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『アメリカへようこそ』 マシュー・ベイカー

とてもパワフルな短編集。
着想の多彩さ、ストーリーの面白さ、文章のバイタリティ、どれを取っても燃料満タンの、エネルギーに満ちた一冊だ。

想像の斜め上をいく想定は新鮮な驚きであり、ストーリーのあまりの予想のつかなさに夢中になってしまう。
一編ごと、どんな設定が現れるのかと期待しながら読み始めるのが楽しい。

人が精神を全てデジタル・データに変換して肉体からコンピューター・サーバーへと「変転」することが可能になった世界。(「変転」)
犯罪を犯すと国家によって過去の記憶を消される世界。(「終身刑」)
「女王陛下の告白」は盲目的なミニマリズム/シンプルライフ信奉へのポップなアンチテーゼでもあり、「スポンサー」は資本主義社会をコミカルに皮肉っている。
世の中が全て女性だけで運営され、人間の男は「生物園」の中で管理されているという世界を描いた「楽園の凶日」は、男性読者にとってはいたたまれない一編だろう。

奇想天外な設定は人間の社会というもののグロテスクさを写し出すが、物語が取り扱っているのはもっと普遍的な、人の心の動きという題材である。
設定は現実社会の様々な側面から着想を得ているものの、その作風からは風刺や問題提起の意図は感じられない。作家の興味はむしろ純粋に、人間そのものにあるのだと思われる。
私達の常識とはかけ離れた世界設定ながら登場人物に感情移入して読めるのは、奇妙な世界と言えど、そこに生きる人々の感覚が極めて私達的だからだ。

老人が親族を集めてその目の前で自ら命を断つという「儀式」が行われている世界を描いた「儀式」の作中では、老女を載せたボートが燃えるのを見て激しく泣いた人物に対して親族は後で陰口をたたく。

「恥晒しだ」
「祝いの場が台無しになるところだった」
「最初から言ってたじゃないか、あの人は社会がわかってないと、反社会的だと。招待なんてすべきじゃなかったんだ」

肉体的には健康体ながら意識や反応を全く伴わない「からっぽの赤ちゃん」が突然生まれ始める「魂の争奪戦」では、こんな会話がなされる。

「ですが、もしこの病気が拡がったらどうなります?」
「この現象を病気と呼んでいいのかすら、まだよく分かっていないんですよ」
「病気じゃないとしたら、他にどんな可能性が?」
「それはまだ分かりません」
「今後も同じケースが起こり続けるんでしょうか?」
「それもまだ分かりません」

そこにいるのは、奇抜でもなんでもない、ごく一般的で常識的な人々なのである。

また、「売り言葉」に登場する内向的で繊細な兄弟は、「僕たちはイエスという意味でイエスと答えたのではなく、本当はノーと答えたくても臆病でそう言えな」いのだという、よく世に言われる日本人的な性質の持ち主だ。よく世に言われる自己主張を旨とするアメリカという国ではさぞかし暮らしにくかろう。


作者の自由自在な発想力が創り出す奇天烈な世界の中で、ごく普通の人がどう生きるのか、その一例を見る面白さがここにある。
それと同時に、極端な世界、不条理な世界だと思われるその世界が、科学、物質、倫理、あらゆる面で飽和状態に至っているという点では私達の現実の世界と同じだということにもふと気づくのである。
これを読んでいる私達自身の世界は極端ではないのか、不条理ではないのか。ちょっと考えてみたくなる。

僕が感じているのと同じ欲求を、このどうしようもない欲望を他の人々も感じ、何世紀もの昔にその欲望とともに生き、死んでいったのだ。これから先にもそうした人々が生まれてくるのだ。

「売り言葉」


鮮烈な新しい文学ながら、レイ・ブラッドベリ、リチャード・ブローティガン、カート・ヴォネガット、ニコルソン・ベイカーのエキスも感じられる。
まさに「アメリカへようこそ」の題に相応しい、堂々たる新世代のアメリカ文学だ。