暴れ放題の狂った馬、それが雑念だ。
ADHDの特徴の一つに過集中がある。何かを始めたら、時間を忘れてついやり過ぎてしまうのだ。
過集中はADHDにとってメリットのような点もあるが、逆にデメリットになることもある。
まずメリットとして、やり始めたことが案外あっさりとできるようになる。ADHDは一見、要領が良いように思われるだろう。その理由は人よりも集中して学習するからだと思う。
しかし問題はこの裏にくっついてくるデメリットにある。
飽きやすいのだ。
私が小学生の頃、計算ドリルというものがあった。これは授業で習った内容を反復練習するための問題集だ。
私は授業でわりかし簡単に解き方は理解できた。ひょっとしたら算数好きかも、位に思っていた。
算数はパズルのようで、解けた時に万能の力がこの身に宿る感覚を得ることができる。
私は自己愛が物凄く強いから、万能感を与えてくれる算数に愛着を持つようになった。
算数ドリルのやり始めは大変楽しかった。万能の私に会えるからだ。しかし、ドリルが進むにつれてだんだん難易度が上がる。そうするとできない問題や間違いが増えてくる。
私が算数に求めるものは、万能感を頂くことだ。しかしドリルの後半は私の求める万能感をくれない。いや、むしろ逆に無能感をまざまざと見せてくる。
そうすると飽きちゃうのだ。
飽きるというより、逃げる??
基本的に粘り強く努力できない。思想が子供というか、むしろ王子だと勘違いしているのだろう。
ドラゴンボールで言うとベジータ思想とか、フリーザ思想に近いと私は思っており、
「私は王子だから、努力とかなくても凄いんです、はい」
っていう感じだと思う。
これはADHDなのか??でもとにかく私はそういう人間なのだ。できればこの場ではADHDのせいにさせて欲しい。
そうでもしなければ日記の継続ができない。
無能感でいっぱいになってしまう。
大人になっても傾向は変わらない。私は完全に独学でデータベース理論を学び、マイクロソフトのアクセスでデータベースを作り上げた。
でも作り上げた途端に嫌になった。なぜならば、私が作ったものを最も簡単に凌駕する改造を他人がやってのけたからだ。
無能感、そして襲ってくる飽き。というか逃げ?
他にも、完全に独学でVBAでスタンドアロンの学習ソフトを作り上げた。これでテストの実施や研修のコストを一網打尽に下げることができた。大変やりがいのある仕事だった。
でももう今は嫌になった。
そう、
他者の方が凄いの作ったから、無能感を感じちゃったんだ。逃げたんだ。
飽きてない、逃げてるだけだった。書いてみるまで分からなかった。
こんな感じで始めると勢いがあってやり切るが、やり切った後の虚無感とか、他人の方が優れている事への無能感を終止符にして突然興味が無くなってしまう。
こんな調子で私との瞑想の出会いも始めは興奮に満ちていた。
「瞑想でADHD傾向が抑えられるの?うっそマジで?うっかりはちべぇとお別れできるの?やったぜ!」
と思い、私は瞑想との出会いに完全に舞い上がっていた。
しかし色々と調べてみると、どうやら継続しない事にはADHDのような問題には効果が得られないらしい。
さて困った、
多分飽きるぞこれ。
私の性質のタチの悪さに一抹の不安がよぎった。
しかし実際に瞑想でやることは単純だ。
1,凛とした姿勢になる
2,呼吸に全意識を集中する
3,雑念が湧いたらそっと呼吸に戻る
以上だ。
だからこそ、私はこの取り組みに飽きてしまうと思った。あまりにもやることがないからだ。きっとすぐ辞めちゃうだろうと思った。
しかし瞑想を始めて思った。
メッチャむずい。
特に雑念だ。
私の頭の中はたとえ無心になれたとしても、およそ10秒で雑念まみれになる。
おそらくADHDの特徴にある「多動性」という性質のせいだ。
脳の動きも、この多動性の傾向というものがあるようで、健常者の「雑念湧いてくる度合い」に比べておそらく私は驚くべき雑念の湧き方をする脳を持っているようだ。
ほんの一部だが、思い出せる限りで私の雑念度合いをここに記そう。
雑念は川にそっと流して放置するのがいいと書いてあったので、いつも私は川をイメージする。しかし具体的な映像の川をイメージしてしまうと雑念連鎖が止まらないので、真っ暗闇に流れる川に腰まで浸かっている様子を思い描く。
これなら雑念は映像的にほとんどないため、集中しやすい。
もしこの川が小さい頃に育った土地に流れるとある川を想像しようというものなら、とある高校の校門にある橋の上でヤンキーに呼び出され、どうして呼び出されたのか説明もないまま「オラ!お前俺のことなめてんだろ?舐めてんじゃねぇよ!」と30分くらい怒号を浴び続けた記憶がよみがえってしまう。
しかもそいつはどういう訳か私の家に上がり、俺たちはもう友達だよな?と言い始め、次の日も家に遊びに来る事になり、そこで将来の夢は親友の私だけに教えてくれると言って、車のチームのトップになって高速道路を100台の車で走る事だと教えてくれ、100台の車を車線変更させる方法を活き活きと語る彼のことを思い出してしまうというか、あれ、私何を考えているんだ!あ、そうだった瞑想中だった!
とまぁ今日の瞑想はこんな感じだ。
こんな感じの雑念は当然誰にでもあるだろう、私でなくても、誰だってつい思い出してしまうだろう。
思い出は多い方が良い、しかし瞑想中に限って言えば少ない方が助かる。波瀾万丈の人生は瞑想と相性が悪い。そう思ってしまう。
しかし実は瞑想ではこの雑念がむしろ脳の特訓に役立つようである。
search inside yourself
という本によると
雑念に気付き、そっとまた呼吸に意識を戻す、ここに最もトレーニングの価値がある。
的なことが書かれている。
そう、私は雑念が噴水のように飛び出まくるので、むしろ修行の場としては恵まれているのだ。
つまり雑念が湧いてこないのであれば練習のしようもない、という事だ。
そういう事ならと、頑張ってみるものの、まぁこれが難易度激ムズのモグラ叩きゲームでもやってるかのような時間だ。
息が荒げてきてしまう、瞑想なのになんか呼吸が上がってきて、ハァハァ言ってる時もある。
もちろん、筆舌に尽くしがたい雑念も当然だが湧いてくる。しかし、私は大人なのでここでは筆跡すまい。
雑念は手綱のない狂った馬のようなものだ。それが瞑想中であろうとも、馬の知ったこっちゃない。どこで何を考えようとも、この世界には一切ご迷惑をお掛けすることはない。
暴れ放題の狂った馬、それが雑念だ。
もしこの馬を文にしてしまったら、それは公序良俗に反するであろう。それくらいADHDの私でも分かる。
とにかく、この取り組みの結果、私はどう変わったのかというのは次回に記そう。