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Petrarcaを読もう!第1歌(序歌)音韻編

別稿「文法解説編」でCanzoniereの序歌をごく文法的に解説しました。本稿では音韻の面から分析してみようと思います。

1行=11音節endecasillabi

 まず全ての詩行が1行11音節から成り立っています(言語学的な音節とは少し数え方が違います)。音節の数え方などの詩法に関しては別稿「イタリア詩の技法について」で解説しましたのでそちらを参照してください。以下に音節の区切りを示してみます(このように音節の区切りを確認する解釈行為をscanningと呼び、これは詩を読むときには欠かせません)。

脚韻abba cddc efg efg

 詩行はお互いに脚韻で関連付けられています。ソネットという詩形式自体にはもともと「脚韻はこのように踏まねばならぬ」といったルールはなかったのですが、ペトラルカが考案したのはタイトルにも付記したabba cddc efg efgという脚韻です。
 なんのことかわからない人は次の画像を確認してください。脚韻を踏んでいるところ同士を同じ色のマーカーで印をつけてあります。それぞれにアルファベットをつけて上記のように呼ぶわけです。

 脚韻というのはそれぞれの行の最後の音節を同じにすることを指しますが、たんに形式的に韻が踏まれていれば良いというものではありません。韻が踏まれている語同士の緊張関係がつまらない韻か印象的な韻になるかを決定します。この辺の考え方も別稿「イタリア詩の技法について」で述べましたので参考にしてください。
 この詩の脚韻の中で目を引くのはなんといってもbという記号で表したdolore⇔amoreとcore⇔erroreです。dolore「苦しみ」という名詞とamore「愛」という名詞とを韻で繋ぐのもまさに序歌として象徴的だし、core「心」とerrore「過ち」も直截的すぎるかもしれませんが、そのぶん強い感情が込められているのが感じられます。
eという記号で示したvergogno「恥じる」とsogno「夢」もdolore⇔amoreと呼応し合っていると言ってよいでしょう。

頭韻(aliterazione)・語順転倒(anastrofe)・句跨ぎ(enjambment)

 ところで脚韻というのは現代のラッパーでさえ多用するくらいなので、韻文にとって普遍的に思えるかもしれませんが、じつはそうでもありません。ギリシャ・ラテン時代の詩にはまったく存在せず、中世の発明(もっと正確には別稿で紹介したトロバドゥール詩人たちの発明)です。ギリシャ・ラテンの時代にはルール化されない頭韻が不規則にでてくるだけでした。ギリシャ語は読めないながらもラテン語の文学作品に関しては通じていたペトラルカは脚韻だけでなくこの古典文学以来の伝統である頭韻も多用します。
 頭韻というのは行内部で隣接した単語の冒頭の文字(とりわけ子音)が同じことを指します。日本の和歌で有名な例は百人一首の「久方の光のどけき・・・」の部分です。h音が最初の二単語で連続しています。この和歌でわかるように脚韻よりも頭韻のほうが隣接したところで韻が踏まれるのである意味、インパクトが大きい感じがすると思います。
 我々がいま分析している序歌はどこで頭韻が踏まれていたか確認します。


上の画像の赤でマークしたところが頭韻です。第1連のs音、第2連前半のv音、後半のp音、そして何と言っても第3連のm音のしつこいまでの反復。実際に音読してみるとこうした頭韻がリズム感を作り出しているのがよく分かるはずです。そして第1連の摩擦音であるs音には黄色で示した流音のr音とか紫で示した破裂音のp音がしつこく絡みついているのもわかります。これらは頭韻とは呼びませんが、音韻上の印象には関係していると言えるでしょう。

 さて、詩法上の工夫はそれだけではありません。上の画像の青の書き込み(第1連)はアンジャンブマンenjambmentと呼ばれる技法です。ホメロスにさえ見られるテクニックなのになぜかふつうフランス語を使って「アンジャンブマン」と呼ぶが通例です。日本の和歌や俳句の世界では「句跨ぎ」と呼ばれています。要するに意味の切れ目と改行とをわざと一致させないテクニックです。
 現代歌人の俵万智さんはいまから数十年前に「サラダ記念日」という歌集でいきなり有名人になりましたが、この歌集の中にはこのテクニックを使った歌がものすごくたくさんあります。それによって斬新な印象を与えるのに成功したのでしょう。この歌集から2つほどアンジャンブマンの例をあげます。

 例1:大きければ//いよいよ豊か//なる気分//東急ハンズの//買い物袋

 例2:愛人で//いいのと歌う//歌手がいて//いってくれるじゃ//ないのと思う

 どちらも57577の句切れをスラッシュで示しました。例1もそうですが、例2は2箇所もアンジャンブマンが使われているのがわかるかと思います。
 あまりに調子が良いのは凡庸さにつながります。破調には自由さと創造性が感じられるわけですが、アンジャンブマンに関して言えば、その破調の持つ魅力ととともに、意味が完結しないうちに区切れが来るので、聞き手(読み手)としては、意味を理解しようと続く句に気持ちが惹きつけられます。「思わせぶり」という言葉がありますがアンジャンブマンはまさにそうした言葉で呼ぶにふさわしい技法に思われます。
 我らの序歌でもアンジャンブマンが1行目〜2行目に使われています(先ほどの画像の青のペンで示した部分)。1行目のascoltate… il suono「音を聞く」だけではなにかさっぱりわかりません。2行目のdi quei sospiri「ため息の」というil suonoを修飾する形容詞句がはじめて意味が完結するわけですが、その間、読者は1行目から2行目に慌てて視線を走らさせられるわけです。それがアンジャンブマンの効果です。

 語順転倒(英anastrophe 伊anastrofe)は散文の中でもいくらでも目にしますが、韻文のなかではなおさらです。多くの場合、アクセントや音節の数や韻を踏むための便法であるわけですが、そうした場合でも前述のアンジャンブマンと同じ「思わせぶり」の効果は生むでしょう。ソシュール的に言えば、散文との差異化が詩の本質ですから。
 序歌のなかでも明白な語順転倒が第2連と第4連の2箇所に見られます。上の画像に黒のペンで示した通りで、本当は下線で示した語句は、スタンダードな統辞法においては矢印で示した場所にあるべきです。

 以上、1枚の画像では煩雑すぎるので3枚の画像に分割して、ペトラルカがたかだか14行の詩の中で使っている主に音韻上のテクニックを説明しました。いろいろな要素が複雑に絡まり合い、ペトラルカ独特の「グルーヴ感(?)」を作り出しているのがわかります。

上の句・下の句

 脚韻と頭韻とアンジャンブマンと倒置と様々なテクニックを駆使して重層的に詩を構築しているということをここまで解説したわけですが、実はもっとはるかに重要なことがあります。
 ソネットは繰り返し述べているように4つの連、それぞれ4+4+3+3行から成り立つわけです。そして、4行から成り立つ連をquartina(複数形quartine)、3行から成り立つ連をterzina(複数形terzine)と呼びます。つまり14行のソネットを大きく2つに分割すれば前半のquartine2つと後半のternine2つにわけることができるわけです。前半と後半に分けることができれば、当然その巧妙な利用が要求されるのは当然です。和歌でも5+7+5を上の句、7+7を下の句と呼ぶわけですが、そう呼ぶからには相互の関係が意識されないわけにはいかないのと同じです。
 
 そもそも、ソネットは前半はリズミカルに、後半は少しゆったりしたリズムになることが必然であると考えられています。偶数行から成り立っていてabbaのような繰り返しがあるquartinaは当然リズムカルになるでしょうし、奇数行でefgのように連の内部だけみれば韻が踏まれていないterzinaはゆったりした感じなるであろうという意味での「必然」です。それに対しどの程度意識的になるかはもちろん詩人の自由に任されているわけですが、ペトラルカは一般的にいって極めて意識的であり、当該の詩に関してもそれがよく現れています。
 
 この序歌に゙関してどこが意識的なのでしょうか・・・まず、前半quartineと後半terzineで歌われる内容に時間差があることがわかります。前半はつらい(dolore)、ため息(sospiri)をつきたくなるような恋の最中にいるペトラルカが描かれています。それに対し、後半terzineにはその虚しさに気づいたあとのペトラルカが描かれています。
 前述のようにCanzoniereの366編の詩は前半のラウラがまだ存命であることを前提に歌った詩たちと亡くなったことを前提に歌った詩たちというように前半と後半に二分できるわけですが、詩集全体の構成をこの序歌の前半と後半に対応させているわけです。序歌である所以です。
 それだけではありません。もう一度改めて本稿に挙げた画像を見直していただきたいのですが、レトリック上のテクニックの殆どは前半に集中しているのがわかるはずです。前半の恋の苦悩を語る箇所では、頭韻が集中的に使われ、それがある種の緊迫感をもたらしています。ところが後半の達観したような心理状態を語るときにはそうした音素の連続がスッとなくなりあたかも音楽で言えば変調がなされたかのようです。
 そして唯一、後半terzineでも、過去の激情を思い出し恥ずかしさに苛まされるところだけは、そのときの激情がまた思い越されるかのように激しい頭韻が連続し、そしてすぐまた落ち着いたリズムに戻っていくわけです。
 別稿でダンテの神曲の出だしを解説したときにも書いたように思いますが、音韻のテクニックは常に歌われる内容と一致しそれと協調するときに意味を持つのがよくわかりますし、それが成功していることがこの序歌をイタリア文学史に残る不朽の名作にしているのです。
 

 




 




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