【資料】エレノア・モードーント略年表

エレノア・モードーント(Elinor Mordaunt)は、筆者が調査した限り日本国内ではほとんどその存在を知られていない小説家です。発見できた唯一の邦訳作品は、旅行記 A Ship of Solace からの抜粋である、翔田朱美訳「船旅は猫とともに」(レスリー・オマーラ編『気ままな猫の14物語』、二見書房、1991年に収録)のみでした。

今回の拙訳「ある天才」をお読みいただき、モードーントに興味を持たれた方の便宜のために、この作家の略年表を併せて公開します。

この略年表は、以下の資料をもとに特に重要と思われる事項を抜粋して作成しています。より詳しい情報については、参照元をご覧ください。

  • Edmundson, Melissa. “Introduction”. The Villa and The Vortex : Supernatural Stories, 1916-1924, edited by Mellissa Edmundson, Handheld Press, 2021.
    (本書 The Villa and The Vortex はモードーント作の怪奇幻想短篇をまとめたアンソロジー。いずれ、この中から何篇か翻訳できればと思います。)

  • Serle, Percival (1949). "Mordaunt, Elinor". Dictionary of Australian Biography. Sydney: Angus & Robertson.



1872年 5月7日、St. John Legh ClowesとElizabeth Caroline Bingham Clowes夫妻の5番目の子供として、英国ノッティンガムシャーに生まれる(本名はEvelyn May Clowes)。父親はいわゆるジェントリ(郷紳)で、母親はアイルランドの第3代Clanmorris男爵の娘。

1877年(?) 5歳の頃、一家はグロスターシャーに移住。その後オックスフォードシャーに移る。

1890年代 二十代の頃、南アフリカで農業と金鉱採掘で財を成した、William Banks Wright という男性と交際し、求婚される。モードーントは彼と結婚して南アフリカに渡るつもりだったが、彼女の父が脳卒中で倒れたために結婚は延期となる。Wrightは仕事のためにいったん南アフリカに戻るが、同地で熱病に罹患し急死する。

1897年 いとこ一家とともに、英領モーリシャスに渡航する。

1898年 モーリシャスのサトウキビプランテーションの経営者、Maurice Wieheと結婚する。Wieheにとってこの結婚の目的はモードーントの一族とのコネ作りであり、結婚生活は最初から不幸なものだった。短い結婚期間中に、二度の死産を経験する。この頃から物語を書くようになる。

1902年 結婚から約2年半後、マラリアにかかり健康を害したことを機にイングランドに帰国する。実家で3か月ほど過ごしたあと、オーストラリアに渡航する(6月10日にメルボルンに到着)。初めての著書、The Garden of Contentment が好評をもって迎えられる。

1903年 3月9日、一人息子 Godfrey Weston Wieheが誕生。メルボルンで、縫製、布地やパラソルへの絵付け、刺繍デザイン、婦人向け雑誌の編集者、ライター、庭園の設計など様々な仕事で生計を立てる。庭園設計の仕事を紹介してくれた、Charles Bogue Luffman(メルボルンにあったthe School of Horticulture, Burnleyのカレッジ長)から、自宅に住み込んで女子学生の指導に当たってほしいとの依頼を受け、1903年末から2年間ほど彼の家に暮らす。Luffmanは恋愛関係になることを望んでいたが、モードーントはそれを拒絶。息子とともに借家に戻り、デザインなどの仕事を再開する。

1908年 長引く不健康に苦しみ、四度目の入院からの退院後、友人たちの強い勧めで英国に帰国する。実家に滞在しながら、短篇小説や童話を書いて収入を得た。

1909年 Rosemary: That’s for Remembrance がメルボルンとロンドンで出版される。

1911年 初めての旅行記On the Wallaby through Victoria (E. M. Clowes 名義)と、英国からオーストラリアへの旅を描いたA Ship of Solaceが出版される。

1915年 Evelyn May Mordauntに改名する。挿し絵付きの妖精物語集 Shoe and Stocking Storiesが出版される

1923年 『デイリー・ニュース』紙から、旅行記連載の仕事を勝ち取る。マルセイユを出発し、マルティニーク、グアダルーペ、パナマ運河を経由してタヒチに至る。タヒチから更に、サモア諸島、フィジー、ニュージーランド、オーストラリアのブリスベンを経由してパプア・ニューギニアに渡り、数ヶ月を過ごす。パプア・ニューギニアでは現地の人々に "Sinabada" ( "Lady King" の意)と呼ばれる。ブリスベンに戻り、そこからインドネシア(オランダ領東インド)、バリ島、ジャワ島、スマトラ島、セイロン島、ボンベイ、ケニヤを訪れた。ケニヤでは、大学卒業後に同地で暮らしていた息子とその家族に再会。その後更に数年間にわたり、南北アメリカを旅行する。

1926年 1923年からの旅をまとめた旅行記、The Venture Book と The Further Venture Bookが出版される。

1931年 Gin and Bitters : A Novel about a Novelist who writes Novels about other Novelists が、”A Riposte” 名義で出版される。同書はサマセット・モームの『お菓子とビール』(1930年)を揶揄する内容だった(※)。Gin and Bittersの作者の正体と英国版の出版予定を知ったモームは、モードーントを名誉毀損で告訴した。英国版の出版は中止となり、出版社は印刷済み在庫の破棄に追い込まれた。

(※)『お菓子とビール』は、出版の二年前に亡くなった文豪トマス・ハーディを揶揄しているとして、当時の人々に批判されていた。モードーントはハーディの妻と親友だったため、意趣返しとして Gin and Bitters を執筆した可能性が高いとされている。なお、この本の出版時に使われた偽名 "riposte" とは、「しっぺ返し、反撃」の意味。

1933年 Robert Rawnsley Bowlesという男性と再婚し、ともに英国からシドニーに渡る。この婚姻関係は短期間で解消されたと思われるが、モードーントの自伝でも詳しい言及は避けられており、詳細は不明である。

1930年代後半〜最晩年 ロンドンのチェルシーで暮らし、健康問題を抱えながら執筆を続ける。

1942年 6月25日、オックスフォードの病院で亡くなる。



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