母さんはいつもお化粧をしても何かが変わったようには見えなくて、日菜は化粧というものの意味がよくわからなくなる。無香料ファンデーションのにおいはひたすらに不快でしかたがないし、それは必ずしも世間で言われているほどのあこがれを引き起こしはしない。少なくとも、お母さんを見ている限りでは。
開かれたドアの外から、夜に近い夕方の空気をぬって、春のにおいがゆっくりと家の中に流れんでくる。春のにおいがいつでもちくちくした肌ざわりを持っているのは、人々の記憶が砂みたいなかたちになって町中に散らばっているからだろう。一年前の春、おととしの春、もっとむかしの春、日菜の知っている春、日菜の知らない、だれかの記憶の中にだけある春。冬のあいだは凍りついていたすべてが、溶かされて町に満ちる。溶かされた春の量や重さに、体も気持ちもずっしりと重くなるみたいだ。だれもがこのにおいをピンクや黄色にたとえて心ときめかせているけれど、わたしだけは好きになれそうにない、と思う。今年はクラス替えがなかったけれど、数年ごとにはなれなくてはいけなかった友達や優しかった先生のことを思えば、このにおいに明るい色は似合わない。
「どうしたの」
しばし動けないでいる日菜に、お母さんが声をかける。上がり口に腰をおろしたままの日菜は、ドアの内側にいつまでも埋もれていたかった。春のにおいを正面から顔に浴びてしまわないように。
なんでもないよと首をふって立ち上がり、外に出る。
お母さんも外に出てドアを閉め鍵をかける。からっぽになった家の中へ流れ込んでいこうとするたくさんの春がしゃ断されて、玄関のポーチにふわふわ落ちる。よかった。これ以上の春は、家の中に入ってきてほしくない。
*
車で二、三分も走ると、両親は口げんかをはじめた。
ほんとうに、くだらない口げんか。ふつうの会話に思えたものが、気がつくとそうなっていた。ため息をつきたいのをこらえて、日菜はそれを聞いている。声が耳に入ってくるのをふり切るように、やがて軽く目をつむる。
一枚の名画のことが、ふと頭に思い浮かんできた。
これは……、そう、ムンク。
半年ぐらい前、日菜はお母さんといっしょにテレビのムンク特集を見たのだった。その日まで、日菜はムンクのことなんて何も知らなかった。例のあの絵のタイトルは『ムンクの叫び』なのだと、疑いもなく信じている子どものひとりだった。そして、あの叫んでいる彼こそがムンクであると考え、その名詞がそれ以前にだれかを指しているとは思ってもみない無知な子どものひとりだった。というより、あの橋の上の彼が絶叫している光景に、「ムンク」という珍妙なその響きはあまりにも似つかわしすぎて、ムンクとはそもそも何なのか深く考えたこともない単純な子どものひとりだった。あれはただ、『ムンクの叫び』であり、それ以外のなんでもなかった。
だから、驚いたのだ。ムンクは画家の名前だった。そして彼は、とても繊細でゆううつで、美しい絵を描く人だった。彼の描いたほかのどの絵も、まがまがしさと悲しさとあこがれに満ちて、ときおりひとすじの光が願いのように滴って、ともかく日菜の心は打たれた。なんて美しい想像を抱えている人だろうと。こんなきれいな絵を描く人にあんなものを描かせたほどの絶望を思っては、日菜の気持ちはいっそう暗くなった。ムンクという響きを、日菜はもはや珍妙さとしては受け止めなくなっていた。「ノクターン」とかと同じひきだしに、それはしまい直された。
そして。
『思春期』という絵を、ムンクは描いている。
その絵を解説するナレーターの深刻な口ぶりに、あるいは、キャンバスの中で顔をこわばらせる少女のあまりに頼りなげなようすに、日菜たちのいるリビングは一瞬気まずい沈黙をおびた。といっても、それほどひどく凍りついたわけでもない。すぐに軽くつっこみを入れ合ったりなんかして、どうにかやり過ごす余裕があった。きっと、ほんの半年前のそのときには思春期というものがまだリアルじゃなかったから、そんなふうにしていられたんだろう。それでも、そのとき、自らの性徴におびえるその少女の顔や体のようすに、日菜はある明確な予感をいだかされはしたのだが。
国道をはずれたとたん、道はさびしい。窓の外を、幽霊のような夜の街路樹と雑草が、白々とライトに浮かびあげられながら流れていく。
あの少女の暗い瞳を、日菜は思い起こしている。
あれは、わたしなんだ。
*
そのお店の前に立つたびに、日菜はいつもぎょっとしてしまう。
すっかり暗くなった街道の脇に、闇に埋まるようにして建つ一軒の食堂。青いテント地の軒には屋号が書いてあるけれど、それを照らすあかりはない。お店の中からのびてくる光が、すべて。夜目にもわかるほど白い壁は全体的にほんのり黒ずんで、アルミサッシの引き戸の上半分はガラス張りだけれど、いつからそこにあるのだろう、見たこともないような雰囲気のヘアメイクのモデルの写った、色あせて青っぽくなったビールのポスターが一枚、貼ったままになっている。
このお店だけはいやだ、といつもやんわり伝えている。なのに両親は、とくにお母さんはここが好きだと言って、聞き入れてくれない。
中に入ると一転、場ちがいに思えるほど強い照明が全体を明るさで満たしていて、日菜は目をしばたたく。いつ来てもお客は少なくメニューも単純で、ここが学校で話題にあがったことんて一度もない。けれどほんとうにおいしいものを出すお店なのだと日菜はよく知っていて、だからこそ、そのかえりみられなさがよけいむなしい。
四人がけの、見るからにかたそうに角ばった木のテーブルが四脚ある。木のいすもまた角ばってかたそうなのが見ただけでわかるし、実際、かたい。入り口側の二脚のテーブルには、中年の男性客がひとりずつついている。めずらしく盛況みたいだ。
両親はと日菜は厨房寄りのテーブルへと進んだ。手前の席にまずお父さんが、そのむかい、厨房と背中合わせの席にお母さんが、そのとなりに日菜が座る。いすはやはりかたくて冷たい。白いたんざく状のお品書きの紙が横の壁に並べて貼ってあるほか、テレビも何もない。とくにごちゃごちゃしているわけでもないのに、何かがごちゃついて感じられる。
席につくとすぐ、おかみさんがおしぼりとお冷やを持ってきてくれた。髪をひっつめた、六十がらみだけどきれいな人だ。そしてほどなく、男性客たちはひとりずつ店を出ていった。日菜たちだけが、取り残されたようにそこにいる。この夜をこの場所で過ごすことに決めた人がこの宇宙の中で自分たち三人しかいないということが、たまらなくわびしい。
きっとこんなところに、かわいらしい下着をつけた女の子と、その家族は来ないのだと日菜は思う。そういう人たちはきっと、自家製生パスタが売りのイタリアンレストランだとか、そういうところに行くんだ……
口げんかを決着させないまま乗り込んでくることになった両親の機嫌は、最悪だ。人前だからどなり合うこともないけれど、黙りこむお母さんの顔は怒りのためにまだ少し赤らんでいる。一方、お父さんの顔には怒りも親しみもない。いい意味でも悪い意味でも、お母さんに対する関心のいっさいが抜け落ちてしまっているように見える。車中でのやりとりを聞くかぎり、ここまでこじれるほどのなにごとでもなかったように日菜には思える。けれどもふたりは口をきかず、目の前の空間をそれぞれのいら立ちで煮こんでいる。
できるだけテーブルの下に体を押し込め、日菜は自分の存在を両親の目から隠すようにした。いろいろなことに決着のついていないこのはんぱな体を、彼女たちの目にだけは触れさせたくはない。ふたり、仲良くお話をしていてくれたらいいのに。そしたら、わたしから意識がそれてくれてちょうどいいのに。なんでこういうときに限ってけんかするの。両親の目が今にもこの尖りを見つけてしまうのじゃないかと、日菜はただそれがこわい。
「ちょっと日菜。ちゃんと背すじ伸ばしなさい。おばあさんになって、背中が曲がって戻らなくなっちゃったらどうするの」
テーブルの下に身を隠そうとする努力は、しかしさっそくお母さんに見破られた。
お母さんは日菜の肩に手を回し、少し内巻きになっているそれを外側にゆるめようとする。ゆるめられるままに、日菜は苦い気持ちで姿勢を立て直す。しかし、さりげなくまた少しずつテーブルの下に埋まっていく。自分でもばかみたいだと思う。こんなにせまくて静かな店に彼女を連れてきた両親を、また少しうらんだ。
背すじを伸ばすでもなく伸ばさないでもない、はんぱなきゅうくつな姿勢のまま、彼女は両親とお品書きを見上げていた。
「どれにする?」
「うーん」
そうしていると、おかみさんが注文を聞きに近づいてくる。直接話しかけるのはちょっと恥ずかしいと思ってしまう。もう六年生なのに。親子丼、とお母さんに向けて言うと、おかみさんに伝えてくれようとする。でもその必要はなくて、おかみさんはにこやかに日菜のことばを復唱しながら書きとめてくれる。それから、とくにほしかったのでもないけれど、メロンソーダ、という文字が目に入ったとたん、日菜の口は「メロンソーダ……」と発音していた。しかしそれは、機嫌をそこねている両親の前ではけして口にしてはならないことばだったと気づき、お母さんのぎろりとした視線をあせりながら受けることになったけれど、おかみさんのほうをむいたお母さんは、じゃあお願いできますかと言ってくれる。お父さんは、とんかつ定食を頼んだ。
厨房からかすかな調理の音。ふたたび不安な時間がおとずれた。お母さんがべつにけんか腰じゃなく何か話しかけても、すでに彼女と対話することを放棄したお父さんはてきとうに流し、てきとうに流されるとお母さんは意地になって、さらに熱心に、お父さんがよろこぶとはとうてい思えない無意味なおしゃべりを持ちかけ、それをお父さんはまたてきとうに流し、というのがしばらく繰り返されたあと、結局ふたりとも黙り込んだ。お父さんは卓上においたスマホをとりあげて少しながめると、ため息をついてまた元にもどした。ねえそれ、こういうとこのテーブルにおかないでっていつも言ってるでしょう、きたないから、今にもそのように声を荒げそうにしながらもなんとかこらえているお母さんは、隙あらば肩をまるめてテーブルの下に沈んでいこうとする日菜を、繰り返し掘り出さなくてはいけなかった。
早く帰りたい、と思う。お母さんに掘り出されない程度の埋まりかたを意識して座りながら、このお店のことも、両親のことも、自分のことも、何もかもがいやでたまらなくなっている。とにかく、もうちょっとの辛抱だから。そう自分に言い聞かせる。大丈夫。あと数十分がまんすれば終わるんだから。
……いや、そうなのかな。
ほんとうに、終わるんだろうか。
日菜は気づいてしまう。
今日が終わったって、明日がある。明日が終わったって、あさってがある。半年後がある。一年後がある。この尖りがするどさとやわらかさを増しこそしても、二度と平たんにもどることはない。
「メロンソーダ、お待たせいたしました」
おかみさんがやってきた。そっと日菜の前にまるい小さなコースターとストローの袋をおき、大きなコップをさっとおいてほほえみかける。メロンソーダをご注文のかたはどちらでしょうかみたいなむだな問いをしないスマートさが、あたりまえかもしれなくても、日菜をうれしがらせる。そしておかみさんは、薄いお化粧がよく映えてきれいだ。日菜があこがれを引き起こすほうの、お化粧だ。
きゅうくつさも不安さも、鮮烈なライムグリーンの夢の中にしばし溶けていく。茎まで甘く紅く染まったチェリーの果肉を舌ではがし、種を口から出して紙ナプキンに包む。それが終わると、しかし日菜はもうメロンソーダに用はない。満足だった。このきれいな色をながめるのは好きだし、勢いで頼んでしまったけれど、ほんとうは炭酸飲料がそれほど好きじゃない。
日菜はお母さんをちらりと見る。飲めないなんて言える雰囲気じゃなさそうだ。少し肩をまるめたまま、ストローの紙袋を裂いて、ライムグリーンの輝きの中にさし入れる。氷がからりと鳴る。口をつけて吸ってみる。口の中で透明な痛みが甘くひらかれて、気持ちの飢えが少しだけいやされる。舌から消えてしまうと、飢えは前よりもっとひどくなった気がして、だからまたストローに口をつけた。
両親はいつの間にか、ぽつりぽつりと穏やかな対話をはじめている。
「ここへ来るまでの街並みも、いつの間にかだいぶ変わったよね」
「……うん」
「ジムなんて、いつの間にできたんだろ」
「……とっくにあったよ」
「そう? でもさ、あそこ、前までは何があったっけ。ねえ、むかしこのへんに来たときは……」
「忘れちゃった」
「なんでそういう言いかたするの。そういう言いかたされると、そこで会話が終わっちゃうんだけど」
結局、また会話の雲行きはあやしくなってくる。人前なのでごく小声で早口に、だけれど。
日菜はお父さんのほうをちらりと見た。視線に気づき、お父さんは一瞬大げさな困り顔をつくる。日菜はちょっと笑う。それから、メロンソーダの冷たさに、二、三度、せきこんだ。
*
いつの間にか、食堂の中にその人たちはいた。
入り口側のテーブルに、そのカップル客はついていた。
「親子丼、お待たせいたしました」
どんぶりとつけあわせがのったお盆と、頼んでおいた取り皿とをおかみさんが日菜の前におく。はっとして、目の前でゆげを立ちのぼらせながら輝くそれに一瞬目をうばわれたけれど、それよりもずっと日菜は新しい客人たちのことが気になってしかたない。お母さんが取り皿に親子丼を分けはじめる。
質素な服装のその恋人たち。ふたりとも一家と同じほうの壁にそった席についたので、店内は片側だけ妙に人口密度が高くてバランスの悪い感じになった。ふつうは先客がいたら距離をとって座るよね。変わった人たちだと日菜は思ったし、息苦しいような気持ちにもなる。
グレーのシャツを着た男の顔が、日菜の位置からもよく見える。女のほうはやわらかなマスタード色のトップスを着て、黒くつややかな髪をたらしたうしろ姿しか見えない。注文をとりに来たおかみさんへの対応もそこそこに、目の前の女を焼き溶かしそうにしている男の視線の強さを見て、いやな状況になった、と日菜は思った。親子三人ぽっちの空間へほかの人たちがおとずれてくれたことが最初は心強かった。けれどもそんな素朴な時間を、少しでも性愛の香に染められてはたまらない。
日菜の不安にたがわず、女に何かささやきかける男の瞳のほむらは、しだいにただならぬ色をおびてくる。女もまっすぐな熱い目でそれに応えているのが、うしろ姿から知れる。何をそんなに、わざわざこんなところでささやき合わなくちゃならないんだろう。妙なことをはじめないでくれ、という願いと、何かがはじまったらおもしろい、という一抹の好奇を抱えつつも、いや、やっぱり、できればへんな真似はやめてもらいたい。警戒心を強めながら、甘くやわらかな親子丼をつつく。
お母さんがおいしいねとか話しかけてくるのに応えながらも、日菜はひそかに彼らをうかがっている。
そうして男がある動作をしたとき、日菜は彼らから完全に目を離せなくなってしまった。
男が、女のきゃしゃな右手をとった。それから、彼女の指環をはずしたようだ。女のほうを見て微笑を浮かべながら、つまんだ指環を彼自身の口元に近づけ、くちびるにさし入れて上下でゆっくりと包み、だめ押しに人さし指で押しこんで、指環ごと、くちびるを閉じた。
食べちゃった。
見間違いだろうか。日菜は目をこらした。
けれど、男の口は動いている。女の顔からいっときも目を離すことをせず、慎重に左右に転がし、あるいは口の中の一ヶ所に固定して、細かく触れているのが見える。心拍のように、その口元は小刻みにふるえる。たまに歯に噛まれたり、舌に押されてくちびるの隙間から少し覗いたりするたび、細い環はちらりと輝く。こんな指環の使いかたを、日菜は知らなかった。
とくべつに魅力的ということもないが不快というのでもない、平凡な青年だった。そういう人でもこういう世界を持っているのかと、日菜はわけもなくショックだった。
……きゃはっ。
女が小さく笑う声がする。それは日常生活であまり聞きたくはない色合いの声で、やめてほしいと日菜はいっそう強く念じる。あの人たちが今どんなことをして笑っているのか、お母さんととお父さんがどうか、どうか気がついていませんように。ひやひやしながら、うんざりしながら、しかし日菜は彼らの動向に対する監視を続ける。お母さんたちに絶対ばれないように、ときおり目を上げるぐらいしかできないれど。
いや、と思い直す。お母さんもお父さんも、あのカップルのようすにとっくに気づいてしまっているんだ。とくにお母さんは。だって今、ほら、不自然なくらいしきりにお母さんはお父さんに話しかけるようになっている。するどく響く声をあげてお母さんが笑うたび、しかしよけいにあのカップルの存在が立体感をおびてしまうようで、彼女の涙ぐましい努力が日菜にはふびんにも思えてくる。
見てはいけない、と思いつつ、日菜は指環のたどる顛末が気になってしかたない。そろそろ、こうしてのぞいているのがあの人たちにばれそう、でもあと少しだけ、そんな気持ちで日菜は観測を続ける。
男が、女のお冷やのコップを手にとった。口があく。すると指環は男の舌の先からすべり落ち、水の中に沈んだ。少しだけ見えた女の頬の端が上気しているようだった。
日菜は悪寒をおぼえた。気持ちが悪い。さびたりしないんだろうか。高いものだろうに。
そのときだった。
ふいに、女がふりむいた。
日菜は逃げ遅れた。女と、視線がかち合った。
見つかってしまった。
色の白い、きれいではあるけれど、これまた影のうすい感じの女だった。こんな人がこんな世界を持っているなんて、ふたたび日菜はショックに打たれた。
女は前に向き直って男の腕に触れ、日菜のほうをさし示しながらまたふり返ったようだ。うまいことお母さんの目を盗んで彼らはふり返る。男も日菜をまじまじと見て、それから女の顔を見て笑った。女も、日菜へといたずらにほほえむ。そうして笑うふたりは幼稚さの中にも優越がにじんでいて、魅力的な感じがした。これほどの笑顔を受けとって、日菜は少し気を許しかけてしまう。けれどすぐに不快な気持ちがもどってきた。のぞかれているのをうっとうしがるどころか、小学生に自らのいちゃつきを見せつけて、よけいはしゃぐとは。
反応に困り、目をそらす。けれどまた気になって見てしまう。彼らはまた、彼らの時間に戻っている。
男が女のコップをとる。水の中に手をさし入れる。中指と薬指で、沈んだ指環をすくい出す。いちいちの動作のたびに女の表情をたしかめて。つまみあげられた指環が空中で小さくふるわれ、水が散っていく。あいた人さし指で男は壁のほうをさす。女が「なあにー?」とそちらへ視線を動かした隙に男の腕が伸び、女の体に何かをほどこした。
「きゃあ」
自らの胸元を見下ろす女の背が、笑いにふるえている。春色のその服の胸元に、男の指先は指環をすべりこませたのにちがいない。そして女の起伏の底へ、するどく輝くそれは沈んでいったのだろう。尖りがいつしかまるみに変化し、かなしさやうれしさを引き入れる用意をとうに整えた、彼女の命の底へと。
「……見ちゃだめでしょ」
お母さんのひそめられた声が、日菜の右耳を切り落とさんばかりにくっきりと響いた。はっとして、「え」と返す。なんのことかわからないふりをしながら、でも内心かなりがっかりしながら、視線を親子丼にもどす。
そして、さらに重大なあやまちに気づいた。いつの間にか、テーブルの下に押し込めた体が、まるめていた背が、伸びていた。
見下ろした体は、やはり尖っている。
さっと血の気が引いたのがわかる。お母さんはこれを見てしまったろうか。お父さんはこれを見てしまったろうか。このみじめな発芽を。わたしはまだ、これを祝えない。お母さんとお父さんにもまだ祝ってほしくない。ああ、あの人たちさえ来なかったなら。
「日菜、もうおなかいっぱいなの?」
ちっとも食がすすまないのを見て、お母さんがいら立ってたずねる。
「あ……、うん」
あらかじめ半分に分け合っていたそれさえ、今日は胸がいっぱいになってしまって食べられない。
お母さんはお盆ごと自分のほうに動かし、食い散らかされたそれへ箸をさし入れた。
「残して、ごめんなさい」
「いちいち言わないでいい」
「でも、ごめんなさい」
「いいって言ってんでしょ」
お母さんのひたいが、血管のすじに黒ずんでいる気がする。
もう帰ろう。そう言って解放してやりたいし、お母さん自身ももうここを出ていきたいはずだけれど、意地になって彼女は食べている。日菜はまた背をまるくして、お母さんが親子丼の残りを口に運ぶのをいたたまらない気持ちでながめている。数分前、お父さんは何も告げずに店内から出ていった。先に車にもどったのだろう。
無意識にまた、日菜は彼らに目を移していた。
あれ、指環がない。指環はどこだろう。男の手にもテーブルの上にも見あたらない。女の指にもどったのか。いや、そこにもないようだ。コップの中はどうだろう、と思って見ているとおかみさんがやってきて、空になっていた女のそれを取り上げ氷水で満たしていく。そして男はもう、ねばつくような熱い目では女を見てはいない。女のほうも、彼を見てはいないようだった。
いや、彼らはもう、それどころではないのだ。彼らは、食べていた。箸が器にぶつかるがさつだけれど器楽的で美しい音を立てながら、死にものぐるいに食べていた。大きなお皿いっぱいに盛られたからあげを箸でつかんでは口にほうりこみ、どんぶりのご飯をかきこみ、お味噌汁をすすり、またからあげを口にほうりこむ。そんな男の顔をよく見れば、当初の印象よりもひどく不器量なのだった。そして、口にほうりこまれてもほうりこまれても、彼のからあげは永遠になくならない。女も同じようにして、死にものぐるいに食べているのだろう。そんな女の髪は、よく見ればそれほどきれいでもない。
戦闘のように、食事の音が交錯している。日菜があっけにとられながらもとにかく思ったのは、あんなにおいしそうな食事風景は見たことがないということだった。
*
お会計のとき、日菜はおかみさんからペンギンのキャラクターのぬいぐるみをもらった。
「かわいいね」
店の前に停めてある車に向かって歩いていきながら、少し機嫌の戻ったお母さんは日菜の持つそれを撫でて言う。
「うん」
「でもちょっと、日菜ちゃんにはもう、子どもっぽすぎるかな」
どきりとした。泣きそうなくらい不安になりはじめる。お母さんがこの晩、自分の体をつぶさに観察した感想がそこに含まれているように思われてたまらない。そんなことないよ、すごく気に入ってる。意地になって言おうとしたけれど、あいまいににうなずくしかできない。片腕にかかえたぬいぐるみをぎゅっと体に押しつけながら、お母さんに続いて車のドアをあける。
むっとするような春のにおいが、夜になっても消えない。(了)