42で仕事をやめてヨーロッパ留学を決意した理由
40代ともなると人生が積み上がってくる。
けれど不思議と不自由になっていくこともある。
就職、結婚、出産、育児。
周囲の「しなければいけない」何かがいつのまにか自分の「しなければならない」ことになっていたりする。
過去をベースに自分はこうしないといけないなどと考えるようになる。
昔はもっと、思いついた時に感じた時にできる自由もあったが能力や経験が追いつかず悔しい思いをしたこともたくさんある。
何者でもなかった、本来の自分に還る
私は、本来であれば心のまま生きるような自由人で、人生で何より夢中になったのは、旅や新しい人やものや文化に触れたとき。
高校生までは制限された生活を送っていて、大学生になれば自由にしていいという親の意向で必死に勉学に励み、大学生になった瞬間に自分の願望が溢れ出した。
1番衝撃的だったのは、1番初めに行った海外がヨーロッパだったこと。友人に誘われて、フランス人のマルクという先生が学生をツアーで連れていってくれるということで、1か月ほどのフランス学生ツアーに誘われた。
絶対にフランスに行きたい!!
そう思って親に懇願し行かせてもらった。
そのころはユーロではなく、まだフランで
ご飯も宿もほぼついているツアーだったが今では考えられないくらい安かったと記憶している。
そこで感じたのは
ということ。
街並みが統一されていて美しく
日本みたいに建築物がガチャガチャでない。
あらゆるところにアートがあり美味しいものがあり、キラキラして見えた。
自分の心から見たかった世界だと思えた。
その後は世界旅行が楽しくなり、お金のない私は
バイトでためたお金をほぼ旅行に充てた。
学生時代は比較的安く行ける東南アジアがメインだったけど、卒業旅行は親に借金してエジプトに行ったのを覚えている。
それくらい、旅が自分にとっては大事なことだった。
辛い時飛び出す先は、いつも旅
大学生の時、突然母が脳の大動脈乖離で倒れた。
母方のおじいちゃんのお葬式の夜のことだった。一緒に寝ている私の横で呻き声をあげ、失禁し、涙ながらにおばあちゃんと叔母に助けをもとめたその時の光景が今でも忘れられない。
大動脈解離はその時手術できるのが日本に4人しかいない、しかも24時間以内に手術しないともう助からないという稀な病気だった。
奇跡的に、4人のうちの1人はその土地にいて、母は一命を取り留めたが左半身不随になると宣告された。
母はその時今の私と同じ40代だった。
山登りが大好きだった母はリハビリをするも、自暴自棄になり、私は母の代わりに今まで全くというほどやってこなかった家事をすることになった。家事は全て親がやっていた、それだけ恵まれた環境だったとも言えるが、ゼロからスタートだった。幸い父も一通りの家事はできる人だったが、仕事もあるし、弟は高校生だった。
私はいかに自分がなにもできないかを思い知らされた。
さらに追い討ちをかけるかの如く、就職活動も始まっていた。
私は勉強こそしてきたが、今思うと親の期待に応えるため、好きだった絵もバレエもやめて塾を選択し、
「いい学校にいけばいいところに就職できるから」という親の言葉と、「大学生になればバイトも旅行もファッションも自由にしていい」という言葉で頑張ってきた。
私の卒業する一個上までは本当にその通り就職しやすかった。
しかし、、私が就職する年は、
オイルショック以来の就職難といわれた。
もちろん選ばなければ、大学の推薦枠というのがある。
その時、銀行やITは推薦枠があったので、希望すれば
入れたのだ。
でも私はそのような会社に少しも興味がもてなかった。
私が興味ある業界というとファッションと出版。
でもこの年、出版社はことごとく新卒採用を辞めて選択肢が少なかったし、ファッションも就職活動は大変だった。
今までやってきた勉強はなんだったんだろう?
本当にそう思った。
家事もできないし、生きる力はなく、ここまで勉強したけど好きなところに就職もできない。
その上その時人生最大の失恋したあと。
母方の祖母は大学なんでいって変な学つけるくらいなら早く長男以外と結婚して!と。(私は長男の嫁に行けるタイプではないらしい)でも、家事もできないし
失恋して自分にはなにもないと思ってしまった。
母のリハビリは大変で、自暴自棄になると
私は友人と遊びに出かけることさえ妨げられることが多々あった。
大学生になれば自由になれる、という呪文からとけてまた一気に天から地に落ちた感じだった。
大好きだった家族やそのために頑張れた勉強なのに。
辛くて、逃げ出したい。
ついに私は家出をした。
友人3人と共に、友人がもってた軽自動車で親に何も言わず終わりのない旅に出たのだ。
終わりのない軽自動車旅
お金もない大学生だったので、海外に逃亡はできなかったが、軽自動車で東京から南下してどこまで行けるかやろう、といって男の子2人と女の子2人、
当時のバイト仲間と出かけた。
結果、本州最南端の和歌山県の潮岬までたどり着いた。
お金がない旅、和歌山県のいろんなみかん屋さんで箱ごとみかんを無料でたくさんもらったのを思い出す。
そのあたりまできた頃、親に電話で山ほど叱られ、しぶしぶ折り返したのを今でも覚えている。
でも、少なくともこの旅の間は見た景色も全てキラキラしていて毎日の生活が楽しかったのを覚えている。
それがあったからなんとかこの人生の最大難所を
切り抜けられたのだと思う。
世界17ヵ国、日本44都道府県
私が今まで行った海外と日本の数。
結局、ファッション業界に新卒で入った私。その後は一文なしの派遣からスタートして育児休暇を2年とりつつ、約20年で大企業でブランディングを任されるまでに(なぜか)なった。
その間、コロナになるまでは毎年の海外旅行は毎年かかさなかった。
年に1度、1週間は確実に休みをとり、
有給休暇も使い残したことがない。
妊娠中もメキシコのカンクンに行ったし、
子供産んだ後も、子供が1歳や2歳で
夫に子供を預けてごほうびとしてニューヨークや
ハワイに行ってた。
今思うと、自分を解放できる時間だったんだと思う。
どれだけ旅が大事だったのか。
コロナになり、海外にはいけなくなったので、その間
日本中いろんなところに行った。
1番思い出深いのは、四国一周旅。
子供2人と夫の四人で車で一周する旅を計画して
宿は決めず、目的の場所も決めずに
その日感じたところに行く。
子供がいるけど最悪車さえあれば寝れるし!!と言ってやった旅は、まさに学生の時した旅を思い出してした旅だった。
ついに日本も残りあと3県になったけど、
日本中を旅して日本はいいとこだと思いながらに、
自分が解放された気分になったことは本当に少なかった。
やっぱり海外に行きたい
コロナが落ち着いた頃、国内旅行はほぼ毎月のように行ってたが、結局海外ほどの満足感は得られず、
やっぱり日本から出たい。海外だ!!
と気持ちはなっていた。
毎年我が家では、年始に子供も含め今年の目標をかく。
私は「パリに行く」と書いてあった。
そして今年までの3年間はとにかくやりたいことをできる仕事だったし、自分でやりたいと志願して仲間を集めるところから全て覚悟してやった仕事だっただけに
この三年は有給消化は二の次、時短勤務だったけど、
時短どころか普通の人以上に働いてた。
ゴールし、倒れる
3年前に計画した、今年の仕事の目標が7月に達成できた。私が倒れたのは6月末。
倒れるというよりは、仕事に物理的にいけなくなった、のが正しい。
身体がフリーズして、仕事と向き合うと頭痛、めまい、吐き気が起こり、寝込んでしまう。
準備はほぼ全て終わってたので、本当に力尽きた感じだった。
パリ行きのことも
7月が過ぎたら行こうと友人を誘っていた。でもその友人も父親が倒れいけなくなり、、、
大好きで情熱を注いでいた仕事もいけなくなり、
旅も。
私は人生がすごく滞ったように思えて、思えば休んでからヨーロッパ留学を決めて仕事を辞めるまでずっと泣きながら生活してた。
泣きながら、不安になりながら、それを掻き消すかのようになぜか英語学習をはじめた。
なぜかわからないけど、
それは本能だったんだと思う。
会社を休業して
シャドーウィングをはじめて1〜2ヶ月たったあたりで
口が回るようになってきた。
休業、病気、いろんなことが重なり横でみてた
夫が言った。
フランス、娘といってくれば? と。
え?、、、、、、いいの?! 私。
フランス人保育士に英語を日頃教えてもらっている娘を誘ったら即OK。
娘は、世界を周ってファッションデザイナーになりたいんだとか。
ヨーロッパ留学へ
フランスは、はじめて海外旅行に行った場所。
でももう旅行ではなく、住んでみる。
をしてみたかった。
日本以外の、居場所を探しているんだと思う。
何年か前からずっと資本主義社会に疑問を感じていた私。
古をものを大切にしたり、自由やアートが当たり前のようにあるヨーロッパの価値観が、住んでみて本当に自分に合うのか、確かめる機会にもなると思っている。
なぜフランスだったか?はまた書きます。
ただ、目的地は、マルタでなくあくまでフランス。
娘と行くことになり、親子留学を英語でうけいれてくれるところはフランスにはなく、語学留学は海も近く行きたい国でもあったマルタになりました。
マルタ4ヶ月からフランス3ヶ月、
来年1月に6歳の娘と出発します。
最後までみてくださった方ありがとうございます。
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